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『資本主義からの逃走』
   「デザイン手法の直観はつつましさを知ること」


   


     7月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

コンセプト不要
「空」・「無」というのは、
正直、日本の「知らなければならない」仏教的素養。
となれば、私は、教条的で、観自在性すら剥奪されそうだと思っています。
しかし、これまで「デザイン手法」あるいは「デザイン手続き」と言えば、
「コンセプトづくり」は手法中の決定打です。
私は、「コンセプト不要」と断言しました。
即、直観が造形を招き寄せることは、
デザイナーになって以来、幾たびも私にある種の「啓示」を与えてくれました。
「啓示」のごとく、ひらめいてくれたのです。
饒舌にならず
「コンセプト不要」と主張することは、「つつましさ」も無いと評価されるでしょう。
しかし、「コンセプト」は、言葉に、それも饒舌に語り伝えなければなりません。
「つつましく、饒舌にならず」ということを、
欧米的態度として私たちもその態度にならなければいけない、
そのことこそ教条的に受け入れてきたのかもしれません。
私は、「コンセプト不要」を断言するために、その準備はしてきたつもりです。
「言語道断」
「言語道断」という言葉でした。
「言葉、謂わず謂わず(言葉、道断道断)」道元です。
つまり、「言葉にはもうならない」、
「言葉ではとても表現できない」ということを喝破した観念=想いの長けです。
コンセプト即・概念では表現できないこと。
中核に言葉=周縁で取り囲んだコンセプトは虚しいだけです。
中核にコンセプト=周縁は言葉で納得しようというのは虚無です。
「言語道断」ゆえにぎりぎり「かたち」で表す。
当然、そのかたちが生み出し、表現する性能と存在の効能、
これらが統合化されて機能をデザインする。
こういうことから再考しようというスローガンが「言語道断」でした。
さて、ここからは、読者諸兄の「つつましさ」に預けなければなりません。
これまで、ほとんどデザイン手法の核心だったコンセプトから、
コンセプト無くして、デザイン無しとする慣習から決別できないならば、
「勝手に、コンセプト云々を!」です。
つつましさの使い勝手
私は、提案します。主張します。
「コンセプトから離脱を」
「コンセプトづくりと決別を」と!
あなたが「コンセプトを投げ出すだけの直観、その勝手さ」に委ねます。
私が啓示されているのは、「つつましさ」に使い勝手があるということです。
「使い勝手のあるつつましさ」に、
今、日本人デザイナーは、瞑想してでもそこからの「直観」を求めるべきではないでしょうか。
「コンセプト」から「デザイン」する手法では、
つつましさには近づけないことを妄信していいかもしれません。


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