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『「Kazuo Kawasaki」と「OUZAK」はデザイナー財産』


   


     6月 10th, 2020  Posted 5:04 PM

私には「私の大きな財産」があります。
Kazuo Kawasaki ®とOUZAK ®のロゴタイプです。
C.I.はやはり徹底的に東芝時代に
「Aurex」で私のデザインでやらされたので、
私のデザインとそのロゴタイプ、そしてマークもやり終えたのです。
C.Iにはもちろん時代背景を投影することも大事かと思いますが、
私はそれを超越した変わらない存在を感覚ではなく論理で導いています。
カズオの逆文字、OUZAKとつけた私の会社OUZAK Designは25年目です。
前身として福井で「eX-Design」、
その前は東京で「Super Edison 」として活動していました。
そして、名古屋市立大学 教授就任時に、その立場を割愛し、
その他数社の副社長や取締役も降りました。
「Kazuo Kawasaki」はブランドとして、
変わらず大学人になっても原稿用紙やメモや封筒に使ってきました。
OUZAK Designは、名古屋で国際デザインセンターを構える時に
OUZAKにわかりやすくDesignをつけることを求められて
マークで今の形になりました。
本来はOUZAKは音響機器システムのデザインだけを
取り扱いたいと考えていました。
というか、そもそも学生時代から「光と音」を目指し、
東芝での部署希望も最高級の音響「Aurex」だけでした。
大学を退官したら、今度こそ「音響機器」まずは、
プリアンプとシンセザイラーをやりたいと思っていましたが、
東芝時代ともに開発した仲間から会わせたい人が居たけれど、
みんな死んじゃった、と言われました。人生に予定調和はあり得ません。
デザインしてきた音響機器、レコード針も長く存在価値を失わず、
商品として取り扱われていますが、「不易流行」、
そして先を見据えた「音響のデザインを目指したい」と思っています。


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『71歳になります』


   


     2月 26th, 2020  Posted 12:00 AM

本日、71歳になりました。
28歳で交通被災し車イスの生活を余儀なくされました。
重傷当時には40歳までが生涯だと言われました。
金沢美術工芸大学を卒業し、東芝からデザイナーになりました。
その後、東芝を辞めて赤坂で独立し、そしてふるさと福井に戻りました。
寿命の40歳を過ぎて、41歳の時に、「毎日デザイン賞」を
故・倉俣史朗先生から推薦を受けて、受賞しました。
そして、気がつけば名古屋と大阪で22年間も大学人でした。
事故や病気の重篤から4回はあの世から戻ってきました。
かなり無茶苦茶な人生を送りながら、デザインには清廉潔白を通し、
デザイン界では、かなり激しい生き方をしてきました。
自分と正反対の思想と行動であれば、
その人を敵というように見なしてきたようです。
私にとっては、敵でも無いのです、
デザイン哲学を最優先してしまいました。
私の父は、70歳で全ての仕事を辞めましたから、
自分もと思っていましたが、そもそも計画を綿密に立てないし、
アクシデントだらけで、私の人生は予定調和ではありません。
「やりたい仕事」として書き残したいことがあります。
ようやく、一冊目を書き始めました。
カーボンファイバーのイスは、今年ドバイで発表します。
次世代のケイ炭素素材も見つかっています。
製品開発をしてきたモノを商品化すること。
いろんなことの引き継ぎとかを終えて
79歳で亡くなった父より、
少し伸ばして80歳の生涯だったらと願います。


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『船舶産業はますます劣化していくのかも知れません』


   


     5月 16th, 2019  Posted 12:00 AM

この審査委員になって10年になります。
今回は多数の応募者がありました。
「省エネ」、「安全と信頼」、
ユニバーサルデザイン」は、
船舶では当たり前のこととして、
さらに、そのデザインコンセプトについて
私はそれぞれに、「安心と信用」を重ねて質問をしました。
が、深掘りしてみると、的を射る答えはもらえず、
ユニバーサルデザインはこの日本に誰が持ち込んだかも質問してみました。
それは私でしたから、
ユニバーサルデザインハンドブックを監修しています。
ユニバーサルデザインという概念はマイケルカリルが提唱し、
ロナルドメイスが7原則にまとめ提言したものが知られています。
これらをデザインの教育プログラムとして持ち込むために
米国から連絡があったのは私でした。
当時私がいた名古屋は、世界デザイン都市宣言をし、
世界デザイン博覧会を開催していました。1989年のことです。
そしてGマークでもユニバーサルデザインの部門を創設し、
その奨励を制度化したのです。
さて、最終審査では、私が最も年少者で
経験値豊かな専門家達の議論が尽くされましたが
省エネなど謳われている数値指標ふくめ問題をあげて、
各専門家の知見として回答や意見を交換しました。
このままでは船舶産業は世界的にさらに後退していくこと、
その危惧を拭いきれません。
かってトップだった船舶産業が、劣化していくことは否めません。
次世代デザイナーは、「水圧力・浮力・スクリューなど」
デザイン対象に取り入れるべきです。
とは言えデザイン教育の現場にそれを学ぶ土壌がなく、
船舶デザインは、圧倒的に遅れています。

ユニバールデザイン

ハンドブック


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『ドクヘリがいっぱいある街がいいのかも知れない』


   


     4月 17th, 2019  Posted 12:00 AM

ドクヘリ=ドクターヘリコプターは、
20世紀の終わりに試験運行を開始、
私もこの政策企画書を当時読んだ経験があります。
2001年に本格的な事業が開始されました。
そして、私自身が2006年には、阪大への赴任がドクヘリでした。
というのも、名古屋から心臓発作、
手術のために阪大附属病院へ救急搬送されたのです。
まだまだヘリコプターは、進化しなければなりません。
私が空中で最も興味深い対象物は、ヘリコプターであり、
ダビンチのスケッチでも、ヘリコプターの原図が残っています。
このドクヘリには、パイロット・医師・看護師、
そして救急用の医療機器が搭載され、救急自動通報システム「D-Call Net」
システムの導入後、事故対応から病院治療へと短縮化が図られています。
私が最も愛してやまないのは、
ユーロコプター仕様のドクヘリ(左上)です。
私の救急搬送時の映像も、友人の教授に収めてもらいました。
高度500メートルであれば、揺れもなく多くの人の救助ができます。
もうすでにドクヘリも100機以上になっているのでしょうか?
43道府県にまだまだ53機でした。
大きな病院では、ドクヘリの街が必要でしょう。


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『ユニバーサルデザインからヒューマン・センタードデザインへ』


   


     2月 10th, 2019  Posted 12:00 AM

「ユニバーサルデザイン」の知らせが
米国の友人たちから、私にきたのは1995年でした。
しかし、それより以前、1986年名古屋で開催された
世界デザイン博覧会でマイケル・カリルが
「ユニバーサルデザイン」を最初に語りました。
私は主体として、ユニバーサルデザインの教育を
最初に政府に提案をしました。
名古屋では市民講座や市の職員へのワークショップを行っていました。
その後、ユニバーサルデザインは
商業主義的な流れを受けてメチャクチャになっていったのです。
丁度その頃、2000年に建築誌『SD』が終巻号をむかえ
「ヒューマン・センタードデザイン」に大きく変わる時でした。
人間中心主義で、
それこそ、今ではインターラクションデザインという
ITでの「人間中心主義での関係性」が求められました。
一昨年私は学術×××××でキャリアと論戦を張り、一方的に負けました。
今では、デザインでは、至極当然の考えとして
もはや違う段階へと進んでいるユニバーサルデザインを
いまだ研究課題とする全国の家政学部に、
私は呆れかえり、その研究課題への研究費を反故にしました。
すでにそれら研究課題への応答、回答、解答はデザインの分野で
提示、具現化されていましたから。
まだまだ、ユニバーサルデザインを主軸として
語るデザイン界や、デザイン教育は多いのです。
次の次元に向かうヒューマン・センタードデザインでこそ、
デザインでの本質があります。

* 公自単情安省空


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『生録は、今はデジタル、しかしアナログで感得』


   


     1月 30th, 2019  Posted 12:00 AM

生録(ナマロク)が1975年頃、流行りました。
オープンリールデッキを持って行き、演奏者の奏でる音を、
自分のオープンデッキで録ってくるのです。
今の生録はリニアPCM録音で、すでに協会があるほどです。
それぞれの生録は、明確に異なっています。
当然、当時はアナログで、現在はデジタルです。
そしてオープンリールデッキは骨董品扱いです。
実際は、もはや倉庫の中にある骨董品の私のデッキと
ミキサーを駆使して作曲をしていました。
PCM録音も、名古屋で開催されたジョージ・ベンソンのコンサートで
車イスだから自由にナマロクをやってしまった経験があります。
「やってもらっては困ります」。
「何でだ?」、と言えば、まさか車イスが、となり、自由でした。
しかし、オープンリールデッキ8chでやれれば
きっともっと音が良かったと思います。
それこそレコード盤を造るメーカーは2社しか残っていません。
しかし、2社は残っていますから、このブログでもデジタル、アナログ
未来と過去をつないで、進化とその真髄が
失われないよう紡いでいかなければなりません。
そういう意味でも、骨董品となっても、
しっかりと書き留めなければと思っています。
ナマロクもアナログ時代の方がやっぱり良いのです。
「感得」とは絶対にアナログが基本だと思っています。


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staffblog 11月08日


   


     11月 8th, 2018  Posted 8:00 PM

11月08日

「スガツネ博 in名古屋」にて、
講演を行いました。
お陰様で満員のお客様にお越しいただきました。

スガツネ工業株式会社
専務取締役からご紹介をいただき、
講演がスタートです。

モノづくり関係者の方に対して、
川崎の事例を中心に内容を展開。

デザインに必要な考え方に至るまで、
一通りをお話しさせていただきました。

終了後は名古屋の企業の方、
名古屋市立大学の教え子や、
名市大当時の関係者の方とお話しし、
展示を拝見しつつ、帰阪しました。

講演にお越しくださいました皆様、
ありがとうございました。


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staffblog 10月02日


   


     10月 2nd, 2018  Posted 12:04 PM

来たる11月8日

「スガツネ博 in名古屋」にて、
講演をさせていただきます。

●日 時:11月8日(木) 15:30〜17:00
●会場:名古屋市中小企業振興会館
   吹上ホール 第1ファッション展示場(2階)

●定 員:120名程度
●参加費:聴講無料・事前登録制

ぜひお越しくださいませ。


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staffblog 9月18日


   


     9月 18th, 2018  Posted 11:55 PM

9月18日

本日は、ホテル名古屋ガーデンバレスにて、
2018年度合同講演会にて
講演させていただきました。

名古屋の企業の方のご縁で、
文具やプラスチックなど様々なメーカーの
方々の前でお話しする機会をいただきました。

年に一回行われる講演会とのことですが、
開場満杯のお客様にお越しいただきました。

モノづくりの基本に関するお話から、
今、話題のキーワードに至るまで、
実務としてのデザインについて、
展開させていただきした。


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『名古屋市立大、そしてオーザックデザインでの車たち』


   


     9月 16th, 2017  Posted 12:00 AM

多分、アレックス・ヘイリー「ルーツ」だったと思い出します。
これは翻訳が安岡章太郎だったので記憶にあります。
中でも、なぜ黒人の人種差別が未だに連続しているという理由がわかります。
が、私が思い起こすのは、多分?(詳細は蔵書で探せばわかるはず)です。
「日本の自動車」についての一節があります。
ちょうどその頃、貿易摩擦が大問題。
東芝製ラジカセがハンマーで壊される報道がありました。
日本車については、竹と紙でできたような自動車なんてという表現。
それは私自身、実感していましたから、
名古屋にはベンツS320で名古屋市大で新設の芸術工学部にて大学人開始。
と同時に、オーザックデザインを名古屋の国際デザインセンターに開設。
そこで、使う車ということになり、私はS320でしたが、
シボレー・アストロがスタッフ達に使い易く、
単独行動にはA-180にしていました。
福井ではボルボ運転手付きでしたが、アストロは頑丈で、
様々な所にスタッフたちと行きました。
しかし、やっぱりアメ車ゆえの車体構造には経年変化がありました。
それならということで私専用にはレカロのシート、電源の整備など、
私は徹底的に直してこれで、スタッフ達と行動にしました。
この徹底的な改造は、当時、ヤナセの横浜工場で改造したので、
ベンツVクラスの最高級車として、ヤナセのカタログには、
私用の車が掲載されていたのです。
私は自分で大学にはS320でしたが、やがて、大学への通勤は
ある教授からスポーツタイプの2シーターだよと言われ気がかりでした。
その当時には、なんとしても福祉車両なんていう車コンセプトが
決定的に間違っていると思い、Gマーク選定でもその可能性のある車を
カー選定では選ばれませんでしたが、トヨタのラウムに可能性あり、
この車をベースにいうことで、選定してその企業は、
以後、開発途中ラウムをそれも名古屋市立大学に持ちこんでくれて、
プロダクト専攻の学生達にも車開発の教材になったのです。
これでもかという改造に改造したベンツVクラスでも、
名古屋-東京間は、とても往復が厳しくて、
その話が私のところにキャデラック・リムジンになったのです。

* 『「福祉車両」とは決して言ってはいけない車』
* 『日本での特殊車両、その代表を見ると・・・』
* 『ツバメの巣、それが福祉の象徴です』
* 「*貿易国策の一つがGマーク賞制度、その審査委員資格*」
* 『わが人生最期の車は美しいデザインを』


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