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Posts Tagged ‘剣’


『「刀狩令」が刀剣を武器ではなくしている。』


   


     12月 20th, 2018  Posted 12:00 AM

武器を使わないことが、日本の魂でした。
刀剣は日本では武器ではないのです。
三種の神器、鏡・玉・剣のひとつでもあり、
天皇の受け継ぐ宝物の意味だけでなく、
支配や権力の象徴でもありました。
刀剣は、神様を崇める道具、魔除けとして
例えば、薬師寺では咒師が「五穀豊穣」「万民豊楽」を祈り
2本の刀で天地を指し、堂内を結界します。
より身近な端午の節句の弓と刀は、神様が降りて宿る長い弓と
人を傷つけない儀式と護身のための飾りであるのです。
しかし、世界中では、武器である刀剣を
精神的にも象徴ということがまだ行き渡っていません。
日本の歴史上には度々「刀狩」がありました。
それこそ、鎌倉時代には1228年には高野山の僧侶や従者から、
刀剣などの武器を取り上げることを行いました。
また柴田勝家は1580年には一向一揆を鎮圧平定し越前を治めました。
刀さらえ(刀狩)を行い、集めた武具を作り替え、
作り替え農具にして、領民たちに渡しました。
その後、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗北します。
私の高校時代には、駅の西方には柴田勝家が
深夜に歩いているという都市伝説がありました。
そして、安土桃山時代1588年8月29日には
豊臣秀吉が「刀狩令」を発令し、
日本全国で、兵農分離を進める政策を打ち出しました。
男子の人格と品格、名誉の象徴は、施策の対象となったわけです。
現代でも、米国では武器である拳銃や銃器を
国民が取り上げることはとても困難です。
背景には、秩序ある国家支援の退職者軍人組織があるからです。
私は刃物のデザインをし道具をつくりだすこの道具を大切にしています。
そして日本の葬儀では慣例ですが、
亡くなった人は守刀を上にのせて守られあの世へ向かいます。
きっとデザインした守刀で向かいたいと考えています。


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『武士道・騎士道の中心象徴の「刀剣」の美学性』


   


     5月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

この小説を読んでから随分と経ちますが改めて読み直し、
その冒頭の書き出しに注目しています。
理由は明快です。
なぜなら、米国のハンティングナイフや各国軍隊のナイフは
講義可能になりましたが、「日本刀」についてはまだまだです。
ともかく、「玉鋼」・「火打ち荒削り」・「研磨仕上げ」まででも
そこからの仕上げにはとても到達できません。
思い起こすと、「チェーザレ・ボルージア」に戻れば、
彼が有していた「剣」こそ最高と言われていますから、
このいわゆる「西洋の剣」その造りに戻れる気がします。
世界中の刀剣研究家たちの評価は、「日本刀」が最高とのことです。
これには二つの見解があります。
科学的な検証での素材がなぜ最終的には冶金技術や仕上げられた金属、
その内容が不明だというほどの金属性能をもっているという事実です。
もう一つは、日本刀の「象徴性」です。
自分なりの「象徴性」の背景には
「葉隠」という武士道の哲学があったからです。
同様に、武士道と騎士道には近似性が見事にありますが、
「チェーザレ・ボルージア」という人物には
決して騎士道はありえずですが、
それでもなぜ象徴としての「剣」が存在しているという刀剣の
その魅力・魔力・妖刀性をデザイナーとして見直しが必要です。
「刀剣」は現代、偽物が平気で氾濫しています。
何と言っても、「包丁」でこの現実がそれこそ低能なデザイナーが荷担し
日本刀の正当者からその偽物包丁に文句が出始めていることです。

*『刃物の地肌、その偽物氾濫が流行している』
*『喧嘩とは、自分に売ることが基本だ』
*『日本が貧乏になっていく、と思うのは・・・』
*『なぜ、あえて「日本刀」と呼ばれたのか?!』
*『直線を徹底するために「曲線」を身体化してきた』


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『銀河系の帝国主義、そのアーキタイプは未だ戦争か』


   


     1月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

「STAR WARS」という映画を観るたびに、僕はこの映画、
そのシリーズは興味深いですが、
この世界共通の神話的なアーキタイプと
汎神論的な、世界が共通的に抱えてきたフィクションが
やはり、善と悪、民主主義と帝国主義なのか、
結局は銀河世界での未来戦争を知ります。
はっきり言えば、人類学的、神話的であっても
「戦争」でのワクワク感に落とし込まれる映画表現の罠、
そうした大変な仕掛けを見直してしまいます。
結局、この考え方に行き着いてしまう怖さになるのです。
「こんな考え方でフィクション化できる国とは」と考え直します。
どこかで人間いや米国人は「民主主義の崩壊」はそのまま「帝国主義」を
それほどまでに望んでしまうのだろうか、
と僕は今回も改めて確認しました。
たまたまフランスで「BB-8」を見つけて購入していました。
「STAR WARS フォースの覚醒」が封切られると、
日本でも大きな話題になりました。
僕も正月早々に京都でこの映画を観たのです。
早速、フランスで購入した「BB-8」をiPhoneでコントロールしてみると、
映画のロボット表現は、これまでを一新していたのは確かですが、
僕には、銀河系フィクションだったとしても、
民主主義の破壊=戦争=帝国主義というアーキタイプが再提出されていて、
決して僕の好みの映画ではありませんが、
工業デザイナーとしての想像力は、
未来と銀河系の正義感を護るロボット存在を確認します。
キャラクターとしてのロボット存在を見逃すことはできませんが、
かつて、あの金色ロボットC-3POと、如何にもロボットR2-D2も、
ボストンのコンピュータミュージアムにあり、
ライトセーバーなる剣を米国土産に買って帰ったものでした。
そして、玩具のライトセーバーも大きな変化を見ましたが、
フィクションの戦争も「斬り合い」になるというのが
未だに僕には奇妙です。
人類の想像力は、未来映画でも「戦争イメージ」と「戦争アーキタイプ」も
まるで変わらないという不気味さを見直すだけでした。
米国映画は、あくまでもアクション映画も宇宙映画も「戦争」です。
米国はいつもどこかで「破壊」のイメージ強化を
確認しているのでしょうか。
そろそろ、STAR WARSのアーキタイプでの汎神論的な方向性を
全く革新することを望むのは僕だけでしょうか。


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『日本人である「三種の神器」の意味再確認』


   


     3月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

私は日本人で在ることをとても誇りに思っています。
その根本として「三種の神器」という日本国家のモノの存在です。
「三種の神器」というのは、簡単に言えば、剣・勾玉・鑑です。
当然ながら、この三つの国家としてのシンボルには、
それぞれの意味が配置されていますが、
私は、私なりの解釈をしています。
鑑は「太陽」をシンボルにしていますが、私は鑑=鏡として、
人間の通信=コミュニケーションの象徴であり、現代はそのまま、
光通信に直結していると思っているのです。
「勾玉」は政(まつりごと)の基本=呪術のモノですが、
私は、自然界からのモノを磨き上げてきた技術の表れと思います。
そして、刀=片刃ではない剣(両刃)は、まさに刃物であり、
これは武器=自分の身を守り文明の源のシンボルです。
しかし、日本人にとっての武器とは、もっと深度がある思想、
すなわちそれは、剣をシンボルとした思想の象徴と考えます。
世界のいわゆる王室=政は剣でそれぞれの王室国家は、
その武力性を剣そのもので表しているわけではありません。
むしろ、その剣を持って国の安全保障を誓約する象徴なのです。
国家の安全の象徴は、そのまま国家理念・国家思想です。
こうして考えてみると、「三種の神器」である三つのモノは、
その国家に属することの人間の生を護る三つのモノであり、
それを国家の基本としている日本の成り立ちを、
私は見事に信頼することが出来ると思うのです。
そして、私は、日本の未来、日本人の未来を支えるモノの体系は、
必ず、これらの象徴された剣=思想、勾玉=技術、鑑=伝達に、
すべてのモノの体系に治められる、
まさに隠喩として納得理由があると思うのです。
だから私たち日本人は「三種の神器」在ることを誇れるわけです。

「『鏡』の存在を知り尽くすこと」
「この技術はデザインによって大変革の時期がきた」


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「竹刀か、木刀か、喧嘩の手段にも剛柔あり」


   


     8月 26th, 2012  Posted 12:00 AM

一人っ子の少年は、
兄弟のいる少年たちにしばしば「虐め」られていました。
大抵は、兄たちがその少年を虐めて苛めるのです。
少年は、とても力で対抗はできませんし、
泣くわけにもいかず、仕返しを考え抜き決意をしました。
(そうだ、よし夕食時に殴りこもう)と考え、
自宅にあった父の剣道用の木刀を夕方時に持ちだそうとしました。
母が必ず、木刀を持ってどこにいくのと聞いてくれるだろう。
そうしたら、理由を言えば、母は止めてくれるし、
いじめられていることも告白できる、と。
木刀を持ち出そうとすると、
その母は、言いました。
「木刀だと、本当に怪我をし破壊をするから竹刀にしなさい。」
そう言って、木刀を取り上げられて、竹刀を渡しました。
少年は行かなければならなくなりやむなく兄弟の家に行きました。
そして夕食時にテーブル上のお皿というお皿を割りまくりました。
大変な騒ぎになりました。
以後、その少年は、
「何を仕返しするかわからない男だ」という噂になりました。
完全な自己防衛ができる身分になってしまいました。
帰宅すると、母が言いました。
「やるだけのことはできたの、気がすんだの」
少年は「・・・・・ん」とだけ答えましたが震えていました。
当然、その家族は血相を変えて怒鳴り込んできました。
母は、
「弁償をさせていただきますが、
兄弟そろって息子をいじめるのは辞めていただきたい。」
少年は震えが止まりませんでした。
母は父にその出来事、事件を告げました。
父は、
「やっつけるにも手加減がいる。
竹刀で物だけ壊したから許してやる。人には竹刀を向けるな」と。
その少年は喧嘩のやり方の手段ということを考えるようになりました。
竹刀は柔らかい、木刀は剛過ぎる、
だから喧嘩の手段は論理的にも柔が剛を制するということでした。
やがて、その少年は「喧嘩師デザイナー」と呼ばれるので、
「デザイナーは喧嘩師であれ」までを出版しました。


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10月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 17th, 2010  Posted 10:00 AM

10月17日 赤口(庚子)

なぜならば、
「言葉」は、
「言」という文字にすでに
「剣」が包含されているからだ。

『デザインは言語道断』面罵


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