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Posts Tagged ‘ファーブルの昆虫記’


『毒虫の吸血システム、そのバイオミメティックス』


   


     8月 1st, 2017  Posted 12:00 AM

最期に「何の本を読みますか」と聞かれたことがありました。
私は「ファーブルの昆虫記」だと決めているので、
そう答えたことがあります。
小学生時代の夏休みは本当に楽しかったと思い出します。
学校で「夏休みのドリル」を受け取ると、
その日の内に教室で全部やってしまって叱られましたが、
それは夏休みの自由研究がやりたくてたまらなかったのです。
叱る教諭を見返してやるんだと思ったものでした。
ほとんどが「昆虫採集」。そして面白くて怖かったことは、
村国山(越前市の山)で、深夜まで「蛾」の採集でした。
襲いかかってくる大きな蛾はオオミズアオ?だと記憶しています。
さて、地球の温暖化が一段と進行しているためなのか、
とんでもない毒虫の上陸がTVニュース報道されています。
火蟻は絶対にあの国が仕掛けた生物兵器だと思っておりますし、
シマスジ蚊もとんでもないです。そこにマダニが出てきました。
そしてもう驚愕し恐怖なのはマダニが幼虫・若虫・成虫となり、
吸血することで生きるというこの虫の大きさです。
しかも、この猛毒虫・マダニの代表的な感染症は、
意識障害を引き起こし、必ず死に至らしめるということです。
吸血するその鋏角(きょうかく)はバイオミメチックス(生物模倣)という、
デザイン設計手法になるでしょうがこれはやっぱり怖い手法かもしれません。
この毒虫たちの形態を見詰めながら、
なんだかワクワクしている自分がいます。
怖いながらも、毒虫が人の皮膚を刺すノズルは「なるほど」なのです。

* 『流行の根源である伝染病は人類の破滅道理なのか』
* 『見詰める光は「あかり」になるという事例』
* 『電子書籍の誤ったデザイン解決、けれど使わざるをえない』
* 『デング熱は風土病ゆえにもっと厳密なジャーナリズム報道を』
* 「『突然変異』・決して起こってほしくないこと」


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『見詰める光は「あかり」になるという事例』


   


     1月 17th, 2017  Posted 12:00 AM

「ひかり」に対して「あかり」があります。
私はひかりとあかりをつぎのように区別して説明をしてきました。
光は見詰めることが視覚的にも困難なことであり、
灯りはその光を十分に見詰めるコトが可能なことです。
だから食卓の上には見詰めることの出来る灯り=キャンドルが設置される、
これはとても重要であり、いわゆるキャンドルスタンドの存在には、
都市伝説と思われる様々な物語があります。
それは紙幣の裏側のキャンドルスタンドにもあります。
そういえば、結構大好きでよく読んだ本ですが、絶対に読むべき定本に、
「ロウソクの科学」という本がありました。内容は忘れてしまっています。
それこそ人生最期には「ファーブルの昆虫記」「ドン・キホーテ物語」を
最高の音場の中で読みたいと思っていました。
さて、ロウソクのあかり、すなわちローソクの炎には各部分の温度が
見事に図解されていて、690度から1400度?だったという記憶があります。
が、再度もっと詳しく調べてみたいと思っています。
ともかく、火には温度があります。
たとえば、600度はガラス製作の温度であり、陶磁器は1200度です。
日本刀は玉鋼を1300度から1500度で鍛造していきます。
燃焼具合は温度によるものですが、
私が最も注目しているのは、セシウム除染をセルロース戦略として
セルロース+廃油で400度程度の低温焼却で炭化と発電を図り、
その炭化した物質を土の中に埋めることで土壌改良の一つの方法です。
これはセルロース戦略としてセシウム除染も、
ひょっとすれば有明の土壌改良へのコンシリエンスデザイン技術提案。
シアン除去のカーボン戦術になっていくかもしれません。
あくまでもデザイン提案です。

* 『ひかりをあかりには鏡面である』
* 『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』
* 『セシウム除染もデザインが深く関与すべきだ』
* 「イノベーションのための虚空回帰」
* 『なぜ、あえて「日本刀」と呼ばれたのか?!』


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『電子書籍の誤ったデザイン解決、けれど使わざるをえない』


   


     7月 6th, 2014  Posted 12:45 AM

電子ブックはパソコン登場以来、最も望まれたモノだったでしょう。
私はこの登場から使ってきましたし、
いわゆる印刷された紙書籍=本とこの痕跡を見届ける人生、
それが「本好き」人間には本ある生活で流れていくと考えています。
これまで、いくつかの電子ブックも試してきましたが、
今はこの三冊に落ち着いています。一冊は原書を持ち歩き、
また「自炊本」も含まれています。
しかし、電子書籍がボードであることにはデザイン不足があります。
デザイナーとしては、かつてApple社コンサルタント時には、
かなりアイディアを拡張し焦点化してきましたが、
その発想にはまだまだ及んでいるとは思っていません。
とりあえず、電子ブックは1500冊は持ち歩けている自由さがあり、
それなりの便利さは「読書チャンス」になってくれています。
願わくば、常に持ち歩ける書籍がこのデザインでも仕方ありません。
ボードデザインから解放されたデザインを希望しています。
だから、現状の電子書籍?電子ブック?もこの形式からの離脱こそ
デザインテーマだと考えざるをえません。
書籍の分配方法は、さらに進化を求めたいと思っています。
いつも、人生最期にはこの本を読みたいと次々に考えてきました。
一番は「ファーブルの昆虫記」とか何人かの小説家全集があり。
現在の電子ブック形式のままで教科書にはなってほしくありません。
とりあえず現在の日常での「読書」に一つのスタイルがあるだけ、
その大きな理由は、デジタルな読書スタイルのファッション化です。
今のスタイルには、未来の読書が見えてきていません。
街中からは書店が消滅し、インターネットには図書館があります。
しかし、なぜ私たちにとって「読書」スタイル、その対象は、
決して、これまでの装丁された書籍からは、ボードではありません。
そうした反対意見を持ちながらも現状の電子ブックは便利なのです。
正直、私が認識しているのは、「私の読書」スタイルをもう一度、
この世にいる限り再熟考しなければならないようです。

「時流の読書=信じないというスタイル」
「書店の存亡・バーンズアンドノーブル」


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