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Posts Tagged ‘勾玉’


『この秋からコンシリエンスKK塾開講』


   


     9月 4th, 2015  Posted 12:00 AM

デザイナーはデザイン意図とデザイン内容で、
自分のデザインを発想・表現・伝達しなければなりません。
勿論、オリジナリティは矜持すべき
最大のデザイン、デザイン言語だと言ってきました。
デザインと格闘をしてきて40余年、私はデザイナーとして,大学人として、
この基本的論理化を、デザイン思考での不十分さを
デザイン記号論=デザインすることとデザインされたことで補強しました。
この二つを
造形言語=designing languageと
形態言語=designed languageによって、
デザイン意図はデザインする意味性であり、
デザイン内容はデザインされた意味性としました。
この論理化を、造形言語+形態言語=問題解決には
三つの答で、
応答・回答・解答をデザイン記号論から
コンシリエンスデザイン記号学であるという実務展開をしています。
結論も明確になり、問題解決で答を出すことは
まさしく解放されることでした。
これは解放=「ほどける」ということになります。
日本文化の素晴らしさは、この「ほどける」ことが
人生=死ぬこと。
すなわち「ほとけ=仏」の世界観です。
40余年デザイン界で、デザイン実務とデザイン教育によって、
なぜ、あの柳宗悦が白樺派にて最終は仏教思想になり、
わが恩師である柳宗理先生は、
民藝を乗り越える、
アノニマス・アンコンシャスビューティ・ゲマインシャフト、
この三つで私たちを鍛えていただいたかを大学人になって少し知りました。
確かに、柳宗悦は刀剣を民藝には加えませんでした。
しかし、私はその刀剣=武器=戦いをさせないモノに
自分は深く入りこんできました。
そこには、生命を守り、危機解決が日本人には必要ゆえに、
勾玉・鏡・刀こそ、モノであり日本文化のシンボルだからです。
刀=農業革命、勾玉=工業革命、鏡=情報革命だからです。
もっと詳細に付け加えると、
刀は鎌をつくり、勾玉は研磨=トライポロジーであり、
鏡は通信技術につながっているからです。
この秋から、KK塾は大阪だけではなく、
霞ヶ関の大阪大学東京オフィスでも開始します


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『日本人である「三種の神器」の意味再確認』


   


     3月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

私は日本人で在ることをとても誇りに思っています。
その根本として「三種の神器」という日本国家のモノの存在です。
「三種の神器」というのは、簡単に言えば、剣・勾玉・鑑です。
当然ながら、この三つの国家としてのシンボルには、
それぞれの意味が配置されていますが、
私は、私なりの解釈をしています。
鑑は「太陽」をシンボルにしていますが、私は鑑=鏡として、
人間の通信=コミュニケーションの象徴であり、現代はそのまま、
光通信に直結していると思っているのです。
「勾玉」は政(まつりごと)の基本=呪術のモノですが、
私は、自然界からのモノを磨き上げてきた技術の表れと思います。
そして、刀=片刃ではない剣(両刃)は、まさに刃物であり、
これは武器=自分の身を守り文明の源のシンボルです。
しかし、日本人にとっての武器とは、もっと深度がある思想、
すなわちそれは、剣をシンボルとした思想の象徴と考えます。
世界のいわゆる王室=政は剣でそれぞれの王室国家は、
その武力性を剣そのもので表しているわけではありません。
むしろ、その剣を持って国の安全保障を誓約する象徴なのです。
国家の安全の象徴は、そのまま国家理念・国家思想です。
こうして考えてみると、「三種の神器」である三つのモノは、
その国家に属することの人間の生を護る三つのモノであり、
それを国家の基本としている日本の成り立ちを、
私は見事に信頼することが出来ると思うのです。
そして、私は、日本の未来、日本人の未来を支えるモノの体系は、
必ず、これらの象徴された剣=思想、勾玉=技術、鑑=伝達に、
すべてのモノの体系に治められる、
まさに隠喩として納得理由があると思うのです。
だから私たち日本人は「三種の神器」在ることを誇れるわけです。

「『鏡』の存在を知り尽くすこと」
「この技術はデザインによって大変革の時期がきた」


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