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Posts Tagged ‘人工的な物’


『モノに無頓着であってはならない!』


   


     10月 31st, 2014  Posted 12:00 AM

iPhone6 Plusがあれば、もうそれでいいのかもしれない。
そんなことを自分の生涯にいくたびも納得をつけてきたようです。
いわゆる携帯電話が車載用になったときから、
車倚子の私は、いち早くほぼ国会議員の人が車載用からのように
使い始めてきました。
私は職能的にも、モノ(人工的な物)を多分詳細に自分用に、
拘り続けてきたと思います。それはなるべく自分用は、
自分のデザインでと考えてそれを職業の対象にしてきました。
なんといっても、時計、メガネ、万年筆、そして今ではiPhoneです。
したがって、この周辺もこれでなくてはならないという不文律が
私には明確にあります。
それこそ、今やケータイもはっきりいえば、2機種しかありません。
それほど、実際のダンディズムにはモノを身体化する意味ありです。
大きな理由があります。
「大物主の命」と「事代主の命」に日本人は従うべきです。
結果、身に付ける特にモノは決定されているのです。
この手帳をみれば、おそらく、人類が最も「手帳」の最高は、
いわばこのブランドに決まってきます。
万年筆って、最高のモノと尋ねれば、それが2500万円のモノもある、
ということまではほとんど知られていません。
これはローラーボールペンですが現在、最高のモノづくり成果です。
したがって、いわゆるファッション雑誌を見ていても、
なんとセンスの無いモノ選び雑誌は、必ず、消滅していきます。
まして、スマホとなれば、何を選別して使っているかは、
その人物の存在性=価値感を表していることになります。
私は尋ねられればそのモノを選んでは本当は間違いですと言いますが
最も身近にするモノを見れば、その人物の生き様は、
自ずと、「大物主の命」と、会話不能の知性を知ってしまいます。
とりわけ、現代ツールであるスマホは、
「事代主の命」の伝統と対峙していなければならないのです。
したがって、商業主義としての商品ともなれば、
その商品供給、その企業家のダンディズムの品性は明らかです。
恥ずかしくもなく、よくこんなモノを商品にしてまでも
儲けたいのか、とか思うと、殴ってやりたくなるものです。


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「モノづくり・作家と作品」


   


     7月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

モノづくり。
私は人工的な物をモノと呼び、
このモノづくりをする人を作家、
モノづくりされたモノを作品としておきます。
ともかく作家・作品ともに広義な意味で使用します。
したがってモノづくりへのデザイン作家がデザイナーです。
作品は当然、デザインされたモノという狭義な範疇に封鎖。
そこでデザイナーという作家=人、
その人となりは、作品の個性をその人となりの個性として、
自ずと作品に反映されているというと、それには、
そのまま反映されることもあればまったく反照されていること、
それは人間だからまったく千差万別であるだろうと思います。
これは、音楽と照らし合わせると、
作曲家・作品・演奏者が「音楽作品」に対する表現とその効果、
この三者三様が表れるかどうかということと同様でしょう。
たとえば、私が倉俣史朗という作家とは、
私は一度の面識と一回の電話応対しかありませんでした。
したがって、倉俣論ではその人となりは、
彼の元スタッフの人たちの感想を聞きかじっただけにすぎません。
よって、20周忌ということもあってか、
すぐに時代は形骸化納得のイベントを希求します。
彼の人となりを彼との関係のあった人たちが語り合うのは、
彼への畏敬の思い出と憧憬に過ぎず、
作品評価そのものにはなりえず、
必ずしも彼の作品を語ることとは大変な隔たりがあります。
この隔たりに気づかない作品評論は、
「作品の周辺的な雑音的な世間話」であって、
歴史的な美学的評論成果には決してならないでしょう。
むしろ、音楽と比較するのは美学的な検証手法と同等であり、
特に、作曲家・作品・指揮者、そして聴衆への影響として、
デザインも、デザインされたモノ=作品とデザイン効果=影響、
この図式に当てはまるものと考えます。
作家=デザイナー、作品=デザイン、効果=デザイン本質、
この三者的な立体構造の中では、決してすべてが連動しつつも、
「必ず時代的な破綻が起こっている」ということです。
少し、一般的な認識困難な例証をすれば、
キューリー夫妻が放射線は原子を遷移させしかも崩壊する現象、
この発見は放射線を人工物に適用可能としたことに重なります。
作家の個性を無個性としてとらえ、
作品の存在性に個性を見つけず、
さらに、作家と作品の隔たりを近傍性から切断してこそ、
初めてデザインの本質が浮かびあがること、
これが科学的デザイン手法だと私は確信しています。
つまり、デザインは応用芸術から離脱して、
科学性を纏った学際的デザインをやっと手に入れうるデザイン、
そのデザイン時代の先鞭者として倉俣史朗という存在を認め、
しかもデザイナー存在のテキスト=形見にできるのだと考えています。

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