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Posts Tagged ‘デザイン=かたち’


『資本主義からの逃走』
   「ケータイから消滅した「かたち」への総批判」


   


     12月 1st, 2010  Posted 12:46 AM

いわば言いがかり文句
日本のガラケーがようやく進展しました。
よかった、とひとまず安心です。
しかし、iPhoneの存在にこれほど影響されていて、
私は、「創造性」・「オリジナリティ」がまったく失われていく傾向を悲しく思います。
もっとも、私自身がデザイナーであるのだから、
本来なら、「私だったらこうする」ということが提示できないのに、
批判など出来るわけがありませんし、そんなことを表明すること事態を随分悩みました。
自分にまったくデザイン経験していないデザイナーはデザイナーでなく評論家ですから、
私も今回はその一人だと思っていただいて構いません。
けれども、私の教え子たちもケータイ・デザイン担当で苦労しているのを知るたびに、
何事かをサッゼッションしなければいけない、と思うのです。
煽動的表現・ブーメラン効果
だから、とても大批判的なタイトルでアジテーションを書きとどめておきたい、と考えてきました。
「ケータイからかたちが消滅している」とまで煽動的表現として、
結局は、天につばすることは百も承知です。
自分で投げたボールは、もっと高速度と質量で大きなエネルギーとなって、
自分に大けがを負わせることも覚悟しています。これは「傷つくブーメラン効果」です。
私はデザイン界に棲息してきてそんな経験ばかりしてきたと思います。
「あの時、あんな発言」をしたばかりに、いまなお、私自身がさらに深傷を負うでしょう。
ところが、実は、その当時の大問題は、経年ですっかりと解決がついてしまうことや、
その当時の大問題そのものが忘却されることも随分と経験をしてきました。
結果、私は発言した限りはその反発は当然だと覚悟していることも事実です。
多次元アイテムのかたち
さて、話をケータイに戻しましょう。
ともかく、デザイン=かたちに集約と収束する、このことを下敷きにして述べます。
断言すれば、「Smart-Phone」という呼び方をしないモノづくり、
そのデザインをすれば、必ず「かたち」が変わるでしょう。
変異し変位し転回し、そしてまったく変貌・変身してほしいのです。
理由は簡単です。
二つの断言
人間が「身につけるモノ」として、時計・めがね・指輪とかを思いつけば、
ケータイは身につけるコンピューターであり、
メディアであり、ツールであり、アクセサリーなのです。
それも大量の性能性・機能性・効能性を、しかも「現在の情勢報告の機器・機械・通信から、
まさにお財布でありIDカード」まで、これも多次元なモノとしてのファッションアイテムなのです。
とするなら、「ケータイのかたち・対・かたちとしてのケータイ」まで、
その次元のどこにポジショニングされているかということになります。
断言は二つです。
  ●「なんとかPhone」とアイテム名称は変えます。
  ● 「ユーザーセンスを表現・使い手個性」の演出カタチ。
この断言の意味づけから「かたち」・造形デザインを第一義にすることです。


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『資本主義からの逃走』
   「やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則」


   


     11月 30th, 2010  Posted 12:00 AM

「デザイン=かたち」
私はデザイナー、死ぬまで言い続けるでしょう。
そしてデザインしたモノに「かたち」を与えます。
必ずや、「デザイン=かたち」の世界観に自分の存在があります。
しかも「かたち」という「カタチ」はありえないことが肝要です。
知覚から認識
「かたち」はまずは視覚化が大前提です。
次に「触覚化」できれば、見て触って確実に知覚できます。
知覚によってこそ、認識できるわけです。
私は、「聴覚のためのモノづくり=機器デザイン」から、
デザイナーという職能家になりました。
若いときには、「聴く・聞くカタチ」があってほしい。
それは音楽というかたちでは無いモノを追いかけてきました。
そのおかげで、「きく・かたち」=聴覚という知覚を体験する幸運に恵まれ、
今なお、いわゆるHi-Fi機器で日常生活を包み込んでいます。
だから、Hi-Fi機器には、ほとんど他人には分かってもらえない領域や機器世界観があります。
この世界観と生きてきたことも最高の幸せに恵まれていると思っています。
したがって、見る・触る・聴くカタチが「かたち」には在ると確信しています。
知覚・認識という実感は
ということで、突然、電話、それもケータイデンワのかたちを取り出すことを思いつきました。
その知覚性が認識に至ることは、現在の大きな「かたち」認識のことにつながっています。
ともかく、このことを厳密に熟考すれば、
大変に重大なことを知覚・認識、すなわち「人間として生きている実感」、
その世界観に至るだろうと予想するのです。
結論を急ぎたいのですが、
とても大変に大きな誤解を文意に書き残しそうなので、ここまでとしておきます。
結局は、「デザインするかたち」と「かたちとしてデザイン」されたこと、
どっちが先かということでもあるのですが・・・。


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