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Posts Tagged ‘容量’


『充電器とUSBの進化は日本がやるべきだ』


   


     8月 22nd, 2017  Posted 12:00 AM

ようやく充電器がここまで進化してきたのだと私は思っています。
しかし、その容量も最大では25800mAh。
このアンペア容量とカバーリングデザインによって価格が違うようです。
私自身は、11200mAhと20800mAhを使い分けていますが、
携帯用には薄型=ほぼiPhone7plusの大きさが適していると判断しています。
まだ充電器が必要なモバイル系のスマホやPad、パソコンそのものが問題。
ただ充電器技術の進化は今後ますます進化すると考えますが、
大きな問題が残っているようです。
それはUSBのあり方であり、USB対応プラグ数が何種類かあることと、
このコードはかなり丈夫にはなってきていますが、
最大の問題は、このコネクター自体にデザインが無いことです。
もっとも充電器は電池にすぎませんが、それこそボルタ電池からの進化、
それは無いと言っても過言ではありません。
結局、電池自体の問題はそれこそ鉛電池はもはや時代性を失っています。
ではリチウム電池でOKなのかということになれば、
結局はイオン化傾向である金属とある金属間には4Vの差程度しか、
人類は見つけていないことです。
私は自然界、すなわち太陽は我々人類には「お天道様」が認めている容量、
それだけが人類に与えられた電力エネルギーだと考えています。
最近、次世代デザイナーには、
「照明器具デザイン」は全て無線化するべきとアドバイスしています。
少なからずUSB充電器とLEDで人類は「明るさ」を手に入れること可能です。
そうしたことからも、充電器=充電池のあり方とUSBプラグへのデザイン、
これのやり直しが当然だと考えています。
まず、充電池そのものを人体に埋め込むことが可能かどうか?
そしてUSBプラグの大きさはもっと小さくできるかどうか?
最後に、真っ暗闇でUSBと充電地が使えるかどうか?
こうしたことに応えるデザイン=問題解決と価値感の創出です。
充電器は必ず日本製になってほしいと思っています。
そのためにはリチウム電池からも離れるべきかも知れません。

* 「現在使用のバッテリーパック・・・携帯電力を再考」
* 『モバイルバッテリーはやり直しが必要だ』
* 『電力の自由化と電気の自由化があります』
* 『私の大疑問は電力というエネルギーへの不配慮』
* 『USBケーブルとそのプラグ:ソケットから進化を』


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『モバイルバッテリーはやり直しが必要だ』


   


     9月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

一体いくつ持てば気が済むの、って叱られています。
私はそれでもモバイルバッテリーを次々と使ってきました。
mAhだけに拘らずに、結局はmWh容量ですが、
多分今では22400mAhが最大だと思いますが全く納得できません。
それはこれまで試用してきたすべてのモバイルバッテリーには、
大落胆しているのです。
バッテリーとしての条件は、いくつかありますが、
まず、電流・電圧よりも容量、容量があっても、
大きさと重量、そして急速充電性、堅牢さや経年変化です。
さらに大問題は、今回のあの洪水でも明らかになってしまった、
ハイブリットやEV車両のように電気の塊としての安全性です。
そういう意味では、ソーラー関係は無視しています。
これからの水素系も私は期待できません。
それなら、プラズマ発電でのモバイルバッテリーです。
私は基本的に、人類は「太陽の恵み」以上は望んではいけない、
だからソーラー発電にも期待はしていません。
再生可能エネルギーという、このエネルギー用語自身の矛盾に、
私は全然納得していません。
ところが、生きている現実では膨大過ぎる電力が必要です。
まして私は今ではすっかり電動リチウム電池駆動の車いすが私の足です。
一度、電動車いすの電源が失われると全く行動が出来ずでした。
私はエネルギーとは、水・食料・電力と思っています。
現代文明は「エネルギー社会の保全」につきているのです。
しかも、電流と電圧を保全し安全である電力確保こそ、
安心な日常生活になるわけです。
方法はまったく新しいヘリウム3やプラズマの人工太陽しかありえません。
私の行動、といっても、歩けない私には、
スマホとMacが動かなければ、行動が全く不可能です。
願わくは、モバイルバッテリーそのモノの、
根本的な素材=金とのイオン化傾向差を、
核融合させても安心と安全の確保です。
そして、私たちが電力容量を知っているのは「太陽光の恩恵」だけです。
これ以上を望んでしまった私たちが、
絶対に真摯に取り組む最も身近なモノ、
それはモバイルバッテリーだと考えています。
容量が大きくても、モバイル性があること、
それ以上に安全で安心な電力というエネルギー、その開発デザインは、
デザイナーにとって、最大のテーマになっていると私は認識しています。
それはソーラーパネルからのバッテリーでは絶対に違うと思っています。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・1」


   


     5月 3rd, 2010  Posted 2:27 AM


「容」を「かたち」と、
ふりがなをつけて表現した作家に浸りきっていた時期がありました。
容姿や容貌という字形文字につながる漢字です。
欲の対語とも言われ、「空」のごとく空っぽにも関わらず、
容量という、中にものを入れるゆとりや、
「刀を容(い)れざるなり」など、
着物姿の女性を「美しく」表現するために、
その作家は当て文字にしていました。
デザインするモノの姿は、
容姿、容貌が「美しく」あってほしいという
私なりの願望を私もこの漢字に託したのです。

命題から述語へ
さて、「デザインとは何か」とか、
「自分とは何者か」というのは、命題への問いかけです。
しかし、今や、情報としてモノは、その姿=容を外観化しています。
それは、外観から命題へという傾向があります。
私は、「述語論理」に価値観が集中し始めている時代、
ということを述べてきました。
おそらく、「資本主義とは何か」とか「民主主義とは何か」、
これらも、世界中が、
命題論理に時代も社会もひたすら懸命だったのかも知れません。

私は「容」という漢字で、
モノの容(かたち)=Mediaがデザインである、
とひとまず言い放ってしまう述語的思考から、
integretionへと向かうものと考えます。
これまで記載してきたことに連続させれば、
「内容」がかたち=形態から形式になるから、
それをデザインと呼びます、ということです。

アンチテンション
私の代表的な製品アイテムに「メガネフレーム」があります。
20世紀最後に、
「アンチテンション」という「容」を商品化しました。
「メガネとは何か」という命題を離れたのです。

「アンチテンションがメガネである」という
述語的なデザインをしました。
アンチテンションというのは、
レンズにフレームの歪みを与えないこと、
だから、瞳孔距離を変えてきてしまった「形式」を
変貌させた容貌にしました。
そして、今ではレンズにテンプルを拡げても歪みを与えない
「形式」=「形態」がフレームメーカーでは、
重要なアイテムになっています。
メガネフレームはMediaであり、Toolでもあります。
そして、何がメガネフレーム「容・かたち」となっているかは、
レンズに常に与えていたテンション=ストレスを
解放するという述語的概念に
デザインを与えてきたことだと確信しています。


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