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Posts Tagged ‘再生産’


6月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 22nd, 2021  Posted 12:00 AM

6月22日 大安(辛丑)

『元気としてのデザイン』

生産は
消費と対応するだけでなく、
情報の消費が、
循環や
再生産や
修繕や
修理という
もうひとつの図式を
私達の意識に
届かせられるかどうか、
利益獲得だけでない
生産の分配が
インテリジェンスリアリズム
だろう。

artificial heart:川崎和男展


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5月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 10th, 2020  Posted 12:00 AM

5月10日 先負(癸丑)

デザインが、
欲望、その再生産のための
トリガーとして役割分担され続けるなら、
せめて、
ブラックホールには近づくまい。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』18 アイ・ポイントからのミス・ブランチ


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『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』


   


     4月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

「鏡の背後には冥府への階段がある。」by 宮川淳
自分はこのフレーズを美大生の時に読んで以来、
それが現代美術へのひとつの大きな入り口になっています。
彼のデビュー作であった「アンフォルメル以後」は
今なお自分のアートからデザインに向かう姿勢の一つです。
まず、「芸術とは何か」という問いかけのその結語は、
この質問は、ただ、表現の再生産でしかなく、
「何が芸術か」という結語から、
彼はあくまでもデザインへの懐疑へ。
自分は、「何がデザインか」を常に問いかけ続けてきました。
しかし、未だにデザインは大きな懐疑=問題解決ではなくて、
「装飾」と同義だということです。
最も具体的には、オリンピックエンブレムデザインの公募や
政党マークの公募に現れています。
表現の再生産を、宮川淳は「鏡」にそのイマージュを重ねたごとく、
それこそ、ルネ・マグリットの「複製禁止」を見て、
ここに明らかな表現の再生産を破壊させられていると受け取る、
その知性がまだまだ育成されていない現実を知る必要があるはずです。
ユニバーサルデザインといえば済まされている思考、
インクルーシブデザインはエクスクルーシブの反対、
スペキュラティブデザインという問題提起での真の答え方、
全てに自分は「デザインとは何か」という、
再生産されてすまされている
「デザイン思考」の低レベルな思考停止の実際を
冷笑して見せることが出来るのです。
もし、鏡の前で自分の左手を挙げれば、
鏡映された自分は右手を挙げていることには気づきません。
だから冥府に降りる前に、「何がデザインか?」なのです。

*『鏡の背後を熟知するため、あるいは解放をめざす』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『AとしてのB・対・BとしてのA、という連語考察』
*『AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1』


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『資本主義からの逃走』
「能力訓練は逃走訓練だから、自己情報の管理と統合」


   


     7月 31st, 2010  Posted 12:25 AM

生産・消費・廃棄・回収・再生産
私はデザイナーなので、「スケッチ」が資本と主張してきました。
能力や才能が資本になるという、ひとつの具体的なシンボル例です。
マルクス時代は、あくまでも生産と消費の構造は「工業社会」でした。
ところが現代は脱・工業化社会として「情報化社会」が「情報社会」になりました。
しかもその進化は、生産と消費から、
「生産・消費・廃棄・回収・再生産」というサイクルが必然となっています。
結局工業社会での生産物が消費物となるためには、
「情報化」としての消費が待ち受けています。
つまり、
生産・生産情報・消費情報・消費、廃棄・廃棄情報・回収情報・回収、
再生産・再生産情報という具合に、
「情報化」が割り込んでいます。
ということは、「個人的な能力」あるいは「才能」も、
まず「情報化」されなければ「能力も才能も資本」にはならないということです。
したがって能力や才能には、
「情報」に対する個人的な=自己の管理力と統合力が
希求されていることは間違いありません。
1980年代から急速にパソコンやモバイルなどデジタル機器が、
その情報の管理と統合を支援しています。
すでに30年で、たとえば、インターネット・ユビキタス・スマートホン、
そしてクラウドという情報基盤の中で、
まさに生息している自分と対峙することを要求されています。
この30年、「情報基盤」の進歩は、私たちの想像を超越しています。
そんな中で、自己を生息させることへの積極性と消極性は
各自、二分されてしまったようです。
積極的と消極的な逃走訓練

「情報化」の脅威、
「情報化」の虚偽、
「情報化」の性善、
「情報化」の性悪、

この四句分別への正当さを自分自身の日常的な生活態度に出来ないかぎり、
私たちは生息していくことはできません。
それはとりもなおさず、自己能力の情報化訓練です。
だから、私は「情報化訓練」=「資本主義からの逃走訓練」だとさえ思っています。


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『資本主義からの逃走』
    「スケッチという資本、その構造」


   


     7月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

資本の分類
「資本」は、利益獲得の元手という意味では次の三つになるでしょう。
また、それらを拡大することで、
現代的自由経済での資本主義の構造を構築したきたのです。

   ■1・生産物の蓄積・道具や原材料から食料、住居
   ■2・土地や天然資源・天然に存在するすべてのもの
   ■3・個人の才能や能力、熟練された技術

知的資本
つまり生産や将来に対して、
その利得につながるであろう蓄積の全体を構造化しているものです。
以上のことから、私はデザイナー能力による「スケッチ」は資本だと考えます。
デザイナーの能力あるいは才能が生み出した具体的な「スケッチ」そのものは、
資本としてそこから蓄財されるものがあります。
スケッチに限らず、企画書や、図面などもそうした資本であると考えられます。
マルクス当時の資本主義批判には、こうした考え方はなく、
むしろ生産からの収奪や搾取が語られていたことです。
そして当時の状況からは、
<個人の才能や能力、熟練された技術>が資本という発想は無かったも同然です。
これは、現代の「知的財産権」としての制度である資本の構造化だと考えられます。
ただし、「スケッチ」がまさしく、
たとえば銀行がその価値が再生産されるという認識は皆無です。
もし、「スケッチ」が社会的な蓄財として保証されるのは、
デザイナーやアーティストの「アート的作品」という成果物としてです。
本来、「知的財産権」という資本の蓄財、
その社会制度が効用するとするなら、
これは資本主義を革新する大きな動機になることは間違いないでしょう。
私は、スケッチ=資本に「逃走の場」があるものと予知しています。


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