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Posts Tagged ‘共同謀議’


「TEDxOsakaUでのプレゼンテーションは態度と姿勢だ」


   


     10月 7th, 2012  Posted 12:00 AM

研究室とオーザックスタッフ、元スタッフ総出で開催します。
私のテーマは、3.11の復興計画と南海トラフ、
「までい-Project」を
PKDにまで連動させることのデザイン運動の紹介です。
ようやく、政権内でも新閣僚になりましたが、
「までい-Project」は大臣にもプレゼン、
その前には石巻市にも出向きましたが、まったくの徒労でした。
新政権になったら、
これまでの事実はしっかりと記録し発表する覚悟でいます。
ともかく、私は、デザイナーですから「絶対に実現」を目指していますが、
大臣も、官僚も、大企業の経営トップたちとサラリーマンには、
結局、彼らにとっては「他人事」だとつくづく思い知らされました。
TEDではそのような愚痴をプレゼンするつもりは皆無です。
あくまでも「前向き」な態度と姿勢を堅持するつもりでいます。
したがって、ビジュアルプレゼンテーションも、
すべて、いつものように「自作」に徹しています。
時々、私のプレゼンはスタッフが作成していると見られますが、
どのようなプレゼンテーションであっても、
「すべて自作」は大学人になってからもやり通してきました。
だから、
Keynoteの使い方やTipsは相当に自分で磨き抜いてきた自負があります。
3.11は、日本人の私たちに、
自然の力と原子力技術の未熟さを思い知らされました。
よって、私たちこそ、この地球環境の保全と、
最新技術と日常生活を世界に向けて発信できると考えます。
2004年から提案しているPKD=Peace-Keeping Designも、
経皮注射器から経肺接種ワクチンへと進展させています。
私たち日本人こそ、
未来の地球環境や世界的な問題解決を
沢山の同胞を失なったことで熟知したのです。
 
・「共同幻想」にはしない
・「共同謀議」には持ち込まない
・「視覚的情報化」を真摯に伝達する

私が「TEDxOsakaU」・阪大主体化に込めた決意です。
そして、阪大を退官後もこの活動は「実現」することをめざすでしょう。
危機管理デザイン賞」を創設したのもすべて
この一連の活動に連鎖しています。
「私的な想い」を公的にする使命は、
「公的立場たる者」では、私的な感情だけが優先しています。
これぞ、「後凋の心」しかない輩=チャラケた連中を払拭するつもりです。


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「闇の言い訳への大衆好奇心」


   


     8月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

次期首相候補よりも芸能話題。
日本人大衆の時代感覚は好奇心、
首相候補よりもタレント引退が重大。
この現象は間違いでしょうか。
私は当然のことと許容せざるをえません。
情報、その形式と内容は映像と発言です。
話術もすぐれ日常化して毎日見慣れた顔なじみ。
これほど「見てすぐ分かる」情報形式・内容はありません。
少なからずメディアは情報優先度を分別すべきでしょう。
せめて新聞は政治・海外・事件・芸能という分量配分、
これが新聞情報形式と内容優先度だと考えます。
しかし、新聞情報価値も商業的訴求程度で計算すれば、
それこそまさに資本主義的なスキャンダル性、
もっと巨額回収可能なゴシップ記事が投資になります。
その反対現象は必ず葬られているのが闇社会情報です。
暴力団・右翼・新興宗教・同和問題・さらに巨悪構造、
すべてが本来は大衆好奇心の格好対象です。
だからこの分野にこそ政治主導管理が重要のはずですが、
これを解体し曖昧化してきた構造が日本の奈辺文化です。
わが国資本主義を成立させている制限自由という概念、
つまりは民主主義という偽名の自由放任放置主義と、
日本国体構造の綿々たる伝統的闇構造でしょう。
これを明らかにというのは大衆納得の共同謀議です。
共同謀議は好奇心に他なりません。
義理人情の全価値否定は暴力構造の根幹であり、
必ずしも全否定できうるものではありません。
そこに、隠匿構造を配置することで好奇心をさらに強化。
それは日本の伝統的見えざる社会構造の「根」であり、
この「根」が「好奇の値づけ」がされていることは明確です。
私など、すこぶる右翼的と言われますが、
単に日本人であるアイデンティティへの私の思想拘りを、
評判化するのは知的退行化と妄想構築化した人に過ぎません。
暴言でこうした人に対決すること至って簡単ですが、
それは同次元に私自身が貶められるに過ぎませんから絶対回避です。
今や日毎にこの国難は全国民を披露困憊に追い込んでいます。
疲労困憊していても言論的暴力発散行為、
そして非生産的な好奇心に慰められるものです。
だからこそ、リーダーがあらゆる分野で必要です。
そのリーダーには、美と義と善が不可欠と私は認識しています。
一人の話術優れた芸能人の存在、その引退事件、
背後に潜む日本の伝統的闇社会に大衆は惹かれます。
畜産業界はなぜ保証し、農産業界はなぜ完全無視し、
芸能界の顕示訴求には大衆魅惑を集中させれば情報操作可能です。
日本の闇社会にはそれぞれの大衆文化があります。
しかもこの文化体系こそ、
日本人のアイデンティティを決定づけているのかも知れません。
私は首相候補より一人の芸能人の引退が、
国難時に重なっていることの共時共謀的意味性の解読こそ、
大衆意識一新の大きなヒントだと考えざるをえません。
あらためて、私たち日本人は復活可能なのか、
真剣に緊急に熟考し、即行動すべきことでしょう。


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「資本主義からの逃走」 
    「人それぞれの新年は世代間差異性を見る」


   


     1月 4th, 2011  Posted 12:00 AM

私の視座から
人生にとっての新年。
それぞれに新たな年を迎えること。
私はこの年、「兎」への思い出と知識の整理でスタート。
新年とは、人間それぞれにとっての期待と希望です。
私は新年を迎えるにあたって、いつも新年は信念の確認と思ってきました。
その癖がついたのは、交通被災・車椅子生活となってふるさとに帰省=Uターンをしてからでした。
それは「歩けなくなった川崎和男という生」が引き込んだものだったと思います。
「歩けない私」の視座は、私の眼差しを全く変えたと考えます。
この眼差しがひょっとすれば私である「歩けていたかっての川崎和男」という人間の質、
それは人格まで変えたのかもしれません。
多様性など無し
私の現在の眼差しは、「多様性を持ち得ない日本人」を見つめています。
これは私がデザイナーという職能性からの想いと経験だと判断します。
歳末、例年のごとくTVでは、「くる年への期待感」を押し殺すように、
去る年に失ってしまった無念さへの怒りや失望を整理しています。
これらはすべからく、多様性はなく単純明快な共同謀議を共有していました。
そして、「くる年」への期待感や希望には、
「多様性を尊重し合う」という知性が共有されていました。
世代間の差異性
しかし、私にはこの共有している謀議は幻想の確認に過ぎないものと思えました。
もし、多様性があったとするなら、それは世代間での思考差異性だったと見ています。
世代間での差異性の根本は、「情報」であり、「メディア」との経験の質でした。
そしてこれを「多様性」と呼ぶことは間違っています。
私が世代間の差異性を批評するなら、
メリットは、経験質が若い世代ほど高密度であり時代革新の先導力になるでしょう。
ところが、デメリットは、世代間の価値観の断絶です。
こうしたことが世代間のギャップとして、対立することなく新たな秩序づくりこそ、
新年への希望であってほしいことです。
私は新年の信念を、車椅子ゆえの視座からの姿勢を遵守します。


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『資本主義からの逃走』
  「政教一体と政教分離は民主主義とは無縁」


   


     12月 5th, 2009  Posted 7:54 PM

戦後の日本は、
金科玉条のごとく「政教分離を遵守」してきました。
その意味と意義、機能性と効能性はあったのでしょうか。
私は、まったく無かったと思ってきました。
政教分離を唱えつつも、
 ● 宗教団体をバックにした政党もあり、
 ● 仏教も神道もすべからく飲み込んできた政党と
 ● 宗教排撃ごとき思想によりそっている政党も存在します。
したがって、こうした玉石混淆の政教に関する論理は、
「全く社会的効能性は無かった」ものと考えるべきでしょう。

すなわち、
私は、政教一体であろうが、政教分離であろうが、
そこに公然と唱えられてきた民主主義は、
いわば先進的な資本主義国家体制の共同謀議にすぎません。
ここから、先の私の思想はペンを止めることにします。
なぜなら、
私のペンが私自身を社会的に抹殺、自死へ誘うと思うからです。

私が注目し、
「宗教」を洞察してきた対象の「宗教」は2つあります。
「禅宗」と「シェーカー教」です。

□「禅宗」は、私のふるさと福井であり、
その総本山である「永平寺」です。
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なんとも私の育った環境に大きな影響があったからです。

もうひとつは、
 □「シェーカー教」です。
ボストン郊外に何度か訪ねました。
実際にはすでに観光地化していました。
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それは、「家具」であり「車椅子デザインのためでした。
しかし、「シェーカー教」の教義とその実践である
共同生活、手仕事、労働への敬虔さ、
そのデザインに心奪われました。

そして、
この二つの「宗教哲学」とその「実践」に、
まったく、民主主義は皆無だということがわかりました。
そこから、「いのち」を支えうる「宗教」と「政治」は、
その人間個々の「いのち」の系譜は完全に断絶します。
宗教での「死生観」は、
「政治」どころではない思想が、連綿と連鎖し、
そして、「生きる人格」を決定づけています。
この断絶を受け入れられる強固な「生涯」を
私は選択しました。
結果、
私は民主主義は無効だということを認識しました。
  もっとおおらかで、
  もっと高潔で
  もっと品格のある
「集団的な意志決定=生き様」があります。
私はそれを分別しています。
だから資本主義を静観し、
決して巻き込まれない「生き方」を
デザインに配置したのです。


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