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Posts Tagged ‘ホメロス’


『目の前に未来・将来は無く背負っているのです』


   


     1月 31st, 2017  Posted 12:00 AM

「Back to the Future」というSF映画を観た直後に、
これは映画の題名というよりは、ホメロスの叙事詩に登場していると、
この話は小説家・堀田善衛氏の指摘で、
ホメロスの叙事詩である「オデッセイ」を知りました。
それは日本書紀・古事記にも登場する、いわば国づくりというか、
国・国家という存在が世界共通にあるということから、
私はホメロス・オデッセイを追いかけていたら、
ずばり、「Back to the Future」そのものの書籍にぶちあたりました。
そして、未来は決して目の前に広がっているのではなくて、
背中に未来を背負っていることは米国のそれもSF映画の根底でした。
古来、日本では人は生まれて死んでいくまでに「背負い水」があること。
人は一生に飲む水を宿命として携えて生まれてくることだと知りました。
私自身28歳で車椅子、リハビリテーションの病院では40歳までが一生、
このことを担当医から言われたのですが、そんなことを聞かされたら
人は絶対に投げやりになるものです。
それは40歳までの背負い水を持っているということです。
ところが40歳寿命など忘れていた時に、
私は毎日デザイン賞をいただきました。
したがって、私が未来・将来は自分が背負ってきたことからしか創れない、
このことを強く意識し始めてきました。
しかし、背負っていることは経験や歴史だけではありません。
ここがBack to the Futureをホメロスはどのように未来を招待するのかを
経験・歴史を超えて非常識さあふれる想像力の受容力かと気づきました。
そこでの大問題は想像力そのものも実は背負っていて、
この想像力こそ、個性・感性であり、宿命的に背負わされているのです。
人はすべからく想像力を持っているということは大間違いでした。
この事実をホメロスは読みとっていたのかもしれません。
ところが、商業主義に汚されていくと、
それこそオデッセイも日本書紀、古事記も語っていた未来・将来に
デザインは寄り添うことができなくなるのです。
是非とも、特にデザイナーは「Back to the Future」を定本にするべきです。
ただしすべからく、キリスト教義であることに
私は多少違和感があることは確かです。
日本人にはもっと自然をも背負い込む想像力があるからです。

* 『十日恵比寿の種銭を大国主命からもらう』
* 『少子化は雑誌の世界をすでに破壊していた』
* 「際限は背中に、目の前に未来など無く」
* 『「創育」と「想育」の中心はやはり恐竜の存在だ』
* 『銀河系の帝国主義、そのアーキタイプは未だ戦争か』


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『吟遊詩人の的確な叙事詩はロックにまで至った』


   


     11月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

ボブ・ディランがノーベル賞を快く受け入れました。
自分にとっては、アレン・ギンズバーグの方がという思いが残っています。
しかし、いわゆるホメロス以来の叙事詩の歴史が集大成したロックにまで
そのコンテクストが連鎖していることを明確に確認することができました。
特に、Back to the futureがタイトルとまでなった映画どころか、
ハリウッドには、ホメロスの叙事詩・オデッセイにまでその哲学をみます。
「将来は我々の目の前には無くて、実際は自分で見ることができない」、
「背中に背負っている」ということになります。
そして、日本でも民俗的には、
人それぞれは一生分の水を背負っている、という考え方があり、
それで寿命があるといういずれも未来は目の前に広がってはいないのです。
デザインは未来を創成していく実務です。
それゆえに、明らかにデザイナーは未来・将来は目の前には無いということを
Back to the futureを徹底的に認識すべきだということです。
ホメロスは紀元前8世紀の人物であり、彼の存在すら確かめられません。
しかし、吟遊詩人の心の声がロックにまで繋がっていることは、
人間の一つの大きな進化であったのかもと、言わざるをえません。
それだけに、デザインが未来創成を語るとするなら、
目の前には未来が無いことを
Back to the futureにしっかりとデザイン発想をのせるべきだと思います。
吟遊詩人の叙事詩は、それこそ、アレン・ギンズバーグから、
ロックミュージックにまで大きな変革を与えたのです。
ボブ・ディランが見事に、一つの集大成にしたのでしょう。

* 「アクロバット演奏ゆえに試聴可能」
* 「アレオパジェシカから遊離した表現の自由」
* 『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』
* 『難問解決の大ヒントは「素材」開発デザインの美です』
* 「フリーランススタートの頃」


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1月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 20th, 2011  Posted 10:00 AM

1月20日 先負(丁卯)

「Back to the Future」といえば
映画のヒット作で有名になったことばだ。

しかし本来は、
ホメロスのオデュッセイアや、
ソフォクレスのエディプス王で
語られた言葉を敷衍したものである。

『デザイナーは喧嘩師であれ』背後未来


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『資本主義からの逃走』
     「際限は背中に、目の前に未来など無く」


   


     8月 6th, 2010  Posted 12:00 AM

背負い水
「Vanishing Point」という映画がありました。
ただひたすら破滅を求めて車が走り続ける映画でした。
「Back to the Future」が後年ヒットしました。
そして、『Back to the Future』という本当の言葉の意味は、
故・作家 堀田善衛氏の指摘で、
これがホメロスの詩の一部であり、キリスト教的教えということを知りました。
つまり、Vanishing Point=消失点に二つの意味を私は持つことができました。
一つは、「絵を描きます」から、そのまま透視図での消失点です。
そしてもう一つは、未来の消失点は「死」そのものだということです。
そして、Back to the Futureにもどれば、
私たちが、「未来は目の前に広がっている」というのが際限無き幻想だということになります。
私たちの未来は、「背中に背負っている」というわけです。
民俗学でも「背負い水」という話があることを
Back to the Futureというフレーズとともに知りました。
「背負い水」というのは、人それぞれ生まれてくる時に、
一生分の飲み水を背負っている=それはその人の宿命を決定ずけている、ということです。
Back to the Futureも、「未来は背中に背負っている」という意味です。
だとするなら、私たちは、目の前に未来などは全くなくて、
生まれてきたときに背負わされていることと、経験で背負ったことでこそ、
やっと未来に消失点が打てるということです。
消失点
私は「学園闘争」の世代ですが、
まったく当時に知り得てしまったのは、学生運動で国家が変革できたのは、
イタリアのムッソリーニ政権打破を学生たちも一丸となった闘争だけでした。
その歴史から、学園闘争に与している同世代の「歴史的な無知さ」を冷徹に見ていました。
「自分が発言する力」を背負うまでは、
默知に限ると思い、ひたすらデザイナー修行を本分としていました。
今、ようやく私は、デザイナーとして、「私のデザインしたモノ」で発言ができます。
さらに、恩師からは「ことば」を「かたち」に、「かたち」に「ことば」を、
と激励されてきました。
際空間・相空間
「際限」に消失点を打つこと、それは「際」を見極めてその「場」に位置することです。
「際空間」とは「相空間」かもしれない、そんな想いを果たしていく時限もせまってきています。
「際限」はやはり、目の前にはあるはずもなく、
自分の背中に実は書き込まれているのでしょうが読み取ることもできません。
だからこそ、その「際限の相空間」をあと数年追いかける覚悟です。
私の消失点が見え始める「際限」まで。


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