kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘刺激装置’


10月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 5th, 2013  Posted 4:16 PM

10月5日 甲寅(仏滅)

経済活動のための
欲望の刺激装置としての
デザインの時代は終わった。

『デザインの極道論』むなしい


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「限り無い物欲を離れたくも・・・」


   


     5月 18th, 2013  Posted 12:53 AM

もう物欲などまったく不必要だと自分では確信しています。
しかれども、私は「モノづくり」を天職としてきました。
それは、モノ=物欲に向かわせる職能だと思っています。
だけど、物欲についても徹底的に自分の物欲で、
その作用点・方向・大きさを検分してきました。
すなわち物欲のベクトルを自分で実験をしてきたことになります。
一方で、
私は「デザインは欲望装置=物欲の刺激装置にあらず」を、
積極的に果敢に書き、述べてきたことも事実です。
物欲ベクトルとデザインベクトルを対象にして、
その対峙化・対照性・対決性までそれなり詳細に考えてきました。
ところが、私の物欲ベクトル、このコントロールが、
完全破壊される物欲領域はどうしても抹消できません。
この物欲領域は正直もう抹消する時期だと充分に分かっています。
その一つがオーディオです。
かなり自分の周囲を整理しなければならないと思っています。
これまでも、もう使わないと言い聞かせて、
できる限り、スタッフに配ってきたりしました。
ところが、ヘッドホンの新機種が出ると、
なんとしても、「その音」を自分の耳で確かめたくなります。
また年齢が加算されれば「聴覚の衰え」も分かります。
これも新製品の技術とその品質性、無論デザインも気がかりです。
ヘッドホン・アンプも、とうとう限界を知り、
通常のデジタル対応プリメインアンプでこそ分かるはず、
こんな物欲を相当に自分で押さえ込んできました。
理由は二つあるのです。
なんといっても、オーディオの物欲は消去決定しました。
もう一つは、
ワイフは新製品をプロのデザイナーだから見逃してくれます。
しかし、オーディオに段々とインテリアがその色になりだすと、
怖い存在です。
最近は、ショッピングはいとも簡単ですから、
私には最適な環境になっています。
これが私の最大の敵だと思います。
大きな段ボールが郵送されてきて、ずばりとばれます。
ともかく、今、このヘッドホンとアンプは、
多分最適な頭部音場空間を私に与えてくれるのです。
この物欲ベクトルは、必ず、整理し消滅させる時期です。


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8月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 27th, 2011  Posted 9:30 AM

8月27日 甲寅(仏滅)

経済活動のための
欲望の刺激装置としての
デザインの時代は終わった。

『デザインの極道論』むなしい


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『資本主義からの逃走』
「Appropriationー”かわいい”という印象を引き込む危険性・2」


   


     4月 12th, 2010  Posted 12:01 AM

kawaii
「かわいい」という日本語はすでにkawaiiという世界語。
kawaiiは、日本文化として世界の若者に発信できる文化語です。
私はこれは素晴らしいことだと評価してます。
しかし、「かわいい」を
designしかもappropriationに結びつけることに意義があります。
まず、「かわいい」の意味を吟味しておくべきでしょう。
「か」という接頭語は「蚊」という生物名からも、「小ささ」を表します。
「川」すら、小さな「水分や渦」+わ「和」=大きさです。
幼さや小さなものへのいとしさが形容詞になっていることです。
愛らしさや愛らしいこと、愛情をもって大切にしたり、
殊勝さから、労しさ、痛々しさなど不憫さや可哀想だ
という形容動詞にまで連続している感情用語だということです。
この感情用語であることに、
まず、評価言葉としての不安定さを認めておくべきだと思います。
なぜならば、感情用語というのは、
感性を陰陽学でいうところの「陰」の世界観があるからです。
感情を単純に言い直すと、
「感性にドロドロとした汚れが流れ込んでくる現象」という解釈があります。
感情がきわまるというのは心が哀しみや怒りという理性では
留めようもないことが流れ込んでいっぱいになることです。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しい」という、
ジェームス・ラング説があります。
不気味の谷・論
だから、「かわいい」という愛しさと悲しみには
連鎖性が心理的にあるということです。
ロボット表情学として、私の学生が修士論文で分析した、
「笑っている表情」、
その分析には、「怒りから悲しみ」が見事に分析され、
いわゆる、ロボット学での「不気味の谷論」をさらに詳細化しました。
私は、「かわいい、かわゆーい」というモノを所有する意識根底には、
「自分顕示」の置換性、転用性が起こります。
さて、私はこのことを非難しているわけではありません。
本質論としてのアブダクション的なデザイン面を語り切る論理が、
この「かわいい」から「きれい(形容動詞)」、
そして「美しい」へという手続きを明確にしたいからです。
ところが、この手続きやアブダクション性を転用するのに、
「盗用性」が加われば、これはさらに強化されることは明白です。
この「盗用的表現」+「かわいい」=欲望の刺激強化です。
そのことを私は指摘しておきたいと考えます。

無論のこと、私自身、キティちゃんからドラエもんまで、
「かわいい」と言われるアイコン性は、
日常への愛しさの反射対照性として容認し、
かつ、私自身がまず大好きです。
しかし、プロのデザイナーとして、
どこまで「かわいい」と「盗用と思われる表現」、
その隔絶性と融合性の線引きは、職能義務と考えています。


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『資本主義からの逃走』
 「# チュッパチャプス武器論・結論という展開へ #5」


   


     3月 24th, 2010  Posted 12:01 AM


たかが、されどチュッパチャプス

たかだか飴ごときモノに私は囚われました。
自宅のあちこちに置いています。研究室にもです。
出張の時は「忘れないモノ」の一つです。
それは、されど飴なのに「チュッパチャプス」は武器。
武器になる飴=モノだと発見したことから始まりました。
さて、
武器は、ツールでありメディアなのです。
そして武器は、平和装置になるモノです。
威嚇性や抑止性というある種恐怖感への刺激装置です。
ところが、現代のモノには、根底では恐怖感があります。
私の生活はなるほど快適ではあるけれど、
これが地球的規模では大丈夫だろうか、などというのは、
恐怖感があると言うのは言い過ぎでしょうか。
すなわち、モノの、
実在性・機能性・構造性・象徴性 が変革し始めています。
たかだか飴です。
それが、ツールになったりメディアになったり、武器です。
結論は、
ツール+メディア=武器がもし成立するなら、
● 武器ーツール=メディアが成立するのでしょうか?
● 武器ーメディア=ツールが成立するのでしょうか?
という今後への展開を思考していく新たな問題です。
私は、「チュッパチャプス」を題材にしながら、
実在性・機能性・構造性・象徴性が
性能性・機能性・効能性・神話性へ
ツールであれ、メディアであれ、意味性=情報性が
大きく変貌しているということは確かです。
そして、この変貌への展開文脈=contextとsyntaxは、
「武器」の定義性では次の両面において
自己防衛モノもしく専守防衛モノということの論理の有無です。
それは実存化させている論理の再確認でした。
武器であることの実存性ということを結論と考えています。
武器=ツール+メディア、
その形式と内容が情報化されればされるほど変容は起こります。
それは存在していることの意味性の確認と、
今後への予測を明確にしないかぎり、
モノのデザインは不可能だということになります。
たかが「チュッパチャプス」でしたが、
武器・ツール・メディア、それぞれに、
されど「チュッパチャプス」を論理で舐め舐めしてください。
この「チュッパチャプス武器論」が、
デザインの下敷きになることを希望しています。


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11月11日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     11月 11th, 2009  Posted 12:00 PM

11月11日 先負(庚申)

経済活動のための
欲望の刺激装置としてのデザインの
時代は終わった。
そのことを、
プロであるデザイナーがまず
誘導し主導しなければならない。
もし、
経済や産業に
デザインが与するとするなら、
それは、わが国が
貿易立国として存続していく
戦略や戦術としての
デザインである。

『デザインの極道論』むなしい


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