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Posts Tagged ‘共産主義’


1月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

1月7日 癸未(先負)

反資本主義は、
ソ連の解体により壊滅した。
半資本主義は、
共産主義の生き残り策だったが、
ほろびていくことは明白だ。
範資本主義は提案されているが、
結局、
その理想論は半資本主義に呪縛されている。
だから、
「汎」資本主義という汎愛主義が必要だろう。

川崎和男「喧嘩道」


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「デザインはその発祥から政治的な政策思想だった」


   


     8月 1st, 2013  Posted 12:00 AM

デザインの歴史を語るときには二つの説があります。
人間・ホモサピエンスは、
モノづくりにデザインを考え実行が設計だったという説。
もう一つは、ロシア・アヴァンギャルド時代に、
革命という政治活動を支援する芸術手法がデザインという説です。
私は、デザイン史には、必ず後者を選びます。
デザインという職能は、当初から革命という政治手続きを支援、
まさに、国を変革する策略であったということです。
だから元来は、革命的な政治思想を具体化する手法だと考えます。
ロシア・アヴァンギャルドは、結局、ソ連が崩壊したように、
革命を政治的に成功するともに、いわゆるデザイナーたちは、
虐殺もしくは自死したとして抹消されていったのです。
その代表人物に、私は、V.マヤコフスキーをあげます。
彼の思想が見事に政治思想に転化されてしまった系譜を再考。
彼は、自死とも拷問死ともいわれ不明ですが、
「われわれに新しい形態を!・・・号泣が聞こえてくる」、
このことばを常にいだいて世の中、企業、政治を見てきました。
したがって、ロシア・アヴァンギャルドでは、
建築・舞台芸術・日常用品・ファッションはすでに完成でした。
この成功されていた手法が応用美術からバウハウスなどに
面々と連鎖していきました。
よって、この連綿たる美的な思想から逸脱している模倣や、
すでに存在していたモノのモノマネには常に非難・批判しました。
結果、私自身のデザインは、彼らの理想主義=問題解決、
そして、理想を呼び込む未来志向こそ「デザインの本質」が結論。
ソ連の崩壊は、見事に彼らの思惑通りで有り、共産主義の全否定。
私は、たとえば「グランドデザイン」や、
さらに、理想体制趣旨を「マニフェスト」はデザイン用語です。
現在、わが国は、あるいはわが国だからこそ、
この「国難」には二つの人類の理想テーマが問題です。
地球環境=自然と人類は決して調和などできないから・・・
原発事故=人類が存続する水・食糧・電力はどうあるべきか・・・
だからこそ、「デザイン」をようやく国策の実務にするべきです。
私の最期のデザイン活動には、国策への「デザイン導入」、
これが私の「行学」としての役割だと考えています。


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「モダンデザインへ、ロシア・アヴァンギャルドから」


   


     3月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

モダンデザインというよりも、
デザインの源流として、
私はロシア・アヴァンギャルドを位置づけています。
マレーヴィチやマヤコフスキーなどがその代表者ですが、
陶磁器でみると、1920年代には、スエーチンやチェホーニンの作品から、
ロシア革命が一段落し、
革命後次第にスターリンやレーニンの独裁制が強まり、
彼らからの粛正によって、表現形式と内容の後戻りが見えてきます。
シュプレマティスムとしてのスエーチンのレプリカは
MoMAで手に入れることができました。
それから岐阜の現代陶磁器美術館での
ロシア・アヴァンギャルド展は感動的な展覧会でした。
ロシア革命が「ナロード・ニキ」=(人民の中へ)という平等主義は、
コーヒーカップでの加飾においても、幾何学的な正方形や長方形、
そして単色での色面構成でした。
しかし、次第にそれはかつての貴族的な装飾に戻っていきます。
モダンデザインの源流が
次第にデコレーションとしての加飾性を抱え込むことで、
共産主義あるいは社会主義の階級制は復活するのです。
それはデコレーションを過飾してしまうことで、
モダンデザインの破壊につながっていきます。
ロシア革命を芸術・建築・演劇をデザインで統合していったリーダーたち、
彼らの芸術表現活動への圧力や粛正に注目します。
彼らは自殺や虐殺される歴史こそ、
イデオロギーが芸術によって
意識改革できる手段であることを証左しています。
クズキッツフやチェホーニンの作品=シュプレマティスムが
影を潜め始めます。
私の想像では、スエーチンのコーヒーカップ、
そのレプリカをMoMAが製作した意味に、
モダンデザインの源流があったからだと思っています。
こうしたロシア・アヴァンギャルドでの陶磁器技術は
現代と遜色ありません。
むしろ、その色面構成などは現代での商品価値を
今でも確実に持っていると評価しています。

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『資本主義からの逃走』
 「資本主義の欠陥は、
  資本論の指摘では無くなった」


   


     1月 5th, 2010  Posted 9:00 AM

不満と信頼

150年前の著作を「もう一度」などと言うのは、
はなはだ「時代を読んでいない」と私は思っています。
再度、「資本論」への不満と信頼もあります。
ただし、信頼というのは、1850年当時の発想と論理です。
読み違いをまったくしなかった私の理由は簡潔です。
まず、副題が「経済学批判」であったこと。
この副題は、「批判」です。
「批判」をして、「提案」は何もありません。
デザインの実践者として、デザイン批判は受けますが、
それなら・・・という「提案」はほとんどありません。
そして、マルクスもエンゲルスも、
この書は、「共産主義を構築していく理論書ではない」ことを
完全に否定しています。
ここに私の信頼があります。
さて、150年前の指摘が、現代に当てはまるわけなど、
どこにも、もう見受けられません。

循環

そして、決定的には、彼らが指し示した「循環論」が、
「貨幣」・「生産」・「商品」の循環論です。
私はデザイナーとしては、
「生産」と「商品」に深く関与していますが、
「貨幣」の形式の大きな変貌について前述してきました。
私は「循環」からの視点が無いことが不満です。
「貨幣」は、クレジットカードやプラスチックマネーとなり、
「生産」に、労働による身分格差での剥奪論も底をつき、
「商品」には、意味論=デザインという全体価値があることを
彼らには、予言も予知も予測もありませんでした。
だからこそ、私は、不満と信頼のバランスで、
あらためて、この記述の下敷きにしています。

意味論の創出


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『資本主義からの逃走』
 「資本主義の冷酷さ、
  企業倒産をデザインから傍観する」


   


     11月 26th, 2009  Posted 3:00 PM

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資本主義の「冷酷さ」は、当然、マルクスはじめ、
マルキストたちが指摘してきました。
だから、共産主義、社会主義というのも、
すでに無理があったことは歴然としています。

私は、デザイナーとして、
「企業倒産」、「会社更生法適用」、「上場取り消し」を、
本当に間近で、かなり見てきました。
もちろん、それを予知したり、予測できる要素を
見いだしたりということは才能だとも自負します。
デザイナーとしての大きな「経験値」になっています。
「直感」=「第六感」もあります。
この企業、危ないな・・・?!
パートナーあるいはコンサルタントを引き受けるのは
お断りしよう!!!!!
そして、そうした予測をした企業は、
必ず「倒産」や「会社更生法適用」に至るのです。

大きな要素は、三つあります。
まず、「経営者の資質や思想」です。
次に、「資本主義における景気観の読み違え」。
最後が、「デザインを見下げている企業環境」でした。

私は、いづれ、私が体験してきたことを書き残そうと
思ってきましたが、
やはり、もう書き始めた方がいいと判断しました。
なぜなら、「デフレーション」・「デフレ・スパイラル」に、
現在の日本経済はこうなるだろうと、
私の予測は、予知ではなく的中しているからです。
最近のベストセラーに「イノベーションのジレンマ」
という経済と企業の予測本があります。
私は、この指摘はまだ「資本主義を前提」にした発想に、
経済学者の脆弱性を読み取っています。
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それは、「イノベーション」とは「景気循環論」
あるいは、「革新」という動機付けで「景気説」で、
その論理が終結的になっていて、
単なる「イノベーション」という
「話題」への「応答」説でしかないからです。
それは、
「イノベーション」を「課題」・「問題」ではないからです。
すなわち、
イノベーションでの「景気循環論」への
「回答」も「解答」も経済の論理では生み出せないのです。
イノベーションへの「解答」は「回答」を経て、
「デザイン」が明確化できると私は経験から考えています。


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『資本主義からの逃走』
  「マスカレードとして、ペルソナとして、
  日本株式会社だったのか」


   


     11月 6th, 2009  Posted 10:00 AM

ロシア革命に、日本も相当に荷担していました。
さらに、ロシアを敵対した日露戦争は、
真逆に、
私はソビエト連邦の共産主義を強化したようです。
1917年から1991年にソ連は崩壊しました。
おおよそ75年間の共産主義が終わった、
と言っていいでしょう。

そこで、私の見解は、
1991年12月25日のソ連崩壊は、そのまま、実は、
資本主義の勝利だったわけではない、という見解です。
ソ連崩壊とともに、対峙し対決してきた資本主義も、
終わってしまったのです。

むしろ、なんとか、資本主義では不可能であり、
共産主義では、ある種、
共産主義という宗教観にも似た制度では不可能という
その中庸性である社会主義的な
社会主義性を再考するという思考拡大が
世界観として、資本主義先進国家はできなかった、
ということに気づくべきだったのではないでしょうか。

そこには、
民主社会主義と言ってみたり、
自由民主主義での社会的公平性の不可能さを
世界観が、避けてきたのではないかとさえ、
私は思います。

私は、日本が資本主義を標榜していたのも、
敗戦での後遺症だったと思うのです。
「日本株式会社」は、「社会主義」を隠匿し、
隠避していた仮面国家が、発展したのです。

仮面劇・マスカレードとしての
「資本主義国家・日本」、
だったのではないでしょうか?

あるいは、
仮面・ペルソナとしての
「社会主義国家・日本」、
そのマスカレード・対・ペルソナを
見事に演じた民族性が
連綿としていたのではないかと私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
  「共産主義革命で殺された芸術家たち」


   


     11月 4th, 2009  Posted 3:54 PM

ロシア・アバンギャルドに関わった芸術家
(デザイナーと呼ぶべき人)は殺されました。
革命家であり芸術家でした。
モノでイデオロギーを表現出来た人達です。
私は、ソビエトが崩壊した時、
彼らの泣き声こそ、
鎮魂歌になると思ったものでした。

おそらく、「Fifth Dimension」という
経済論理が存在していたことを知る人、
そんな人は数少ないと思っています。
おそらく、MITでかつて発行された
(これも冷戦当時には大きな外交問題でした)
ロシア・アバンギャルド」の研究書を
読んだ人だけだと思います。

「革命」というのは、人命を奪います。
政治体制を転覆させるための戦争です。
こうした戦争は、革命集団の中にまで及んでくるのです。
ボルシェヴィキと呼ばれた革命参謀集団
そのカリスマ性とそのアジテーション、
革命の理想主義は、
このカリスマ性とアジテーションによって、
「独裁化」していきます。
共産主義は、私的行動を制限することで、
私的財産や私的自由性を政府が管理するものです。
二枚のポスターに、それが顕著に表れています。
しかも、それはもう1931年代になっています。
革命を牽引していた人物達の権力闘争での
犠牲者は芸術家たちでした。

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クルチス・1931
「男も女も労働者はソビエトの改選へ」

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クルチス・1931
「自国の英雄を知ろう」


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『資本主義からの逃走』
  「政治という形・表現された「かたち」が泣いていた」


   


     11月 3rd, 2009  Posted 4:27 PM

ロシア革命は、体制の大逆転により社会主義を実現。
まさに社会転覆をしました。
そのプロパガンダに、革命の手段として、
「芸術」を最も巧みに運用しました。
したがって、革命に荷担した芸術家の信念が、
私は、その革命を支援したイデオロギーに対して、
とても純粋だったと思います。

革命は、社会のあり方を理想主義的に表現します。
ロシア革命に、その具体例が「作品」になりました。
ロシア・アバンギャルドという芸術運動と言われますが
それらは、やがて「デザイン」と呼ばれるものへと
変更していくのです。
デザイナーが芸術家から職能家になっていきます。
そして次第に、革命の動乱から政治形態を整えていきます。
この革命の進行が理想主義を崩れ始めるのです。
革命後の経過は、革命の主目的から離脱していきます。
異次元な政治形態、すなわちイデオロギーの形は、
革命への動機を、見事に変えてしまうわけです。

ロシア・アバンギャルドと呼ばれた作品に、
その変貌ぶりや、革命意思のゆがみが反映します。
芸術表現も、大きな恣意性をもち始めるのです。

私は、デザインの源流として、
ロシア・アバンギャルドをとらえてきました。
革命のための手法とされた芸術、その応用性に、
「デザイン」の源流と原点を見てきました。
マヤコフスキーは、
「かたちが泣いている」と言ったのは、
革命が、やがてはその指導者たちの権力闘争となり、
社会性・社会正義であった革命動機は、
「政治という形」が変態してしまうのです。

私は、ロシア・アバンギャルド=デザイン源流、
その「作品表現」に、
理想主義に持ち込まれてくる政治的な恣意性を
見つけてきました。
デザイナーにとっては、
必ず、見通しておくべきことだと思っています。

ロシア・アバンギャルドが、
どれだけ、政治的に「作品表現」を変えたのか、
ということです。
次の3つのコーヒーカップが、
なぜいわば同じ「芸術運動」=ロシア・アバンギャルド
それにも関わらず、大きな違いが見られます。

チェオーニン・1921
まだ、特権階級の装飾性から離れられない。
チェオーニン

スエーチン・1923
もっとも、ロシア・アバンギャルドであり、
「純粋な形態」、以後のモダンデザインを決定づけている。
MoMAの収蔵品になっている。
レプリカは今も手に入る。
スエーチン

クズネツォフ・1923
革命指導者は、ロシア・アバンギャルドの作品を好まず、
やはり、特権階級的な表現を求め始める。
グズネツォフ

たかが、コーヒーカップです。
しかし、されどコーヒーカップです。
このコーヒーカップの形態と装飾に、
政治=イデオロギーの恣意性が表現されています。
ただし、この3点とも「コーヒーカップ形態」として、
まったく正しい設計になっています。
余談ですが、昨今のコーヒーカップのデザインは、
デタラメなモノが反乱しています。
これはイデオロギーどころか、
デザイナーがコーヒーカップそのものに対して
きわめて無知にすぎません。

ともかく、私は、ロシア・アバンギャルドに、
本来、理想主義を求めた社会革命が
かたちが泣いている」という言葉、
凝縮された理想主義に、社会主義・共産主義の崩壊は
もう見えていたというわけです。


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『資本主義からの逃走』
  「かたちは泣いていた・・・共産主義の哀れさ」


   


     11月 1st, 2009  Posted 9:41 PM

● 資本主義経済は、まず的な「収益性」を分配します。
それは、人間の欲望のまま私利私欲の追求です。
しかし、私利私欲は社会から疎んじられます。
したがって、資本主義には倫理性が求められました
その倫理性の具体化は、
欲得を社会化=私利私欲の公益化をめざすわけです。
それは、収益の社会的で公平な分配です。
分配というのは私利益の一部を社会還元することです。

社会主義は、公的利得がそのまま社会に運用され、
私的財産も公的に管理されます。
その主義によって、私的生活はほぼ完全に保障されます。
社会保障制度とは、本来は社会主義的な保護政策です。

共産主義は、私的財産は制限され認めない。
それが根本的な前提という制約制度です。
つまり、「収益性」と「公益性」のあり方を、
私的か、公的か、その自由性に委ねるか、否か、
という資本主義とは真正面から対峙・対決しています。
公的な平等性の強化を政治支配によって、
私的自由度は制限されても、公平性は確約されます。

● 20世紀は、この自由性・公平性・私的財産の保全など、
二つの主義=イデオロギーで分割され、
このイデオロギーは、対峙どころか対決しました。

● 私は、モダンデザインの系譜・デザイン史から、
共産主義と社会主義を概観することができます。
そして、この共産主義の登場からの系譜を見れば、
ソビエト連邦の崩壊の理由は明確に分かります。
それは「ロシア・アバンギャルド」によって、
「表現された作品」、
その「芸術家」から見えるのです。
彼らはデザイナーという職能家の源だったと思います。
ロシア・アバンギャルドによって、
共産主義の「かたち」が最も具体的に表現されました。
しかし共産主義革命は、革命直後から、
このイデオロギーが崩壊する兆しが見え始めています。
残念ながら、このことに言及した資料はありません。
● 私は、デザイナーになって以来、
ロシア・アバンギャルドの資料を収集してきました。
本論で、この言及を試みるつもりです。
それは、やはり、
この言葉から始めればと思います。
制約制度の中で大衆は泣きました。
共産主義の制度で苦しめられた人々、
その泣き声こそ、
このイデオロギーが終焉するまで
泣き続けていたのではないかと私は思っています。

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ロシア・アバンギャルドの中核人物
ウラジミール・マヤコフスキー(w)は、
革命直後にこう叫んだのです。
● 「かたちが泣いている」と。


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『資本主義からの逃走』
 「私利私欲の「私」と、
 「公」での制度・法・制約からの解放」


   


     10月 30th, 2009  Posted 12:36 PM

「ム」は、音読みでは「シ」となります。
「ム」の形象は腕を曲げて胸元にまで回しています。
この動作は、「自分のもの」という所作です。
「私」と「公」には「ム」が仕込まれている形態です。
見事にこの「ム」は、欲望を示しているのです。

「私」は、禾=のぎへんにムです。
禾は稲穂の象形です。
禾=いねを自分の物にする、という欲望ですから、
「私」は、まさしく欲望を体現しています。
対して「公」は、八=はちがしらにムです。
八は、屋根のある空間です。
空間の中に、ム=欲望を配置しています。
「公」=おおやけを象形した中に欲望を集めています。
つまり、欲望の私的=私利私欲と、
公的な管理に欲望を集めてしまうという公益性です。

私とは、私的であることの欲望の個人性のことであり、
個人の欲望を社会的に公することを公益性と言います。

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● 資本主義は、
倫理性で「公」の理論と論理で、
私利私欲、その正当性の基本を
ある種謀議化したものです。

● 社会主義は、
私欲を離れても「公」の制度で私欲に囚われない人間、
そうした人格性が社会によって形成と保護を受けます。

● 共産主義は、
私利私欲はあってはならず、「公」の制約制度で、
人格の育成を成就できるというものでした。

しかし、
私利私欲・制度での保護・制約制度など、
全てのイデオロギーの長所を持ってしても、
「私的」・「公的」の構図内や図式上で、
個人としての人間と、集団としての人間は、
まさしく剥離していることに
私たちは気づいてしまったのです。

「私」と「公」を民主主義で、「制度」や「慣習」、
そして、「法」すなわち「公」で、
自由・平等・愛は、
個人の私利私欲に倫理性で、生涯の人格性をもって、
「公」なる社会で「幸福」なのだろうかと、
みんながやや疑い出しているのが現代、
生きている現実の感覚だと思います。


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