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Posts Tagged ‘区別’


3月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 12th, 2022  Posted 12:00 AM

3月12日 大安(甲子)

『統合としてのデザイン』

同一性には、
samenessと
selfhoodとの区別も
明確にできないままに
企業のシンボルマークと
その展開が
決定されてしまう。

artificial heart:川崎和男展


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『燃えるゴミと燃えないゴミって?』


   


     3月 2nd, 2022  Posted 1:00 PM

パッケージデザイン界が確実にあります。
「製薬会社」っていっても、「ジェネリック?界隈」。
私は心臓障害であり、ワクチンはとても嫌です。いい加減です。
心筋症なら、米国では「ジェネリック」は使ってはならないのです。
ドクターたちも、私は断言しています。論文読んだのですか?って。
現状の薬品は「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」があるのです。
つまり、燃えるパッケージに燃えないパッケージがあるか、
燃えないパッケージがに燃えるパッケージ、それが同一なのです。
皆さんはどちらにしているのでしょうか?
阪大に来たとき、製薬会社たちに包まれて、
「水虫と目薬、別けてほしい」って言われてしまいました。
パッケージデザイナーには、確実にやってくれるのが、
同窓がいたので預けました。が、2年前に逝去しました。
「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」、全く分別も区別もつきません。
「差別」はやっても駄目です。
かなり、燃えるゴミも燃えないゴミをやれる機器系を懸命に探しました。
必ず選んでもいました。
ともかく、デザイナーが果たすのです。


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5月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 24th, 2021  Posted 12:00 AM

5月24日 仏滅(壬申)

『観念としてのデザイン』

創造行為として
デザインとアートを
区別するにも、
たとえば、
コンセプチュアリズム
ならば
デザインは
チームワークが
可能であり、
むしろ
デザインの正当性は、
チームの
合目的な合意の
コンセプト表現で
証拠立てられ、
概念的モノとして
アートよりはるかに
その意味の
分かりよさを
強調してきた。

artificial heart:川崎和男展


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『新素材の「ソフトリング」だから紙の質も見分けたい』


   


     5月 28th, 2019  Posted 12:00 AM

2015年に日本文具大賞を獲ったノートでした。
それ以来、これが自社開発のプラスティックで綴じた
「SOFT RING(商品名)」で、
新たなノート仕様に変わったことが
革新=問題解決と価値創りだったと私は思っています。
ノートは長い間、単なる糊着から金属製で綴じられていました。
ところが、とても柔らかいプラスチックのリングに変わり、
紙と鉛筆・筆記具を扱うことで、
手と筆圧をやさしく柔らかく受け止めています。
新たな材質に変わって、これはデザインの大きな革命でした。
開閉、全開がスムーズで、
柔らかなリングを横断して書くことにもストレスがありません。
しかし一方、日本の紙質が変わってきているという問題があり、
日本製から中国製にして、紙の質が退化し、
変わってきているのです。
その質の差違が判断できないユーザーもいるでしょうが、
海外製のブランドでも
商品ブランド価値が知られるようになった段階で、
原価を下げるために中国製に退化していることがあります。
リフィルをいつものように購入するときにも
しっかりと紙質を確かめないといけません。
紙質を分かっている人達は、
ちゃんと区別をつけてそういったブランドを見ています。


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12月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 13th, 2017  Posted 12:00 AM

12月13日 大安(甲戌)

商品の差別化は、そのまま人間の
差別化につながっている。
大事なのは、
「区別して分別がかなう選択の対象」に
商品とそのデザインを置くことなのだ。

『デジタルなパサージュ』 思考して「言語道断」


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『障がい者差別は「差別」という無知者表徴』


   


     12月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

28歳で交通被災、車イス生活を余儀なくされて、
すでに40年も車イス生活をしてきました。
信念として、車イスゆえに障がい者対応を求めないという姿勢を貫きました。
これまで、「差別」を受けたのはまず、リハビリ病院のドクターからでした。
「君は40までしか生きれない。」など。
そして最近になって、私が身しょう者ゆえの差別を受け、
それは私の存在否定論と解釈して理論武装を決めたのです。
かつて解放同盟からの執筆依頼を受け、これも差別と受け取ったとき、
雑誌編集部とは徹底論争で彼らは敗北して以後彼らからは攻撃無しです。
たとえば、商品戦略や企業のデザイン戦略で「差別化」という言葉は、
私の徹底的な批判から非難対象にしています。
「差別化した商品」というのは、商品ユーザーを差別しているのです。
したがって、企業が「商品の差別化」を一端発言したなら、
その企業存在そのものを区別、分別する論理で企業の社会的効能性を否定。
幸いにも私は、大学人になって、名古屋市立大学を離れる時には、
事務方の方が、私のために全自動ドアにできなかったことと言われました。
阪大においても、研究室は吹田市の規定でのスロープ設置、
豊中キャンパスには私のためも考えられた屋根付きの駐車場。
しかし、障がい者雇用促進法を知らない、「障がい者業者生活指導」要綱、
そのはき違えは、おそらく、この公的大学であってすらならば、
社会全体にはどうなるのだろうか、この調査を開始しています。
1860年、咸臨丸が日米通商条約で渡米、
その翌年1861~1865年の南北戦争は、公民権運動が開始される源流であり、
それがADA法にまでたどり着いたのです。
おそらく、この2冊で十分に現在の障がい者差別解消が可能であり、
この理論武装は成し遂げることができるでしょう。
それこそ法廷論争での障がい者差別判例は「ジュリスト」で確認可能です。
新幹線ホームにエレベータ設置を先導し、
ユニバーサルデザインエディケーションプログラムもわが国に提案、
身しょう者運転ステッカーも自分デザインです。
最近は、列車デザインや船舶デザインでのバリアフリーデザイン、
そのいい加減さも発表してきました。
なぜなら、健常者などは絶対に一人もいないのです。
人間はすべて障がい者なのです。
まして障がい者相手の商売をしながらの
差別企業、差別組織には「剣よりも強し」を実践します。

* 『空港ゲートは二つあるが、適当設計過ぎる』
* 『障がい者雇用における差別解消の管轄理財』
* 『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』
* 『「眠る環境」その要素としてのウォーターベッド』
* 『ユニバーサルデザイン・バリアフリーはまだ未消化』


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12月01日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 1st, 2017  Posted 12:00 AM

12月01日 大安(壬戌)

人間は往々にして、
「区別」と「差別」を「分別」できない。
差別が残る。
しかし、
差別をなくしていきたいという夢が、
現代世界の理想としての共通認識、
分別になってきている。

『デジタルなパサージュ』
吾這宝剣、力囲希咄


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『いのち・生きること、命は与えられたもの』


   


     10月 22nd, 2017  Posted 12:00 AM

28歳、交通被災にて車倚子、
今は使われていない「廃失」告示を受けました。
これは死亡と同じ社会的な扱いです。
45歳で心臓障害、これは今では明らかですが、
交通被災時に心臓にまで与えた衝撃だったようです。
そんなことから、これは今私が朝だけ心臓障害を予防するための薬剤ですが、
ICD(除細動器)をもう2台目を埋め込んでいますから、
昼と就寝前には2錠剤だけです。多分来年はまた3台目を埋め込むでしょう。
ICDは万一の場合、心臓異変が在れば作動して、一時、心臓を停止させ、
再びそれこそ生き返るわけです。一度死んで、この経験もあります。
朝ともかくこれだけの錠剤とICDで生きているということです。
交通被災後には40歳までと言われていましたが、
これで、3度、重篤=多臓器不全死近しの経験もしました。
例えば、医師の国家試験は「人を傷つけていい=メスを使う」検定での認可。
薬剤師は「毒を使ってもいい=薬は毒でもあります」から国家認定です。
私は毎朝これだけの薬と車倚子を見詰めています。
正直、面倒な生き方をしていると思いますが、
医学・薬学・歯科学が私たちの命を護ってもらっているのです。
私のテーマである「いのち・きもち・かたち」の「ち」思想は、
私のこのことから、デザインに反映させているのです。
だから、例えば身しょう者を愚弄する場合は、いのちがけで闘います。
だから、身しょう者・病人への明らかに商売人は「敵」だと思っています。
もし、「差別化戦略」を平然と商品企画で使うなら、
私は絶対に許さず立ち向かうことにしています。
差別ではなく、区別ともっと品格がある分別を強く要求します。
人間は、私も40歳までと言われながら、もう車倚子生活40年です。
そうしたことから考えると、人間は強いと思います。
私は障がい者であるのも身体障害・心臓障害があっても生きています。
先般も、もう絶対に生き返らないと思っていた人が、生きのびたのです。
現在の私には車倚子・ICD・これらの錠剤、
そして徹底的に歯のメインテナンスで身体的な命を繋いでいるのです。
命は、自分のものではないのです。
「生きること」は与えられたものだといつも思っています。
自分の「ち」は美しいいのちで逝きたいと思っています。

* 「毎日の喧嘩相手は薬だ、日常的な自分との喧嘩でもある」
* 『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
* 「健康は失い薬づけだが幸運なり」
* 『AEDとICD、街で見かける除細動器と私の体内除細動器』
* 「除細動器埋め込み入れ替えより生還」


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『デザインによる美はセンスとしてのテコが要る』


   


     10月 14th, 2017  Posted 11:00 PM

人には人間と人類が種別できます。
そして、人間である条件、人類である条件は極めて勝手気ままな無常識。
同じことが、能力あるいは力(ちから)にも反映しているのです。
私は力:ちからを懸命に追いかけてきました。
それこそ、ちからという日本語での区別・差別・分別全てでの定義です。
簡単に言ってしまえば、ち+からです。
ち+空=この仏教的解釈を自分に取り込んでいるのです。
つまり、「ち」とは知・血・地・値・智・致・治・・・・随分とありますが、
「空」という観念で無に帰すのです。
それがほぼ日本からの哲学的な解釈でしょうし、これを信用しているのです。
そして、力は作用点と方向と、その大きさがあるという物理性です。
従って、それこそ、商品力から開発力など形容される全ての力に、
これが運用されていることがわかります。
ここからさらに、力が能力とまでなってくれば、
まさに、人間・人類・人は個々人の能力を活用し拡大するのは「テコ」です。
これこそ、五大器械の根本にもなるのです。
テコには力が働く、支点と作用点だけが決定すれば、
それこそ、人類は地球でさえ、イラストのごとく、
人の能力で持ち上げることさえできます。
前段が長くなりましたが、テコのこの力を支点と作用点で能力、
それも「美しさ・美」を見極める能力のテコを考え出すこと、
これが真善美のその中の「美」判断力=能力を、
私はデザイン、デザインでのテコを追い求めてきたのです。
だからこそ、自分デザインには必ず、美しさをデザインに配置・配備する、
力の支点と作用点がある、
まさに美のテコを見いだすことでした。
美が創れる能力=美創出の力とは、
ち+空であり、その拡大のためのテコを
それこそデザイナー養成にはテコを自力、つまりテコあるセンスづくり、
これがデザインでの美づくり、美の判断力だったというわけです。

* 「『ち』は知の草書体になった理由に神髄がある」
* 「花綵の国のことばには「ち」、土地と価値がある」
* 『想像力を今また熟考を毎日繰り返している』
* 『芽生えることと確認すること、ライバルとジェラシー』
* 『人工知能には「ち」の思潮が欠落している』


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08月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 16th, 2017  Posted 12:00 AM

08月16日 赤口(乙亥)

重量感は市価と連動している。
重さがある価格帯に適合する。
軽い、軽すぎるアイテムと
重い、重すぎるアイテムは、
明確に、区別と分別が
センスに関わっている。

川崎和男の発想表現手法


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