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Posts Tagged ‘吉田松陰’


「会えずとも、誤解されようが・・・私は語り継ぎます。」


   


     7月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

私の年表づくりは「安政」に焦点を当てています。
理由は、すこぶる明快に思想を貫いた偉人への想いからです。
梅田雲浜は、故郷に疎まれ、
「お前の藩にはすごい人物がいる」と言われて、
その藩は気づきます。
彼は、病死?獄死?ですが、私は拷問死だったと思うのです。
橋本左内と吉田松陰は、顔さえ会わせずに、牢番に聞かされて、
お互いの尊敬を詩で交わし会います。
この詩を忘れてならないと思っています。
横井小楠の働きぶり、才能、身体を橋本左内は書状に書きました。
斬首直前の書状で確認ができます。
二人が越前打刃物の「定書」をあの若さで取り決めています。
横井小楠はキリスト教徒では無いにも関わらず、
京都で惨殺されてしまいます。
その時には、左内はすでに斬首されていたのですから、
彼の思いを追いかけてみるだけです。
「安政」は、ペリー黒船来航や大震災を迎えたがゆえに、
徳川体制によって定められた年号でした。
悪政の時に限って、わが国は大天災を迎えていることは確かです。
この人たちの思いが、一人のヒーローを小説化して、
それが一般化されている、あたかも歴史を私は疑うのです。
「安政」、この年間にこそ「明治維新」として、
私たち近代、現代の、
混乱が彼らの非業の死の中に封印されている気がしてなりません。
これまで、私は自分の講演で、折りあらば、彼らを語りました。
初めて、私は「適塾・橋本左内と先端デザイン」を話します。
泣き出してしまうかもわかりません。
なぜなら、彼らの生き方を支えた日本という小さな国家、
その開国にあたっての理想と思想だけの生きがいに、
心から私は、彼らを手本にしたいからです。
「デザインは宿痾の解決」だからこそ、
先端デザイン基本を「安政」の忌まわしき年間に確かめるのです。


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「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」


   


     12月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

自分のアイデンティティは、ふるさとに在るということが大事です。
そしてこの大事さの確認には、
ふるさとが輩出した偉人の存在を認識し、
素直な敬愛が大切だと私は思って生きてきました。
 杉田玄白・「解体新書」、日本初の解剖医学者
 松平春嶽・福井藩主、明治維新を支えた見識人
 梅田雲浜・安政の大獄で獄死というほどの反体制政治犯
 日下部太郎・二番目の国費留学生、留学大学で今なお伝説
 由利公正・五箇条のご誓文の執筆政治家
 岡倉天心・福井藩出身の武家の子息として生まれる
私はその時代時代、
特に明治維新から近代国家を創ってきた偉人への敬愛は、
自分を勇気づける大きな一つの手段だと思っています。
もちろん、
それは彼らが歴史上も偉人であるからというだけではありません。
自分を育んでくれた子供の頃、
その当時叱られたおじちゃん達やおばちゃん達も敬愛しています。
彼らはその象徴だと考えています。
子供の教育で大事なことの一つに、「偉人伝の読書」というのが、
世界的にも指摘されています。
山口県では吉田松陰と橋本左内が、
安政の大獄で牢獄で交わし合った詠歌が話題になったこともあります。
熊本で講演したとき、熊本県の関係者から、
横井小楠が越前藩にはお世話になって、と冗談交じりの会話をしました。
確かに、
横井小楠と橋本左内が越前打刃物産地への取り決め書きの本物を見た時は、
当時のあの若さで二人が越前藩産業に苦心していたことに感激しました。
現在私は、大阪大学の微生物研究所初代所長・藤野恒三郎名誉教授の
「杉田玄白から福沢諭吉・近代日本の医学史」の再版を企画しています。
これほどまとまった著作は、
日本の近代医学史として、
大切に教科書にすべきだとも考えているからです。
藤野恒三郎も私の敬愛する食中毒発見をしたドクターであり、
魯迅の先生と言われている藤野厳九郎の甥です。
私はふるさとの偉人への敬愛そのものが私の一つの思想だと思っています。
そして、もっとも敬愛する人は、と質問を受ければ、
「父と恩師達と橋本左内」と答えることにしています。
そういう意味では、
ふるさとがあるということは幸運な人生だと感じています。


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「安政の三大地震・伝承されたこと」


   


     12月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

私は日本を「神の国=花綵の国」だと信じたいのです。
わが国は政治が乱れたときに大きな天災に見舞われます。
安政年間には、安政江戸地震・東海地震・南海地震と
三大地震が起こり、それは各地でも天災被害となりました。
けれども、そうした天災を後世に伝えるべき工夫を重ねてきました。
「つたない文章ながら、後世に伝えてほしい」とされた碑文。
その碑文は墨で黒々と風化を食い止めてきました。
一時は、科学的なペイントも考慮されたらしいのですが、
毎年、その石碑を中心に慰霊して墨入れを継承してきたということです。
3.11は復旧・復興とともに後世への伝承を具体的に残すべきでしょう。
ただし、箱物での「記念センター」的な建設、
そして天下り人事ではありません。
「みちのく」との距離は、離れれば離れるほど記憶は風化します。
陸に乗り上げた船舶や、瓦礫のモニュメントなど、
痕跡記念はありますが、
被災した人たちにとっては、
「哀しみと悲しみ」を再現させるべきモノではありえません。
未だ、行方不明者を家族に抱えておられる方々への思いやりの有り様、
それはとても想像を絶します。
しかしながら、これまでも三陸海岸では、
「津波の時は山に逃げるべき」石碑がありました。
「大地震両川口津浪記」にも、「船で逃げるべからず」、
この記述が伝承されてきました。
慰霊の場、そこには
いつでも花を手向けるモニュメンタル・トポスは必要でしょう。
しかし、私たちは、大地震・大津波・原発事故は、
特に原発の後始末は数十年を越えるでしょうから、
決して忘れることはないでしょう。
が、それでも被災現地ではおおよそ35万人の被災は、
35万件の事件が在ったということです。
「東日本大震災」という名称でまとめられることではありません。
地震前に日本は、市町村合併により市町村名が変わりました。
よって、本来、伝統文化の地名を失っていたのです。
このことからも、まず「地名」を戻すこと、
私は地名という言霊を捨て去ったことに、
「みちのく花綵」を失ったとするなら、
モニュメンタル・トポスにはその地名復活も、
大きな復旧の手立てだと確信しています。
そして、この復興がどうであったかよりも、
「安政の大獄」で殺された頭脳は人災でした。
わが橋本左内も、吉田松陰も、梅田雲浜も殺されました。
1860年に咸臨丸は太平洋を渡ります。
日米修好通商条約がその後の日本を苦しめました。
まさに、TPPを抱え込んだ現代に酷似しています。
この国難のモニュメントは熟考しなければなりません。

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『資本主義からの逃走』
  「虚構の記述は小説だが、歴史的事実は死である」


   


     11月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

1800年代に遡及
私は、現代にモノをデザインしています。
現代という現実までの過程を知る大事さを直視します。
特に、私は日本の近代化、その原点はどこなのか、
最も注視してきたことです。
1800年代に遡及します。
そうして、その年毎の史実の事実と真実を見極めることにしてきました。
おそらく、なぜ、デザイナーがそんなことを、と思われるでしょう。
しかし、歴史の虚構は小説に氾濫し、歴史上の人物は、ヒーローとなり、
その歴史性を彩るこれも歴史上の人物はトリックスター化されているものです。
大河ドラマを事例にしました。
おそらく、大河ドラマの見せ場は、坂本龍馬の暗殺シーンでしょう。
しかし、この場面の虚構性があればあるほど、
人間は「虚構の中にえも知れぬ娯楽性」を受け入れるでしょう。
私はこの事実を否定するわけではありません。
小説・ドラマという虚構に、人が娯楽性を希求することは、
デザインによってデザインされたモノが与える感覚と似通っています。
私は、虚構の想像力をあらためて見詰め直したいと考えます。
虚構は理想・幻想・妄想をも娯楽性に変換することができます。
安政の大獄
そしてもし、歴史的事実の事例として、
「安政の大獄」時代に二人の人物を取り上げたとき、
歴史には、「もしも・・・・だったら・・」という仮説は成立しません。
吉田松陰と橋本左内は、同じ牢獄につながれ、罪人として、決して出逢うことはありませんでした。
お互いのやりとりの史実があるだけです。
虚構を断ち切る歴史的事実、
それは26歳にて橋本左内は斬首され、
20日後、30歳にて処刑された吉田松陰への「想像力」です。
史実の現実に、もしも・・・はありえず
「もしも、二人が出逢っていたなら・・・」、
この虚構はありえません。理想も幻想も妄想も消去する「死」だけが歴然としているのです。
虚構の歴史、歴史の虚構よりも、
私は、歴史的史実である、二人の人物の「死」という現実から、
さらに自分が何を見いだしていくべきかを考える次第です。


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