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「ふるさと偉人の「ち」の系譜を再興したい」


   


     6月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

現在、私は大阪大学にいて幸運なこと、
それは、阪大が適塾からの歴史をもっていることです。
適塾には、最も尊敬する橋本左内が適塾で学び、
緒方洪庵は、
「後世、適塾有りと語り継がれるならば、
橋本左内をもって他無し」とまで、
橋本左内の能力を評価していました。
その橋本左内は福井藩の侍医家系であり、
日本の医学史においては、
麻酔薬による外科手術を成し遂げた華岡清州に、
橋本家は学び、その弟子筋に藤野家がつながります。
藤野厳九朗は仙台医学専門学校の教授でした。
彼の存在は、
中国近代文学の祖と言われる魯迅よって明らかになります。
魯迅は仙台で学んだ師と仰ぎ、
恩師との関係は中国の教科書に載るほどでした。
藤野厳九朗の甥には、藤野恒三郎がいます。
彼は大阪大学教授として集団食中毒の腸炎ビブリオの発見者。
私が彼の存在を知ったのは、
適塾で使用されていた道具類を骨董的価値としてではなく、
近代医学史の資料として買い集め、
そのまま阪大に寄贈していました。
そして、彼の近代医学史の著作があります。
「医学史話・杉田玄白から福沢諭吉」です。
そして、この本こそ、日本の近代医学史の原典と考えます。
ところがすでにこの本は絶版になっていました。
この著作は、杉田玄白も福井県出身であり、
橋本左内についても詳細に語られていることです。
そこで、この復刊をと想い続けてきましたが、
復刊出版社が見つかり、復刊が決定しました。
本来の出版社はもう存在せず、
問題は、藤野恒三郎の末裔の方々の了解が必要です。
福井の友人達にも調査を依頼しました。
あらためて、三国町を中心とする藤野一族、
そして藤野恒三郎家筋の方々の情報、
さらに了解を求めたいと思っていますので、
心当たりの方はご連絡ください。
「ち」、まさに「知」と「血」、
その系譜を連続させたいと願っています。


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「石巻市へ『までいProject』の提案プレゼン」


   


     3月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

一昨夜最終便で仙台に入りました。
それからも最終プレゼンの準備をし、
昨日、石巻市副市長に「までいProject」のプレゼンをしました。
ポイントはいづれ具体的に進行していけば、
明らかにすることが出来ると思います。
プレゼン後に、石巻の現在を日和山山頂から眺めて、
海岸線にはまだまだ残存している瓦礫を見て回りました。
一年経っていますが、やはり、唖然とせざるをえませんでした。
プレゼンにはこれまでの私のデザイナー体験をすべて込めて、
三つの提案を聞いていただきました。
「ブレークスルーのアイディアと具体策と原資計画」を
話した直後でしたがあらためて途方にくれています。
この日本がこんなことになって、
もう一年になろうというのに、
復興どころか、復旧さえまだかなってはいません。
確かに、相当の努力成果で、
瓦礫も巨大なままに捨て置かれたままですが、
復興にはいつとりかかれるのだろうという思いでいっぱいになりました。
副市長はじめ、復興室のみなさんからは、
デザインとしての発想は受け入れていただけましたが、
この具現化に向かう私自身のエネルギーを
維持していかなければなりません。
企画書づくりの間にも、
「本当に可能だろうか」と何度も躊躇しましたが、
私の信念として、
「楽園国家だった日本」をなんとしても取り戻したい、
この思いを保持し続けてきました。
もう一つは、被災地の子供たちの憧れの職業は、
アスリートや芸能人、自衛隊員、消防団員でした。
決して、デザイナーや建築家ではありませんでした。
私はデザイナーとして生きてきましたから、
なんとしても、デザインの力で「復興」ができることを知らしめたい、
それが職能家としてデザイナーの義務だと考えてきました。
これから具体策に突き進んでいく気持ちを
維持していきたいと思いますが、
石巻から女川まで見て回り、
女川はさらにひどくて、今夜は立ち直れないほど疲れています。
しかし、「なんとしてもやってやろう」と、
今、自分に言い聞かせています。

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