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Posts Tagged ‘ファッションデザイン’


『デザインは解である』


   


     8月 26th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザインの本来の意味として、
通常の理解である装飾性との距離感を主張してきました。
デザインと言えば、大きな誤解が薄く張り付いています。
一つがデザイン=装飾性がファッションデザインに起因し、
もう一つが機能的とかシンプル性が、さもデザイン核心という話です。
デザインはその造形によって「答」を出す実務です。
それゆえに「答」には、三つの「答」があるという深度性に及びます。
話題=topicsに対する応答=reply
課題=questionに対する回答=answer
問題=problemに対する解答=solutionの三つの答を出すことであり
最もデザイン力が発揮されるべきは、問題解決に集約します。
私はデザインが問題解決であることから、
最も的確に説明を与えるには「解」という象形文字を例示します。
象形文字であることから角ある牛に刃物でこの文字は構成されています。
そこで解決には三つの段階が明快になってきます。
解体・解剖・溶解するなりして対象を分解することから始まります。
次にはその分解された要素を一つずつ、解釈・解説をして理解をします。
この理解によって、人は納得をして解放されるということになります。
さて、そこで問題は、答それぞれにはどこに装飾性や機能性が、
一般の理解では、デザインによる解放感は得られません。
デザインが応答的や回答的なことであれば、
論理性を欠いた機能性は説明がとても困難だと言えます。
現在のわが国の産業でのものづくりが、応答や回答ではとても、
国際的な競争力を持つことはできません。そのまま経済に反映します。
私は、問題解決によって、性能性と効能性が完備され、
ようやく機能性を確保できることを、教育・研究・開発に伝え、
デザイン実務で、人間は解放されると主張してきました。
その解放とは、「美しさ」が解答の造形であるモノとコトというのが
私のデザイン=解の結論です。


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『始めてオーダーをしてみる+NIKE ID』


   


     8月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

先般、韓国チャンシンINCから、阪大の私の研究室に、
デザイン発想法の研修申し込みが届きました。
発想に関わる手法ならば決めてもらったことで、ということになり、
引き受けたところ12名ものメンバーが来てくれました。
最初、英語でしたが、スタッフにいる韓国人にすべて通訳となり、
英語・韓国語が交差する面白い交流ができました。
私からのテーマは「図解発想=DIAGRAM DEVELOPMENT」を出し、
事例は質問に合わせて、沢山の質問を受けながら進めました。
私はマインドマップ法などは全く意味無しと考えていますから、
「図解発想法」は相当に練り上げた思想からの発想手続きです。
いづれ教科書をと考えている一つです。
彼らの日常ワークはナイキ等を主体にしたシューズデザインでした。
シューズだからといって偏った装飾的なファッションデザインでなく
彼らにとっては、問題解決の発想だったことは全く正解でしたから、
この発想法では、ブーレーンストーミングなどの無意味さも指摘。
発想手法は、これまでのデザイナー経験では相当にあると思います。
彼らからは、私とワイフにシューズをいただきました。
ワイフはとても喜んでいて、それで思い出したのです。
2001年、Gマーク審査委員長の時にグランプリ候補だった、
NIKE IDのオーダーシステムを自分のシューズ発注をと考えて、
最も最先端シューズ、新素材構成をMacでやってみました。
この手続きはとても分かりやすくて、注文をしました。
受け付けました→生産に入りました→・・・と連絡が来ます。
審査時には日本人ならではの発想でしたが、もう15年も前に、
オーダーシステムは出来上がっていたのです。
おそらく、これから3D-Printingとの関係はこのネットワークです。
発注で試行錯誤を楽しみ、生産と受取までの交流が可能なことです。
私は、この方式は本当に素晴らしいと思っています。
そしてその時には、どうもChromeOSが最適な気がしてなりません。

NIKE iD


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「加飾すること=ファッションスタイルは最初提示の効能」


   


     9月 5th, 2013  Posted 12:00 AM

「スタートレック」3D映画を観ました。
1960年代のこの物語りには24世紀までがきわめて正当な風景です。
そして3Dの映画表現技術の進化をとても実感しました。
登場人物のファッション、
いづれあのようなスタイルになるかもしれません。
最近、私自身、本当にネクタイ大好きですが、
ネクタイをすることが無くなりました。
そしてワイシャツも襟が高めになり、第二ボタンには、
このような開襟スタイルを補助する加飾ボタンを選んでいます。
友人にも、時折、プレゼントしたりしています。
これまで、どれほど夏が暑くても、夏期用のネクタイ選びは、
それなりに楽しかったものです。
また、ノーネクタイは、どこか拍子抜けスタイルでしたが、
特に、今期の猛暑ともなると、開襟のスーツスタイルに対して、
全く違和感が無くなってきました。
そういうこともあってか、この加飾ボタンは一つのファッション、
そのスタイリングです。
ファッションへの価値感はほとんどが、
「好きー嫌い」だけでの商品選びに頼っていることだけや、
ファッションブランドへの好み性に寄りかかっています。
私はファッション商品の価値感をさらに価値感アップするべき、
ということをファッション企業にも発言しています。
私がワイシャツメーカーがこの加飾ボタンを提示してきたとき、
ある種のささやかな感動をしました。
ファッションの大前提は、
装飾性・加飾性が存在演出の効能になっています。
ファッションデザインは「効能性」表現、その価値提示です。
したがって、「好きー嫌い」だけでは、
企業の商品づくりは間違っています。
昨年から、ふるさと福井の繊維に取り憑かれていて、
確実に、織物や編み物、繊維の新素材開発へ発想を向けるとき、
「加飾」効能が、
ファッションデザインの要機能だと思っています。
多分、今世紀からネクタイの効能は薄れていくのかもしれません。
スタートレックのファッション予知、理解可能です。


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「こういうのは『デザイン』ではありません」


   


     8月 30th, 2013  Posted 12:00 AM

最近、靴を注文するときに、私は様々に要望します。
以前に思いつきから靴紐を赤色にしました。
そうしたら、イタリアのファッション誌でもそのような記事発見。
「だよなー」と一人満足していました。
バックスキンはそれほど好きでは無かったのですが、
詳細な手入れ法を聞いたら、注文をすることになりました。
もちろん、好きなブルーを選び、
ある女性靴ブランドの底面が赤に拘っているので、
ソールの張り替えをお願いしました。
1ヶ月ほど待っていたら、それが出来上がりました。
当然にも、他の靴類はソールは赤に染めてもらっています。
偶然にも男性用のソックス店舗で、見つけたソックスにも、
赤と青を基調にしてイニシャルも刺繍してもらいました。
さて、これを「デザインした」というのは間違いです。
言わば、靴とソックスへの要望はファッションへの拘りですが、
ファッションとデザインの関係は、絶対に明確にするつもりです。
バックスキンの靴、靴下への自分自身への要望は、
確かにファッションデザインだとほとんどの人が思っています。
しかし、これはデコレーションとして、
自分の身なりへのファッション、その拘りに過ぎませんが、
私が主張しているデザインと問題解決の関係に置換できません。
勿論、靴メーカーはソールを一度剥がしてから、
私が要望する赤いソールで外観的な装飾性をしてくれました。
これを私は全体に「デザイン」とは呼びたくありません。
ファッションは時代性との共時や、自分の社会的な存在、
私流には「ファッションの効能性」があります。
けれども、これは「デザイン」では無いと断言します。
私は自分の持ち物からファッションに関しても、
「自分らしさ」の演出デザインと呼びうるコトがありますが、
あくまでもファッションとデザインの関係こそ、
「デザイン」の本質を語る上での定義を明らかにするつもりです。


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「赤い靴はーいてた♪・・・靴紐は赤に!」


   


     11月 16th, 2012  Posted 12:00 AM

靴選びは、メガネ選びや万年筆選び同様に私の趣味です。
幸いなことに、私は歩きませんから、
靴はまったく傷みませんのでいつも新品のままです。
靴選びは、ファッション雑誌・ブランドショップ・インターネット、
そしていくつかの靴屋さんです。
京都・寺町通りにあるお気に入りの靴屋さんがあります。
先般、男性ファッション誌を見ていたら、
赤い靴紐と赤いソックスのファッションデザインを一瞥しました。
そして京都の靴屋さんには、スペインブランドの新作がありました。
靴紐が赤でした。
女性靴ブランドでは「ルブタン」の、靴中がレッドです。
男性モノだとオーダーしなければなりませんが、
この新作は靴中もレッドでした。
ある著名な経営者I氏が、天ぷら屋さんで食事中に、靴を脱ぎました。
「わぁ、きれいですね、美しい靴ですね」と言ったら、
「やっぱり、君はそうやって感動するね・・・」
「えっ、・・・どうしたんですか?」
「最近のデザイナーは、これを見て何も感動してくれない」、
ため息をつかれて、
我が社のデザインはダメかと思っているとまで嘆かれました。
そんなことがあってから、
ことさら私は靴にも気を抜かなくなりました。
徹底的に靴の先から頭髪に至るまで、
自分の外見はデザイナーでなければいけないと思っています。
したがって、これから靴は、
靴中・靴底・靴紐、そしてソックスに至るまで、
私は「自分のためのデザイン」に気を配ろうと思っています。
すでに60還暦も終えましたから、なおさらジジィはきれいであるべきです。
赤いソックスと赤い靴紐は素敵です。
20代の東芝時代は、なるべく「脱サラリーマンファッション」でしたが、
ふるさと福井でデザイン活動していた30代は、
絶対に、ワイシャツは白、ネクタイはできる限り地味にしていて、
ある時、銀行の頭取に聞かれました。
「川崎さん、あなたはデザイナー?」って。
私は成功したと思っていました。
デザイナーぶると「遊び人的ファッション」になりますが、
それはデザインすら誤解されます。
40代で毎日デザイン賞を受賞して、ファッションを開放しました。
ファッションへの拘りには、哲学が必要です。
最近はノーネクタイが一般化しました。
しかし、ネクタイをするという身だしなみは不可欠です。
だから、「赤い靴はーいてた♪・・・」、
このメロディを耳鳴りにするファッション性は、
熟考し身体化することだと思っています。


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『資本主義からの逃走』
「*ファッション、モード、そしてデザインの使命*」


   


     4月 16th, 2010  Posted 12:28 AM

MODE
ファッションは単なる「外見」ではありません。
それは言うまでもないことだったと思います。
けれども、
「外観」までを包括している現代思想表現だと言っておきたいのです。
そうして、外観からの内実性を「モード」としたのは、
ロラン・バルトの「体系化」論でした。
私はこれをファッションとモードの「イオン化傾向」的思考、
そう考えてきました。
流行
したがって、この「イオン化傾向」の急変さや突然さが「流行」であり、
流行のレトリックにモードを構造化できるとも読んできたのです。
具体的には、流行による「外見」から、「外観」を認識します。
さらに「外観」からその内実に迫れば、
ファッション的なモノの本質に近づくことができるかもしれません。
これがデザインとファッション、デザインとモードを、
ひょっとすれば接合や融合や、あるいは合体させてくれるかも知れません。
そんな思考方法が必ずあると考えてきました。
なぜなら、デザインで流行を拒絶させたい、
そんな意志が生まれることもあるからです。
つまり、流行であるから、
そんなに驚喜していることは狂喜に近いという
冷静さが知性だとさえ思うのです。
また真逆に、流行を常に追い求めないと、
いわば大衆的な欲望の本質が読み取れない。
こんなことも容認しておかなければなりません。
しかし、いづれの判断もロラン・バルト的には
「モードの体系」に組み込まれているのです。
結局、それは人間の価値感の変動、
それは「景気」と同次元なことが多いと考えられるからです。
これは明らかにモードであり、
社会の変動をコードとしてテキスト化することへの抵抗を、
人間は「自由意志」として持っているということです。
CODE
「景気」予測は決して「コードの体系」、
たとえば、経済学、あるいはそれこそ「資本論」など、
そうしたところに記述されたことから感じとることはできないのです。
理由は簡単です。「快楽性」が皆無だからです。
しかし、ファッション、モード、ひょっとしてデザインには、
「快楽性」・「快適性」は必ず潜んでいます。
デザインは、決して「コード」を創出する営為ではありませんでした。
しかし、デザイン対象を拡大するとすれば、
「コード」≒制度設計は確実に存在します。
ファッションとして言い直せば、
モードとしてのカジュアル性に対して、
コードとしてのフォーマル性があるということです。
したがって、デザインの本質は、
この均衡状態を見いだすことだとさえ私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
「*ファッションは、”外観”だが、”外見”という軽さ*」


   


     4月 15th, 2010  Posted 12:20 AM

外観と外見
DesignとFashionがなぜ、一直線なのでしょうか。
これはなんとなくわかる気がするのです。
それはズバリ、「外観」=見栄えということが、
たとえば、服装のセンスだとか、そこから始まって、
遂には、企業のイメージ、というのも「外観」だと思うからです。
「外観」という言葉に詰め込まれている、本当は充実した中身ではなく、
「外観」だから外側だけという印象があります。
言葉を比べてみるとわかりやすいかも知れません。
「外見」と「外観」です。
時に、次のような言い方があります。
「人を外見で判断してはいけない」というような言い方です。
この忠告があるということは、
人間は「外見」で判断していることが極めて多いということです。
しかし、「外観」というのは、建築ではこの言葉はよく使われます。
「建築外観」、つまり、建設されて出来上がった形を言います。
この場合は決して、「建築外見」とは言いません。
外側を「見る」というのは視覚的に限られますが、
外側を「観る」というのは、
外側からの視覚的な印象をさらに深く洞察するのでしょう。
もし、建築家の方に、
「作品の外見が・・・」とか言うのは失礼でしょう。
というわけで、実は、
ファションは「外見」ということに近い気がします。
デザイナーになって以来、
今でも「デザインって、外見づくりでしょ」ということは
よく耳にします。
だから「外見づくりが、人工心臓?、原子力?、なぜ?」
「メガネ?、それはよくわかる」という体験をしてきました。
ファッションは「外見」に拘ってきたことかもしれません。
しかし、「ボロは着てても心は錦!」というフレーズがあるくらいです。
ファッションの意味性
ファッション」の意味と意義は、
資本主義と民主主義で大きく変わっていったのです。
「ファッション都市」という地方活性化などは、
現代性や共時性を地方に呼び込むことで、
経済と文化を実りあるもの、
「外見」というようなイメージから「外観」というイメージに
大きく変革する政策だったのです。
無論、この政策の成功例はありませんでした。
それは、ファッション=「外観」ならば「内観」は?
「何が内観となって」、
それはファッションの反事象なのだろうか、
この問いかけが皆無だったからです。
結局、「外見」と「外観」を区別し分別する知性対象に、
ファッションはなりえなかったのです。
ファッションが「外観という内実性」を指示した言葉がありました。
MODE
それは、「モード」だったのです。
ファッションとモードには、
いわば「イオン化傾向」のようなものを、
突き詰めて現代を観る思想が登場してくるというわけです。


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『資本主義からの逃走』
「*ファッションそのままデザイン、着こなしのDandyism*」


   


     4月 14th, 2010  Posted 2:13 AM

Fashion
Designを語るとき、ファッションとの関係を話します。
それは、「デザイン」という言葉、
この言葉は「洋装デザイン」として戦後定着したからです。
だから、デザイン・ファッション・流行が一直線上にある、
そのことは至極、一般的な認識であり、常識だと思っています。
そこで私は、この普遍的なデザインファッションについて、
それは現代の大げさに言えば、
資本主義との密接さを語るために記述しておきます。
私のファッション感覚です。
男がファッションを意識し始めるのは、私は学生服からでした。
高校時代には「仕立て」てもらっていました。
中学からの憧れでしたから、
母はその想いをすぐに聞き入れてくれました。
高校指定の規則がありましたが、そのままですが、
校章入りの金ボタンでも、その下はファスナーで、
最上級の布地でした。いわゆる礼服と同等の布地でした。
大学時代には、なるべくスーツとネクタイで登校する友人もいました。
だからジーンズよりも、スーツ姿をなるべきいっぱい見てきました。
企業に就職したら、粋がって、ドレスシャツや、
とてもサラリーマンとは見られないことをしていたようです。

ふるさとに帰ったときは、
如何にデザイナーっぽく見られないか、ということで、
ワイシャツは白、地味なネクタイ、髪も短めを意識しました。
それこそ銀行員のように見られることを戦略と考えました。
二つの理由がありました。
まず、デザイナーという職業は
服装からも「遊び人風」にみられます。
もう一つは、車イスです。
車イスでカジュアルなファッションは、
働いている印象が与えられないとか、
威厳ある姿には見えないのです。
やはり、人は「車イス=障害者=プロとは見ない」
という感覚があります。
私は、イタリア製のダブルで白ワイシャツと、
ブランドものの地味なネクタイ、
この印象が与えるファッションデザインをベクトル化しました。
したがって、ある意味ではデザイン界とか建築界では、
スーツやネクタイを、「自由業的な印象」という先入観で、
ネクタイをしないとか、スーツよりジーンズが、
まさしくプロっぽい、そんなムードがあるようです。
私は、かえって、この選択は間違っていると思います。
Dandyism
最高級と言われるスーツやブランドモノには、
それなりの性能性がほぼ完璧です。だから機能性があります。
それはジーンズの機能性を超えています。
おそらくすべてのブランドのネクタイを試みてきていて、
その「モノ性能」は評価できます。
まさしく、それは、私の万年筆、腕時計、カメラ、自動車への
趣味感と一致しています。ダンディズム思想があります。
ワイシャツもスーツも同じです。
私は、ファッション性としての一面である
「見てくれ・見栄・外見」の効能性、
それが読み取れないデザイナーセンスは疑っています。
この話は、連続させないと、
デザイン論=資本主義論にならないでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「コスメティックデザインという印象を抹消!」


   


     2月 20th, 2010  Posted 12:00 AM

デザインへの質問は収束している!
講演会でのデザインに対する質問は、
これまでの私の経験では、必ずあることに収束します。
● それは、「機能美」=機能的なことは不可欠でしょう。
● デザインはやはり「かたち」を創るんでしょう。
● しかも「格好いいこと」は機能的だからでしょう。
● その代表製品アイテムに「車のデザイン」。
● カーデザインや、ファッションデザインでわかります
● 最近では、エコデザイン、ユニバーサルデザインなどまで
踏み込んで来られる方々に、すべて「一理」あります。
したがって、私が医学博士であることや、
私が、経営から人工臓器、原子力工学の再構築、
さらには時として、
「危険物」(書けませんが)までが対象と言うのですから、
ある意味ではデザイン意味への「混乱」を
十分に与えていると自覚しています。

フランスの若いデザイナーで、
すこぶる優秀で医療ロボットや医療系抜群の子がいました。
私は、「あなたのこの素晴らしい提案はどこで見せてる?」
と、聞いたとき、
世界的にもデザインイベント最大のショーで、
と答えてくれました。
そこには、いわゆるスターデザイナーのデザインが、
デザインの核心を表現している!という大誤解があるのです。
「観衆は、興味を持ってくれる?」
「全く、全然駄目です」と。
私はすこぶる納得しました。
「食べていける?」、「全く、苦しい」。
私は断言して励まします。
大衆はついてきていないから・・・でも必ず、
「君の提案が最もデザインだよ!」と言います。
が、哀しくなります。
批判と非難を承知で書き残します。
カーデザインは
コスメティックデザインの象徴!
カーデザインを目指す学生に言います。
「車は空を飛ばないし、人を殺す」。
だから、アシモが生まれました。
航空工学や宇宙工学をやってほしい。
エコを越えるデザインのためのことや、
地球物理から生物工学をマスターしてほしい。
造船をやってほしい。
ロケットをやってほしい。
人工臓器の世界に入ってきてほしい。
もう家具や照明器具、カーデザイン程度を超えてほしい。
「それらはすでに、コスメティックデザイン」に、
成り果てているのです。
CGや3D-CAD以上のツールをデザイナーが、
すでに開発する時期が来ています。
デザイナーは、さらに「未来学」を先取りするべきです。


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