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「文明を開花するモノの魔性」


   


     6月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

火と刃物から、人類の発明。
発明は発見から生まれました。
人類の発明は多数多大でした。
その背景を科学とし、実践を技術。
そして、この発見者・発明者は常に偉大でした。
この科学と技術の間にデザインが入るのは稀でした。
私が越前打刃物に関わったときも、
包丁や鉈に「デザインを導入する」ということでした。
そして、私には刃物には魔性があると思ったものです。
それは、深夜に試作の刃物をずらりと並べて、
図面を描きながら、時々、試作の刃物を手に取ると、
刃物が語りかけてくるのです。
まさに刃物のアフォーダンスが襲いかかってくるのです。
自分をその刃物で刺したくなってしまうのです。
越前打刃物には、
「刃物は人格を超える」という話が語り継がれています。
それは些細な不注意で、刃物で怪我をしてしまうこと、
そんな時は、床に刃物を置いて、またいでやるべきと。
まじないにすぎないでしょうが、
切れ味の鋭さが使い手の人格を否定してくるのです。
つまり、たとえ包丁であったとしても、
人を刺し殺すことが出来るモノです。
途端に「武器」に成るモノです。
日本刀真剣を抜いてみれば、
背筋が凍てつくほど怖さがアフォードしてきます。
つまり、発見・発明されて文明=自然と対決すること、
そうしたモノには必ず、モノ凄い畏敬が宿り、
そのものものしい畏敬には生命の危険性、
恐怖感があって当然だとさえ私は思ってきました。
包丁ですらそれは決して「安全」なモノになるには、
神話で語るわけにはいかないモノの魔性があります。
「原子力の安全神話」というのは、
原子力という発見と発明に潜む魔性を科学技術が、
最初に無視する行為を選んでいるのです。
科学技術には魔性なんて非科学性だったのです。
ところがデザインには、
モノの持つ魔性性を見抜く力があります。
なぜなら「美」の周囲には必ず妖艶さや、
さらには魔性があると感じることができますから。

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