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Posts Tagged ‘容認’


2月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 5th, 2022  Posted 12:00 AM

2月5日 大安(己丑)

『寛容としてのデザイン』

自分とは
他者との関係であるという
実存主義を起点とし、
さらに
自分よりも
他者を尊重し
容認できうる態度である。

artificial heart:川崎和男展


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6月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 13th, 2021  Posted 12:00 AM

6月13日 友引(壬辰)

『顕正としてのデザイン』

したがって、
デザインは、
対決を助長し、
対決を強化し、
対決を容認する、
差異と差別のイメージの
具現化を提示する
手法となるデザインの
イデオロギーを総括し
告発する
勇気を育成せよ。

artificial heart:川崎和男展


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3月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 21st, 2021  Posted 12:00 AM

3月21日 仏滅(戊辰)

『誌論としてのデザイン』

歴史とは、
人類の悲惨、
誤謬、
絶望、
偽善を
容認するために
過飾した記述であろうか。

artificial heart:川崎和男展


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『浮世絵を日常化すれば北斎知識から解放できる』


   


     10月 13th, 2017  Posted 12:30 PM

美しさを識ることと知ることには違いがあります。
知ることは先天性によってある種の宿命性があります。
後天的には識ることですから、これは認識という知識より認識です。
カントがこれを明解にしていますから運命化が可能です。。
パウル・クレーは知見であり先天的な見識がはたらいていると思っています。
手短で日本の浮世絵の理解度は、先天的には困難かもしれませんが、
浮世絵といえば、葛飾北斎がいの一番に語られます。
私はいわゆる見識があって認識にまで持ち込めるには、
和服が適切かもと先般から考えてきました。
それは東海道五十三次での物語性は歌川広重の方が明解です。
これは私が丁度30歳の時に、絵羽として歌川広重を選びました。
理由は思い出してみると、三つありました。
まず、歌川広重の版画は越前の国からの和紙であること、
絵羽としては多くが北斎を選ぶという大衆的な思い込みでは、
自分の個性が表示できないと思ったことでした。
さらに、この東海道五十三次には東海度膝栗毛での野次喜多道中との
ナラシオン性が入っていたことでした。
無論、葛飾北斎のなぜ彼は識っていたのかという黄金比・黄金律が
見事なことは知っていましたからこそ
和服と自分の関係を見直していたことです。
今では和服には茶道や華道のごとく、着づらい道理がかなりあります。
したがって、誰もが洋服の着やすさをルール化して、
着物の普及を目指していますが、私はこのブームは容認できません。
理由は、着やすさなどは伝統的に保守するには単純だと思うのです。
大学時代にはあえてネクタイをして大学に行き、
教授に怒鳴られたこともしばしばでしたが、
ネクタイは日本人が大学生でも遅いのです。
最近は市立学校のユニフォームでネクタイを見かけますが、
学校でしっかりと教えていないようです。
私が和服と書は絶対に小学時代にマスターすべきというのは、
この知識・見識・認識をモノ=和服・書という決して「道」とはしないこと。
これはカントの悟識に連鎖しているのです。
浮世絵のナラシオンは知ることから識ることまでの悟性を鍛えるでしょう。

* 『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
* 「加飾すること=ファッションスタイルは最初提示の効能」
* 『手稿は宝物である』
* 『「黄金比の計算機」アプリのグレードアップの意義』
* 「黄金コンパス・黄金比と白銀比を身体化するには」


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『アドバンスデザインでも求めた「ロクハン」』


   


     9月 3rd, 2017  Posted 12:00 AM

「ロクハン」、さてこの言葉を知っている人はおられるでしょうか?
これはマニア用語であり、三つの分野で使われています。
私に無関係なのはウェットスーツで、特にそのフードに関わっているそうです。
私にもうこの世界となると、鉄道のZゲージとオーディオの世界です。
Zゲージは、かってはアナログでしたが、今では大変貌、デジタルです。
そして、今夜説明するのはオーディオ。
「ロクハン聴かずしてオーディオ・スピーカーは語るなかれ」なのです。
スピーカーユニットで口径16cm=6.5インチのモノをロクハンと呼び、
これは製品開発で全くのアドバンスデザインで終わった東芝時代では、
自分デザインでは最高の仕様実装を叶えたモノでした。
自分の作品集には絶対的に残しておき東芝の容認ももらっているモノです。
まず、ロクハンというのがフルレンジ=全周波数:低音・中音・高音まで、
すなわち、もし、スピーカーシステムにするなら、
バッフル=一枚板(表面性を拡大するために屏風スタイル)にこれだけ。
もう一つは、トーンゾイレという、トーンゾイレに縦に3〜6個を取り付ける、
この二つがありますが、自分作では若い頃は、
卒業制作では「コーラル」を使ったほどでした。
バッフルスタイルでもコーラルが最高でした。残念ながらもうありません。
このアドバンスデザインは、スピーカーユニットなら「絶対こうだ」と、
ほとんど会社でも賛同されなくても、説得し回っていたものです。
まず、ボイスコイルの磁力線のためにコイル線や巻き方、
これはJBLは、今も抜群ですが、未来性を引き込むための行動でした。
しかも、エッジ(スピーカーコーンの周囲)や、筐体での鋳物づくりも、
私は独特の手法を考えて、製造企業をこのモデルで説得していました。
東芝マンがこのように飛び回っていたのを許してもらっていた上司は、
東芝退職後も自分起業で今は社長たちです。
私のような勝手なデザイナーを見守ってもらっていました。感謝しています。
この「ロクハン」は絶対に自分デザインでは最高でした。

* 『コンピュータ制御ベッドが示唆していたこと』
* 『「手洗い習慣」をグリップすれば清潔を手にいれる』
* 「デザイン理念は造形言語と形態言語の形素で未来を招来」
* 『メルクリンの世界も私の憧れのコレクションだ!』
* 『人生が回転して再開、懸命だったあの頃』


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『ファッションも完全完璧な信用・信頼・安全・安心だ』


   


     12月 3rd, 2016  Posted 12:00 AM

またまたスマホを買い換えました。
iPhoe7のそれもジェットブラックです。
理由は簡単です。こうしたガジェットはともかくいつも新製品。
よく、新製品は故障するかもしれないからとか言われますが、
そういうことには自分は一切気にしていません。
私は「どうせ人間自身が完璧ではないのだから、その製品が故障する」、
このことでは、リコールを容認する立場でしたが、
信頼・安全性工学である宇宙工学を
いとこから知ってから「完全な製品づくり」、そのデザイン、
これが工業製品の大目標でなければならないと考えています。
故障やリコールを絶対に皆無にするということ、
それは信頼し信用し安全であり安心が
工業的モノづくりの最終決定であること。
人間だからこそ、工業製品とのあり方の根本に今頃再決定したのです。
確かに宇宙工学や医療工学に対する信頼・信用・安全・安心、
この完全で完璧さが最適解答だと認識しています。
そこでとりあえず持っていたApple WatchとiPhone7を完璧な使い心地を、
ということになると、かねてから私の連載や本づくりの編集者N氏の
この解説本で詳細を確かめようということになりました。
腕時計としてはいわゆる機械式のそれなりの時計、
全く新たな盲人用時計(デザイン出来なかっただけに無念なり)、そして、
Apple Watch(HERMES)をファッション性としても選んでいます。
そして、iPhone7との新しい連携、
この信用・信頼・安全・安心を再確認してみようということです。

* 『物欲によるモノの美と美あるコトへの自分』
* 『腕時計には本来、機能性の無いモノだった』
* 『宇宙開発の信頼・安全性工学からデザインが学ぶこと』
* 『四句分別にある明解な「的」は曖昧性を強化する』
* 「デザインすることの勘違いは大間違い」


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『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』


   


     8月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

私が椅子のデザインを追いかけたのは、車いすのデザインと
そしてある家具メーカーを家具見本市に出展させるためでした。
椅子を倚子というのが本来として、倚子の歴史を調べました。
一つは禅家所乗物・發子・独搨にたどりつき、
日本の仏教伝来と実は深い関係があったことや、
西洋でも、多分、土製と思われるスツールをメトロポリタンで見ました。
車いすのデザインではシェーカー教徒の家具全般を知り、
そのためにふた夏、ボストンの郊外にあるシェーカー教徒の村を訪問。
そして、デザイン界では今なお名作であるハンス・ウェグナーのYチェアに
禅家所乗物の一つ=日本では説教台の原点を見ました。
ウェグナー自身が、この椅子に関して
自分が中国の乗物から大きな影響を受けていると記述していました。
(この記述を探していますが、まだ見つかっていません)
美大時代には、イタリアのアビターレがインテリア・家具を学ぶ
まさにテキストでしたが、それは自分で選んだ家具をまずスケッチし
その上で覚えることをしていました。
それは、デザインのための資料で刺激・インスパイヤーされる、
一つの訓練でもあり、絶対に盗作をしないことの基本姿勢でした。
中国では、いわゆる物真似家具がとても安く生産されて、
それをジェネリック家具とかジェネリックプロダクトということへは
私は職能的倫理観をもって、この考え方をジェネリック薬品と比較し、
徹底的に論破を主張してきました。
「オリジナルからインスパヤーされてもオリジナルを超えられない」と、
美大時代には教わってきました。
ところが、ジェネリック家具どころか、オリジナルデザイン作家が
逝去すると、そっくりな家具を平然と行うことや、
それがあたかもアノニマスになっているからと自分の作品にすることは
私は絶対に許すことが出来ません。
まして、デザイン系大学で教員自らがジェネリックプロダクトとは
決して容認どころか、これは訴追する必要がると考えています。

http://www.nanna-ditzel-design.dk/F6.html
これを自分のデザインとまで発表するのは「盗作」である。
彼女は逝去されている。


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3月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 21st, 2011  Posted 10:00 AM

3月21日 赤口(乙亥)

私が口癖とする、
デザイナーの提案は、
社会が容認するわがままに他ならない。

わがままの強烈さに、
社会が、企業が
どうイエスといってくれるかである。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


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『資本主義からの逃走』
「物質・形容されるモノの価値とモノの形容価値」


   


     5月 25th, 2010  Posted 12:01 AM

モノ価値
モノ=人工物質を私は意味しています。
が、このモノは製品もしくは商品です。
そしてこの製品価値・商品価値は、「形容」されること、
あるいは価値の形容というのは現代性の社会観、
その価値付けが最も重大になってきています。

かわいい
たとえるなら、「かわいい」という価値感があります。
私は「かわいい」というのは価値観にはまだ至っていない、
この認識が明確にあります。
つまり、「かわいいモノ」と「モノのかわいさ」が、
そのまま商取引・資本投下での投資効果になるわけです。
この投資効果こそ、経済活動の活性度になっています。
この活性度が、資本主義経済の現代性になっています。
特に、先進国家や自由資本主義経済体制が整備された市場では
顕著な価値感覚になっています。
まず、「かわいいモノ」というのは、
物欲に対して「好き」という感覚のある意味では、
直感的であり、幼稚さや、所有感覚の素直さに連動しています。
それに対して、
「モノのかわいさ」というのは、
そのモノと自分との対照性を顕示する物欲になっています。
そのモノを所有することで、
所有者自身にかわいさを反映・反射させることに連動しています。
あらためて、その「かわいい」という形容価値には、
モノ価値論を、「形容」という付加性があるということになります。
そこで、もう一つの「形容」をあげておきます。


それは「品のいいモノ」と「モノの品性の良さ」です。
これもほとんど、「かわいい」と「品」が、モノに対しての関わり方、
構造性につながっていることは明らかです。
この構造性こそ、デザインの本質につながっています。
そして、私がデザイナーとして目指すべきは、
「品」・「品格」ある品質を「形容」できるモノのデザイン。
デザイン設計による「品のあるモノ」・「モノの品格」です。
無論、「かわいい」という形容にも、
「品性」があることは充分に理解し容認する姿勢です。


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