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Posts Tagged ‘元来’


『メセナフィランソロピーが「ジン」酒造企業ではどうか』


   


     5月 26th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインは「日本酒から人工臓器まで」とか、
デザイン対象を拡大するために酒、臓器、原子力などを選んできました。
それゆえに、対象領域に関しては知識獲得やその経験をしてきました。
ウィスキーについては、父から教えられたことが元ですが、
大学時代にはほぼ一年間、金沢の高級バーでスーツ姿のままキッチンで
皿洗いやグラス磨きのアルバイトをしました。そこのバーテンダーから、
洋酒やカクテルのことをわずかに教わっていたことがあります。
年齢とともにかも知れませんし、もはや禁酒禁煙を解放したこともあり、
最近はマティーニなどカクテル特にジンに拘りを持つようになりました。
ジンは英国のお酒というイメージをもっていましたが、
私が絶対に英国のこのブランドというジンが輸入が停止。
だからジンについて調べているうちに、元来はオランダ産でした。
が、今や英国での「ジンブーム」や、
それこそ007でのマティーニのカクテルレシピまでが
流行の原因だとわかりました。
お酒にはひとつの市場倫理があります。
それは「お酒は飲めば飲むほど=売れれば売れるほど」の同一性には
文化のパトローネ足る企業倫理がなければ意味がありません。
したがって、酒造関連企業の、メセナのフィランソロピーは
企業存在、社会的な効能性の完備は当然のことです。
このことに気づいていない酒造企業は、
社会的存在性が無いと言ってもいいわけです。
そういう意味では、ジンを取り巻くメセナの効能性を
再確認したいと思っています。
メセナのフィランソロピーにデザインは深く関与すべきだと思っています。

*『きっとまた心配されると思うが・・・ダビドフの文化』
*『クールビズ・ネクタイ文化は終わろうとしているか』
*『酒とタバコと、そして・・・』
*『パトローネが文化を再考察させるデザイン戦略』
*『新作007・ボンドカーでも確認できた曲線美』


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『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』


   


     5月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

政治思想はすぐに国際関係論という
結局は得体の知れない論理で国際間には軋轢、
そしてそれは戦争に至り、限りない悲しみは歴史汚点になります。
しかし、強靱なまさにレジリエンスな美学的な文化論は
この国際関係論以上の力を有しているのです。
かつて、朝鮮が日本に与えた多くの民衆文化は、
「民藝論」として、その言葉に強力なモノの美学性を与えていました。
柳宗悦によって唱えられた「民藝」という美学論理の核心であり革新は、
有事状況である戦時中に、この美学論理は、
朝鮮文化の象徴である「光化門」の破壊を主目的としている軍部にむけて、
それこそ「ペンは剣よりも強し」を貫いていました。
あらためて「光化門破壊を食い止めた民藝美学論」、
その中心人物であった柳宗悦の「民藝」、
その基盤を再興すべきと考えます。
それは、京都破壊を食い止めた米軍の本土攻撃否定論理と同等です。
つまり、「民藝」として、それこそ「井戸茶碗」を持ち出してきた
陶磁器の歴史は、元来は朝鮮の美学文化を剥奪した野蛮さに対して
日本は「民藝」という名辞とその論説によって御礼を返したということを
もう一度、再認識をしておくべきだと記述します。
青磁があり白磁があり、高台があり、日本の陶磁器は
「民藝」抜きで語られるべきではないということです。
それこそ、ある伝統工芸産地が400周年記念を語り宣伝する前に
「民藝」が護り抜いた「光化門」を語るべきでしょう。
その見識も知識もなく日本の伝統工芸は語られてはならないのです。
柳宗悦の「軍部への絶対抵抗」は、
妻である声楽家柳兼子女史は決して軍歌を歌わない、
という美学が、さらに後押ししていました。
柳宗悦は、恩師・柳宗理の父であり、
柳宗理は「デザインと民藝」への距離感を
確かに教え子の私たちには独学を強いていたと思い出します。
しかし、アノニマスとゲマインシャフトという連鎖を
民藝からデザインへのコンシリエンスを支えている主張は
常にデザイナーの「耳鳴り」になっています。

*『教え子で得をしたことがあります。・・・』
*『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』
*『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』
*『強固なるゲマインシャフトからデザインは生まれる』
*『いつも見かける私の作品はすでにアノニマス』


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『ずばり、自分ぴったしのモノ世界のモノマガだ』


   


     5月 3rd, 2016  Posted 12:00 AM

「mono」マガという雑誌は、創刊時の編集長から代々の編集長が知人です。
現在の編集長は日本文具大賞の審査委員です。
編集長に文具のデザイン評価をしてもらっています。
そして、この5.16号の特集記事は、なんと、私の趣味が結集。
ワイフは、「ああ、とんでもない特集号・・・」と言いました。
「オーディオ」・再度ブーム来たるか!
「万年筆」・これもブームで、なんたることは1000万クラスが紹介。
「日本のジーンズ」・ジーンズは最近の若者には人気がないとか?
ということで、さてさて、熟読開始でした。
しかし、オーディオは元来ほとんどプロでしたし、
現在自宅のオーディオ環境は絶対に最高級環境を常に再考リニュアル!
それだけに、現在のオーディオはなんと遅れた商品開発なんだってこと。
全くデザイン依頼もされないし1970年代のブーム技術がデジタル化だが、
哀しくなる商品が多くて、でもかつての私の商品は今も生きていました。
万年筆に至っては最高品が1400万円かい!っていうやや怒り。
でも、このクラスになるとやっぱりクリップはこの形態になります。
そして、万年筆選別は極めて正確ながら、あれが無いとかです。
最近の若者はジーンズをはかないから、車にも興味が無いと聞きますが、
実は、ジーンズの生地、そして縫製は日本が世界でトップであること。
もっと若者は知るべきだと思います。
この「モノ」に関わることで「蘊蓄の箪笥100」は、
代々の編集長にこれだけの出版を願っています。
そして、「なんで、聞いてくれなかったのだろう?」
「なんで、デザイン依頼が無いのだろう?」
スタッフは、「決まっているでしょ、怖がられているからです」と。
んー・・・・そうなんだと納得です。

*『失われてしまっているジャーナリズムは雑誌に歴然』
*『売れるより売る文具大賞グランプリ』
*『装飾はデザインにあらず、されど装飾はデザイン可』
*『LTRASONE・問題解決を成し遂げているヘッドホン』
*『青は藍より出でて青し、ジーンズを見つめて』


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『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


   


     2月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」は米国のデザイン会社の商品であり、
それがそのまま大学教育に持ち込まれました。
そのまま、日本は早速、大学教育とビジネス経営論という商品化を実現。
これが今ではすっかり流行になっています。
もちろん、権威づけられたかのような「デザイン思考」も
専門家からみれば、この手法での成功例はまだありません。
私は、「コンシリエンスデザイン」という実際は歴史ある言葉から
「コンシリエンス」と「レジリエンス」を捉え直して、
看医工学の基本概念に「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」を
大阪大学大学院の医学系研究科に設置しました。
この設置にあたって概念整理の中では、
これまでの大きな概念がすべからく
後退していくことを追いかけてきました。
たとえば、Concept、Communication、IoT などは
やはりまだまだ20世紀を引きずってきた言葉、用語、あるいはすでに
デザインを取り囲むラングになっていると判断評価しています。
特に、Innovationなどは、元来の原意すら押し曲げられていることに
私は明確に気づくことができます。
それは「コンシリエンス」とともに意識されてきた「レジリエンス」に
全く新たなデザイン手法が当てはまりそうです。
確かに、これはまだまだパロールかもしれませんが、
新たな次世代手法の創造になっていると確信しています。
それはいつのまにか、何でもかんでも「ストレス」ゆえに、
健全性を創出する現代性病態は不況因にもつながっています。
「ストレス」に十二分に対抗出来うる強靱さは「レジリエンス」であり、
そのデザインこそ「コンシリエンスデザイン」が果たしていくこと。
これがより明快になることを「KK塾」で一般化してきました。
「コンシリエンスデザイン」はConceptでは語らずに、
これはLineで統合的かつ学際的な概念化が可能になります。
ストレスの呪縛から解放されることはWired offの情況を配置し、
まさにMagic Balletであり、No Brainerなデザイン、
つまり、「思考」=Thinkingという浅薄さではありません。
問題解決を成し、価値=望ましさと好ましさを創出し、
そして、未来を創成していくデザインの本質を手法化することこそ
「コンシリエンスデザイン」が明確に浮かび上がってくるわけです。
少なからず、Concept、Communication、Innovationからの解放こそ、
GroovyでCoolな次世代デザイン手法であり、
それは経済を超えた文化の体系創造に直結していることです。


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『物欲によるモノの美と美あるコトへの自分』


   


     1月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

我ながら、どこまでApple製品に囚われているのでしょうか。
そう想いつつも確かなPCもPadも進歩はしていません。
そして、ベルトが二重巻きのApple Watchに至っては、
時計もそれなりに気ままに使ってきた私でさえその未来は見えていません。
それにも関わらず、絶対に二重巻きの時計は手に入らないとなると、
元来、一人っ子だった僕の物欲が呼び寄せてしまうのです。
もはや時計、クロック、Padにしろウォッチにしろ
稼働部品は極めて低額です。
実際、生産原価はどのブランドにしてもほとんど知り尽くしています。
Apple Watchも、稼働ユニット部品は定額コストであり、
筐体やベルトでのほとんどそれこそ付加価値での競合にすぎません。
Padのスタイラスペンにおいても同様です。
僕はプロのデザイナーですから、結局、モノとブランドの価値で、
所有価値と使用価値を価値判断にしてしまっています。
このApple Watchは皮革ブランド独自の価値を借用して、
時計の価値を高めているだけにすぎません。
最も、僕は銀座のApple Storeで現物を見、その説明を受けました。
結果、この店員さんからは絶対に購入しないと決めました。
そして、ブランドショップで改めて質問をした結果、
商品知識ははるかに勝っていましたし、
ほとんどいつ注文しても困難でしたが
結局、すぐに私の所に来てしまいました。
それこそ、Padのスタイラスにしても、
僕がそれなりに認めているブランドと
新興ブランドは、一方はレンダリングスケッチ用であり、
もう一方はすでに書道用に落ち着いています。
商品価値がブランドに左右される時代にあって、
デザインがデコレーション価値になってしまうことはやむを得ないですが、
やはり、僕はデザイン=問題解決・価値創造・未来創成ですから、
ともかく、現代性でデザインのこの三つを満たしているモノの世界観に
僕自身は取り囲まれていたいと思うのです。
デザイン=問題解決・価値創造・未来創成の結論は、
「美」に集中と集約される焦点でなければなりません。
それは、僕自身が「真善美」三つはとても自分には立ち向かえないけれど、
「美」って決して分からないかもしれないけれど、
「美しいモノ」に取り囲まれるコト=環境に
ありたいと思ってきたからです。
物欲も年齢とともに消えていく、
そんな気配が忍び寄っているのも事実ですが、
あくまでも、自然は自然なりに美があっても、
自然も人間も裏切りがありますから、
デザインされた「美」には自分を浸すことができます。
自分の生涯において物欲からの「美」は求めるつもりです。


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『デジタルアッサンブラージュでの映像音場照明空間』


   


     9月 10th, 2015  Posted 12:00 AM

PCモニターそして液晶TVのデザインを見ていて、
デザイナーとしてなんともしくりとしない事が連続していました。
それで、ペットボトル素材2000層での新素材を発見し、
この素材メーカーと鏡面でのキーボードを商品化しました。
しかし素材が高価なことや、
キーボード自体が中国産になって安物になりました。
そこで、デジタルサイネージ化を大手企業とともに、
医療機器メーカー研究所のショールームに展開して
やっと一つのヒントが生まれ、
さらに、コンテンツ映像を自宅から毎日の景観そのものを、
実像映写を玄関に考えました。
自分の映像は相当に蓄積もあります。
そうしたら、WiFiでのコンテンツ映像とさらにLED照明まで
連動が可能になりました。
デジタルサイネージという言葉があるわりには大した事がありません。
プロジェクションマッピングも、
マッピングそのものの進化をみてきただけに、
たとえば、金沢駅などや、大阪城など、東京駅も、
結局はライトアップ手法変化でした。
そうなると、自宅玄関をどこまでやれるかやりつくすことになりました。
これが出来る企業も今は当初から積み上げてきた一社のみです。
それ以外の売り込みも、私の知識蓄積には来ていませんでした。
ともかく、映像は映像、照明は照明、ロボティックスはロボティックスで、
これらの組み合わせが皆無でした。
何度も自分のMac内で使用画面づくりをして、
それはセンシングし、なおかつ時間軸での構成、
WiFi+IRも、ここまでが限界、それは海外メーカーどまり。
まして、国内メーカーでは、
やはりモニター機器と照明機器の組み合わせはありません。
さらに4K、8Kに映像は進化していますが、
その程度の液晶モニターは欠点が見つかり、
それ以上に照明機器、照明計画と音響+映像が組み合わさることでは
国内の現在企業は無理。これは欧米もそこまでは見えていません。
この判断から、デジタルサイネージ+マッピング+WiFi空間で、
映像+音場+音像+写像+射像までの空間デザインには、
新しい呼称が必要と判断しました。
「デジタルアッサンブラージュ」では、となりましたが、
アッサンブラージュは元来は美術の用語、
もっと深く掘り下げると彫刻用語でした。
それなら、現像でのセンサーでのパッシブ系とアクティブ系を
iPhoneアプリの基本に置いてみて、
ようやく、画面インターラクションに至りました。
ともかくこれからのプロダクトデザイン対象を
インターラクティブピクトグラムあり、
ここまでアプリケーション開発の目処がついてきたところです。
「デジタルアッサンブラージュ」は、
限りないほどのスマホコントロールに辿り着きました。


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「3Dプリンターは自己増殖する起点を修正する」


   


     4月 30th, 2013  Posted 12:00 AM

光造形システムが落ち着き始めた頃に、
手の上の温度で融解する程度だったサンプルが、
3Dプリンターとなって、
その将来性が云々されるようになりました。
「RepRap Project」が米国で一躍注目されて、
簡単に単純な構成の装置でプリントアウト出来るようになりました。
しかし、あくまでも素材は0.6mmの素材が
まさにソリッドワイヤーのままですから、
トポロジー形態を作成するには、
ここでもサポートとノズルへのプログラム化が必要です。
国内でも早速3Dプリンターを取り入れたカフェや団体が登場しています。
私は、あくまでもサポートと素材に拘っています。
日本流のアレンジメントを創出し、
新素材やその供給方法を一般化しなければなりません。
3Dプリンターは「パンドラの箱」とまで大仰な表現が登場し、
この装置での商売が始まってきましたが、
欠落していることがあり過ぎるようです。
まず、これを本当に使いこなす「技」は、
本当に限定された人物だけしか使えないことや、
肝心のネットワークでのバーチャルシステムも出来てはいません。
米国流は必ず破綻する時間が早いはずです。
光造形システムのアイディアも、
元来は日本人だったのです。
大統領が3Dプリンターの実際も分からずに
声明するのは選挙のためにすぎません。
やはり、これが「自己増殖するシステム」であり、
そのための「新素材」であり、
供給さえも自己増殖させるサーバーも、
すべからくこの日本で完成させる必要があるでしょう。
とりあえず、米国でのアイディアを日本で根本の改革を成し遂げ、
3Dプリンターで革新させる「技術」そのものを、
「Made in Japan」の確実性と信頼性を築くべきでしょう。
私はそのことを可能にする少数の人たちを結びつけます。
その進展に期待をしてください。


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「杉と桐と、そして琴に成る」


   


     1月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

日本の植林行政での大失敗は杉の木の植林でした。
全国どこでも杉の木はメンテナンスフリーの樹木です。
結果、必ず花粉症に悩まされる国民性を引き込んでしまいました。
さらに、間伐材の問題も生まれました。
間伐材利用のためにデザイン導入も随分と試されましたが
すべからく失敗しています。
これは関与したデザイナーの力量不足だったと指摘しておきます。
そして、桐の木もかつては箪笥素材として日本の代表的樹木でした。
しかし、桐箪笥は着物文化とともに市場は縮小しています。
桐材でのデザイン開発をした経験がありますが、
桐箪笥流通ルートでモダンデザイン流通は困難で失敗しました。
私は杉と桐との伝統的な素材観が失われたことが、
行政の安易な伝統文化への知識無さだと思ってきました。
それを象徴しているのは「琴」、「琴づくり」です。
琴の素材は桐です。
そして伝統楽器である「琴づくり」においては、
杉と桐との育成に伝統技があったことです。
つまり、杉は向日性で真っ直ぐに育ちます。
ところが桐の木の向日性は自由気ままに育ってしまうのです。
そこで、杉林の中で桐の木を育てると、
桐は周囲の杉の木の向日性に支配され真っ直ぐに育つのです。
この桐の習性を利用します。
よく育成した桐の木を伐採して、水に浸けておくと、
桐は本来持っていた曲がりくねる習性が表れてしまいます。
その曲がり具合で楽器・琴にする形態を選び出すのです。
そうして最適カーブをもった桐の木をくりぬいて
琴の音質を決定していくという伝統技です。
私は、杉林の中にある一本の桐の木をイメージすると、
杉林という環境が一本の桐が周囲環境で育成します。
ところが水に浸されて本性である桐の向日性が
出現するということに注目します。
すなわち日本の伝統技には、
素材の本性を自然環境のままに制御する人工技があることです。
私が自然との人工を対比するとき、
自然との調和などは元来ありえず、
むしろ自然をこよなく観察しその自然性の本性性能を、
人間技が徹底して制御運用してきたことが重大だということです。

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