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『見慣れている「場」のデザインは感情を撹乱している』


   


     7月 31st, 2017  Posted 1:22 AM

私の視線は車椅子上からは常に40年間一定です。
そしていつも気持ちがおかしくなるほど、
「変なデザイン」だと思ってきたのは
駅のプラットホームのこの不自然さなのです。
多分、これほどこの不自然さすなわち美しさなど皆無の「場」に、
大きな疑問を言い出すのは私ぐらいでしょう。
しかもそれなりに「鉄ちゃん」の一人なのです。
それは鉄道大好き人間なのです。
なのにこの不自然さを今主張しなければなりません。
日本が誇る新幹線の鉄道と点字ブロックが際立っている対比に、
美しさが大欠落していることに人間全てが目覚めてほしいいのです。
確かに、鉄道に誘導されている新幹線のデザインは、
車体デザインだけでは現在の駅・プラットフォームの「場」が、
破壊されていることに、感性を封鎖していることに気づくべきです。
それは風鈴の音がうるさいとか、
除夜の鐘は辞めるべきだとかラジオ体操の音、
子ども達の歓声が耐えがたい、
こうしたクレーム感情に連鎖したのだと思っています。
それならどうしてこの「場」の不自然さ、美の欠落にこそ、この感情、
すなわち、心の中に流れるドロドロの感覚を、清々しい感覚にすべきです。
プラットホームから、駅空間と列車のデザインは大変革をすべきなのです。

* 「メランコリー=悲哀・憂鬱の全否定が慈愛デザイン」
* 『もっと豊かな鉄道システムの統括デザインが急務』
* 『Zゲージで再確認するトランスポテーションの美しさ』
* 『いつも、なぜなんだって思う点字ブロックのこと』
* 「 視覚空間は存在しないことを認識する必要がある」


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『資本主義からの逃走』
  「メランコリー=悲哀・憂鬱の全否定が慈愛デザイン」


   


     6月 29th, 2010  Posted 12:00 AM

メランコリー
「悲哀」は「憂鬱」と同義だと述べました。
そして、melancholy・メランコリー=憂鬱は、
「感情」という古代中国の解釈とまったく一致していることに
私は驚いたことがあります。
人間の感覚には、「感性」と「感情」があります。
そして、古代中国、すでに「感情」の「情」として判断されていたことは、
青い=黒を意味しているドロドロしたものが心に入り込んでくることを
「感情」と意味していたわけです。
同様に、古代ローマ・ギリシアの医学用語として、
メラン=melan=黒い、と、 コレ=chole=胆汁から
「melancholia」ということで、
陰鬱でまったく無気力、想像力の起こらない気質性を
黒胆汁性=melancholikosとさえ呼称づけられていたようです。
憂鬱性という病性と憂鬱という気質は精神病と位置づけられました。
占星術でも、火星とか胆汁などを読み取っていました。
画家デューラーに、羽を持つ沈思する女性の銅版画《メレ,ンコリア・1》や、
ミケランジェロ《ペンセソーロ(沈思の人)》などの作品も現存し、
その背景も語り継がれています。
R・バートン『メランコリー(憂鬱)の解剖学・1621』は、当時のベストセラーであり、
F・フィチアーノ『人生の書(Liver Veta)』は、新プラトン主義としての解釈があり、
天才など傑出した人物には鬱的な沈思気質がある、
とまでメランコリア=感情的な悲哀性が語られています。
わが国では蘭医学としてメランコリア=「默朗格里亜」=胆液敗黒病とまで当て字化され、
J.ゴルテル著作を宇田川玄随が邦訳・《西洋内科撰要》や「鬱証」・「鬱愁」・「鬱狂」など、
この精神的疾病は多くの訳語が与えられています。
そうして、近代医学では、depressionという新語と新定義が当てられるようになりました。
dpressionは経済用語となっている「不景気」をも意味しています。
沈思黙考
私は、メランコリーという言葉の響きは、
どこかに「沈思黙考するロマンティックさ」を感じますが、
病的意義が原意だったとすると、現代語の「ネクラ」に相当していると思います。
「感情」の発揚としてのマイナス性として、
世界的な歴史での人間の気質性に、
「ドロドロとしたことが心の中に貯め込む」という意味がありますが、
これが悲哀・憂鬱であり、
これを解放させる「慈愛」との関係性、
この関係性づくりにデザインを当てはめています。


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