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Posts Tagged ‘叱られる’


『書き初めは書、アナログもデジタルも』


   


     1月 21st, 2019  Posted 12:00 AM

今年の書き初めとなりました。
近年は、年初のご挨拶は配信しています。
書は、最近はiPadとApple Pencilで書き込んでいるので
「亥」を何度か練習して
そのまま動画を撮って編集したものを使いました。
書体だけでなく筆運び、筆さばきも,
「亥」の躍動感を送りたかったんです。
頂いた年賀状に対して、配信が届かなかった方には
E-MailやFacebookで返事を書いています。
そして全くのアナログ派の方には、
筆で「寒中見舞い申しあげます」です。
もちろんデジタルもアナログも、
書き物は、すべてマスターしようとしています。
私は「書く」、「描く」はアナログであれ、デジタルであれ、
取り組む経過と、見た目の完成形を
徹底的にまともにしたいと思っています。
そして結果、アナログの鍛錬が不足しがちとなっていて、
もし父が生きていたら、叱られるだろうと思う
仕上がりになってしまいました。
なんとか、朱印と白印で都合をつけていますが。
本当のところ、草書で描きたいと思っていますが、
もうほとんど読めないから伝わらないでしょう。
草書を見ているだけでも、「ことば」って、本当の素晴らしい。
だから日本人で良かったと思います。
デジタルで書を書いて編集しているときは、
訓練とか作業という意識が高くなるのですが、
アナログで向き合うときは、
気持ち、心の運びの意識が高まるものです。

『あけましておめでとうございます。古希・70歳


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『長友啓典追悼記念展にてデザイン進化を教えられたこと』


   


     7月 30th, 2017  Posted 12:10 AM

最期に私は先達に教えていただいたと、とても感謝しています。
デザインへの不信が、盗作やイベント事故などで、一般化が困難ゆえ、
グラフィックD界とインダストリアルD界、それぞれの問題を
たった一回会ったにも関わらず長友啓典氏の追悼記念展で教えられました。
それこそ。グラフィックDでのポスターというメディアは終焉する気配、
彼の作品は美術館収蔵ではないことです。
が、私は工学院大学(工手学校)であったことを絶賛します。
おそらく、ポスターの源流が情報伝達メディアとしての
ロシアン・アバンギャルドでのロシア鉄道その列車、
車体ボディだったことはほとんど知られていませんが原点です。
そうして、その遺作展で最も輝いていた彼と相棒・黒田征太?氏と、
さらには、作家・伊集院静氏との作品。
また、おそらく旅行や気がかりな物事への自筆イラストレーションの数々。
私が金沢21世紀現代美術館での個展の時も、作品の原画を求められて、
「あぁ、そういうのは破ってます」、
もの凄く叱られましたが、
幸いスタッフが一部残してくれていたので助かりまいした。
今さらながら、実は自分デザインのグラフィックD作品集はありませんが、
まとめてC.I.デザインなどマーク、新聞挿絵(東京新聞)やスケッチを
出版しようと思い直し確認しました。
ポスターは列車から、B倍全作品などは著名なデザイナーからもらいました。
おそらく情報化メディアは、websiteでの静止画から動画になりました。
デザインは確実に情報化技術の一つとなり、デザイン自体の進化そのものを
デザインする時代に突入しています。

* 『ポケットブックになる「造形思考」が出版』
* 『毎日デザイン賞・同時受賞の佐藤晃一氏が逝去した。』
* 『存分なデザイナー能力が性能・効能・機能を編集表現』
* 『乳牛は決して美味しいミルクを絞り出すわけではない』
* 「デザインはその発祥から政治的な政策思想だった」」


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『もう絶対に逢えない、今日は母の命日』


   


     6月 5th, 2016  Posted 12:00 AM

この日早朝、母は逝きました。
47年間のうち、21年間は私だけのための生涯だったと思います。
命日を迎える度に、自分が生きてきた目標をかみしめなおします。
しかし、3度は重篤状態になってきた経験からは、
いわゆるあの世で出逢うことは絶対に無いというのが最近の結論です。
どうして、自分があの母の下で育てられてきたのだろうかということは
哲学のまず基本的な命題だと思ってきました。
一浪をして、正直に医学部進学よりも美大に行きたいと言ったとき、
母は「医者になることは全く似合わないから辞めなさい」と言いました。
美大進学が決まれば当時流行になったVANのスーツを買ってくれましたが、
同時に、ブレスレットと指輪も母は私に買い与えてくれました。
厳格な父には絶対に叱られると思って拒否しましたが、
「美大に行くなら、これくらいは当然。そしてもっと男らしく」
ということでした。
「赤い血を見るより赤い絵の具の方が楽しいから」でした。
しかし、ちょうど父は警察の刑事部門の幹部となり、
毎朝、黒塗りの車で敬礼されて出勤をする立場になり、
母は癌を宣告されました。
ところが当時は、本人には言わずに父と懸命に癌治療を考えました。
父からも「和男、大学を辞められるか?」と聞かれました。
「全ての財産を使ってでも直したい」と父は言いました。
私は即座にOKをしました。
母の死後、遺言が出てきました。死の10日前に私宛のものでした。
「あなたは、もう福井に帰ってくることはないから、
世界で活躍できるデザイナーになりなさい」という遺言でした。
大学を出たら地元の短大で美術を教えると言ってきただけに
大きなショックを受け、やれるまでやろうと考えたのです。
美大を道楽学校としか私に言わなかった父に、
大学人になって、医学博士号を受けた報告をしました。
「貴方への借りはこれで返した」と。
父の葬式の夜に、
「結局、父はデザイナーになった私を許してくれなかった」と言いました。
父の友人は言いました。
「何を言っているんだ、酒を飲むと君の自慢しか言わなかった」。
それを聞いて、やっと父との別れに私は号泣しました。

*『母と死別して45年も過ぎてしまいました』
*『指編みを思い出しながら』
*『63歳まで生きました・母より年上です。』
*『大好きな色鉛筆・最近のお気に入り』
*『美大生1年のときに私の最初の社会的なデザイン』


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