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Posts Tagged ‘工業社会’


11月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 15th, 2022  Posted 12:00 AM

11月15日 先勝(壬申)

工業社会でのデザインも
情報社会でのデザインも、
デザインのために造形要素となる
修辞法は、「Sedia Seduta」のように、
誠実に、
素材・色彩・プロポーションを熟慮すれば、
デザインの本質は確実なモノの美しさを
引き出してくれると確信する。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』13 造形言語の修辞学的手法


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2月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 7th, 2020  Posted 12:00 AM

2月7日 友引(庚辰)

工業社会でのデザインも
情報社会でのデザインも、
デザインのために造形要素となる
修辞法は、「Sedia Seduta」のように、
誠実に、
素材・色彩・プロポーションを熟慮すれば、
デザインの本質は確実なモノの美しさを
引き出してくれると確信する。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』13 造形言語の修辞学的手法


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「記号論は脱構築に向かっていった『かたち論』」


   


     1月 8th, 2013  Posted 12:00 AM

元旦に書き上げた論文受領のメール。
やっとホッとしました。
そして、絶対に明日までにもう一本の論文作成中です。
自動車技術系論文誌からの依頼論文です。
テーマは「形と性能」です。
私の骨子は、このテーマを受けた時、
直感的に「かたち論」が思いつきました。
記号論はソシュールが90年前に提唱しましたが、
講義録しか残っていません。
最近、この講義録の正当性が最近認定されました。
ソシュールは、ラング(辞書内言語)とパロール(会話言語)によって、
言語の記号性を論理化し、やがて「記号論」になっていきました。
私は、工業社会が終焉し、
情報時代には商品は記号となっているという論説を確信しています。
したがって、自動車もガソリン車から電気自動車になっていく進化には、
確実な論理背景が必要だと考えてきました。
まさにそこには、
ジャック・デリダのエクリチュール(記述言語)が
記号論に入り込むことで、
レトリックな構造が生まれ、
常にその記号化された表現と内容は書き換えられることが歴史になります。
書き換えられるということ、
それは、破壊され、内容の変革が起こるということです。
ダリダは、これを「脱構築」と呼びました。
自動車はガソリン車から電気自動車にその性能が変革しつつあります。
それは、走行性能だけでは無くて、
自動車が情報機器、情報メディアと情報ツールになるということです。
エネルギーの供給も、ガソリンスタンドでは無くて、
急速充電基地になるでしょう。
スマート・グリッドやスマート・シティというインフラが整えば、
GPS制御による自動運転はもとより、
車輪で走行する機能は、もっと進化するはずです。
走るというより、飛び交い、浮かぶ物体になるでしょう。
明らかに、工業社会で進歩してきた自動車は、
情報社会で、「脱構築」が具現化するという予測が可能です。
その時、走行性が主性能であったがゆえ、
その速度感あるカースタイリングも脱構築されるでしょう。
それは、造形言語で「形」設計と、
形態言語で「性能」設計という手法を
デザイン自らが脱構築していくと予知しているのです。


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11月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 17th, 2012  Posted 9:30 AM

11月17日 辛巳(先勝)

工業社会でのデザインも
情報社会でのデザインも、
デザインのために造形要素となる
修辞法は、「Sedia Seduta」のように、
誠実に、
素材・色彩・プロポーションを熟慮すれば、
デザインの本質は確実なモノの美しさを
引き出してくれると確信する。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』13 造形言語の修辞学的手法


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『資本主義からの逃走』
「情報・日本語であるための曖昧性」


   


     5月 29th, 2010  Posted 11:39 AM

情報
「情報」という言葉は、森鴎外の訳語であったという説があります。
そして、そういう説があるらしい、ということを15余年程前に、
ある誌面で書いたところ、強烈な否定論を大学のFAXでいただいたことがありました。
あまりの強烈さゆえ、今も鮮明にその時の驚きと、
その指摘人物=著名学者を覚えています。
それから、日本語での「情報」という言葉については、
とりわけ慎重になる癖がついたと自覚しています。

ドイツ・英国・米国の「情報」
ところが、あるとき偶然にも、
海外のインダストリアルデザイナー友人達と会合を持ったときに貴重な体験をしました。
英国人・ドイツ人・アメリカ人、そして私=日本人での会合でした。
パソコンという言葉が登場した頃であり、
今後、このパソコンで「何」が変わっていくか、というテーマになりました。
決して、これは議論でもなく和気藹々とした会話だったのです。
まず、会話では、コンピューターのパーソナル化、
すなわち、「日常生活でパソコンの存在」が、「ポストインダストリー=脱・工業化社会」、
この言葉での書籍も一段とビジネス書は増えてきた頃でした。
結局は、「工業社会から情報時代」に入る。
そうなれば、インダストリアルデザインの職能範囲、拡大するのか縮小するのか、
あるいはもう終焉し、デザイン職能が変態するかもというとめどない会話になりました。
そこで、行き着いた各国語での「情報」という言葉がどこに集約し収束しました。
だから、焦点がどこに至るのだろうかということでした。
まず、ドイツが、脱・工業化を国際的には最初の発言者だったという確認でした。
それは、「意識社会」の出現、という予測でした。

意識=Consciousness

パソコンが大きな刺激を与える存在になるというのが、ドイツ人の主張でした。
ところが、英国人は「知識社会」の深度がますます重要になっていくという主張をしました。

知識=Knowledge
を膨大にストックし、
その知識配分の格差が増大してくるという話題でした。
米国人は、ちょうどArpanetがInternetになっていくことから考えても、
これはIntelligenceの国家・民族・宗教・思想・主義などの諜報性に、
対立や調和や共有が様々に起こりそうだということの主張でした。
情報は、情感的な伝達性という意味が日本語の根底にはあるようだということを話をしました。
彼らと明らかに違っていたのは、
情感という感覚的な曖昧性が日本語にはあることをその時、私は改めて知ったのです。
この曖昧さは現在も温存されたまま、
「情報=インフォーメーション」という単一な茫漠とした意味合いのままなのです。


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