kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘忘却’


2月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 21st, 2022  Posted 12:00 AM

2月21日 先負(乙巳)

『変革としてのデザイン』

デザイナーは、
これまでの
点・線・面を
忘却すべきだ。

artificial heart:川崎和男展


目次を見る

『イノベーションは現代では決して生まれない』


   


     12月 8th, 2021  Posted 2:25 AM

現在、デザイン界は大きな誤解をくりまえしています。
それは、「C.I.からブランド」に行政が返還した時だったのです。
「デザイン思考」が「イノベーション」に直結している事です。
決して「Design Thinking」が「Inovation」には、
是対に関わっていないのです。
「技術革新」をイノヴェーションと言った過ちから志向しのです。
私はその前に学術歴史とデザイン効果を置き忘れた
「革新と改革」だった学術倫理と政経学、経営学、商品学でした。
私は一早く、「コンシリエンスデザイン+レジデンスデザイン」。
これに突き当たるのです。
従って私は「コンシリエンスデザイン」をデザインの教育者として、
取り組んできたのです。
中心は、「共感」からのマーッケティングあり、
デザインの中心である「美しさ・優れたこと・明日を拓く」
これを忘却しているのです。
シュンペーターのモノづくりの「やがて資本主義は壊れる」でしょう。
私は民主主義も資本主義も、これらは人間の幻像を歌っているのです。
成果としてのデザインは、今だから言えるのですが、
「幻想ではありえず、限定されたデザイナーに過ぎません」です。
「美しい」を判断出来る個々人の「感性」なのです。


目次を見る

9月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 13th, 2021  Posted 12:00 AM

9月13日 友引(甲子)

『書物としてのデザイン』

作家
あるいは
作家的な存在が
そのメディアを
まさしく
「メディアが
 メッセージである」
ということを
忘却、喪失、放棄
することがたやすい
時代だ。

artificial heart:川崎和男展


目次を見る

『レジリエンスデザインを熊本に差し出す』


   


     4月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を次世代デザイン手法として
取り組んできました。
Consilience=Con+silienceから、
ParasilienceとMetasilienceに論理展開を拡張しました。
それにはもっと重大な課題回答としてのResilience Designの実現があります。
地震大国であることは3.11で国民すべての経験になりましたが、
5年経過して、忘却の風潮にあったところで、
九州・熊本ではとんでもない大地震が、それも連続しています。
熊本の後輩はじめ友人たちは無事でしたが、
九州と言っても熊本の事態はとんでもなく、 
3.11の経験や教訓だけではとても対処できる天災ではありません。
レジリエンスデザインを教えている大学はほんの僅かです。
ある大学でその研究費が認められましたが、
「レジリエンスデザインって何ですか?」と聞かれたぐらいです。
人間の精神的強靱力をさらに向上させる、ということを
一言で言いきれば「ストレス=心的障がいを乗り越える」という
この問題解決をすることです。
レジリエンスデザインチーム」で、熊本・九州を支援する程度ですが、
3.11とは全く異なる事態が発生しています。
このチームを創ったら、いくつかのデザイン系大学から
参加の申し込みが来ています。
これは都市計画・建築・環境、そして自然と人工の問題があります。
それだけに、安全と安心、防犯と防衛が関わってきています。
とりあえず、websiteやFacebookなどのSNSでこの展開を開始しました。

*レジリエンスデザインチーム
*『コンシリエンスデザイン仮説をレジリエンスデザインから』
*『減災・防災・救災のために』
*『世界中が・March.11.2011ならば・・・』
*『安全と安心・防災と防犯は学際化デザインになる』


目次を見る

「グローバリズムは冒涜的な思潮だと思う」


   


     1月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

ひょっとすれば、現代人、
つまり、20世紀後半を共時共有してきた全ての人間は、
重大な過ち、いや過ちと言うべきではなく、
生命の根源と、それを授けてきた「神」なる存在、
それは民族それぞれの信仰神への畏敬を勘違いしてきたのかも知れません。
私はここで宗教論的見解を記そうとは考えていません。
もっと簡潔に歴史における様々な「神」なる存在を、
オイコノミアを再読することで再思考したいと思っています。
それは「王座」、すなわち権威と権力は元来は「神」にあって、
その代行者である政治的なリーダーや、
さらにマクロな世界=業界や国際構造での指導者では無いということです。
わが国において、八百万の神は自然であり自然神を象徴化してきました。
あくまでも象徴です。
それはミッシェル・フーコーも読み解こうとした「印徴」=signatureです。
それはまさに、designareというdesign の原語と結びついています。
すなわち、今、designがその本質において、
復興と復活をさせなければならない問題が明確になってきます。
私は「オイコノミア」という
原始キリスト教の教典というより問題仮定書に心惹かれます。
それは、「権威」も「権力」も「神」への賞賛と喝采であり、
賞賛は、キリスト教ゆえの三位一体への畏敬となり、
「生きていること」への感謝が「神」への喝采になります。
やや短絡的な言い方をしてしまえば、
資本主義への清教徒的禁欲主義は忘却されたか、
あるいは廃棄されてしまったのかもしれません。
資本主義的な世界観・国際観である「グローバリズム」こそ、
「神」への冒涜行為だったかもしれないと、
私は考えるようになっています。
すなわち、世界の「王座」は唯一、経済活動の優位者、
その国家中心主義にしたことが冒涜だったのかもしれません。
しかも、それはもっと私たちを
大きな幻覚に引きずり込んでいたのでしょう。

目次を見る

「月食、それは風化させてはならない啓示です」


   


     12月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

昨日2011年12月10日夜、皆既月食でした。
20代後半に車椅子となった私は、
仏教書と易経にのめり込んでいました。
そして当時、「流行通信」というファッション誌で、
始めて連載を書き始めたのです。
音楽と音響機器というテーマでしたが、
二回目には「修景論」をまとめました。
風景の要因には、日食・月食・彗星・雷雨暴風、
この四つが易経では大きな天地異変の変動、
その結論が述べられています。
易経を単純に「占い」とみなしている風潮は、
明らかに熟慮不足だと認識すべきでしょう。
そして風景は風と景気を根本で支えている東洋の智恵です。
日本風とか、和風、修景としての光景と風景と情景を
明確に定義づけています。
だから、景観は景気を動かします。
景気の善し悪しは、例えば不景気、
それは「気」=きもちを落とし込み=鬱病と重なるわけです。
月食は天変異変を歴史にもたらしてきました。
3.11は今なお、私たちを解放すること無く、
哀しみと悲しみを残しています。
12月9日、死者15841人であり、行方不明者は、
未だに3493人という哀しみをぬぐい去ることは不可能です。
月食が天変異変を知らせているとするなら、
私たちには「祈り」しかありません。
そして、絶望してはならないのです。
その基本として私たちは3.11のあの光景を語り継ぐのです。
つまり、人間には忘却するという精神的解放がありますが、
それを「風化」と呼んではならないのです。
私たちに吹いてくる「風」は、微風から暴風まであります。
あらためて修景、そして「風景」によって、
やがて生と死の光景に入っていく生命、
その意義を見つめなおすべきでしょう。
「風が吹いている場」は空なる間、空間ということになります。
空間に「風流」を求めるとき、私たちは解放されるのでしょう。

目次を見る

「幸不幸の連鎖の中で」


   


     10月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

日常性が忘却させてくれること、
それは、生きていることが死にむかっていること。
そして自分には起こらないであろう不幸さと歴史観です。
3.11は私たち日本人に、3万人の同胞の死と、
被災した人たちそれぞれの多様なる不幸な事件性でした。
ひょっとすると、いや実は、
人類は不幸さを引き込み始めているのかもしれません。
2012年には、世界的に「政治的な指導者」が不明です。
もっともわが国には政治的指導者を失ったままですが。
昨年9月に私は東芝の原子力研究所を見学しました。
「貿易立国日本は、20年は安泰」という確信しました。
つまり、私の生涯は安泰な日本国民という認識でした。
しかし3.11はこの思いを粉々にしてくれました。
幸運であることと幸福であることは、
中国の古典どおりに「幸不幸」の狭間にあることを、
あらためて再確認させられたのです。
28歳で車椅子生活になった私が、
東京を離れる決心をしたのはジョンレノン暗殺でした。
「青春が終わった」という自覚を自分決着させたからです。
3.11以後、東芝にて「復興計画デザイン」に参画しています。
1000年に一度など自分の生涯に重ねたくもありませんでした。
この哀しみの想いにずーっと引きずられてきました。
「復興計画・25のプロジェクト」を書き上げました。
声高な脱原発論でこうしたプランが進行するわけがありません。
東京中心主義を離脱した「日本再生プラン」こそ、
「復興計画から未来デザイン計画」であるべきと考えています。
「幸」とは元来、両手を縛られた不自由さを意味しています。
しかも、私は「電池切れ」、「節電」どころではなく、
ようやくあと5年の「生」が最低保障されたところです。
1000年に一度の「幸不幸」の狭間をしっかりと体験すること。
これこそ「幸運」なことと考えるようになりました。
父母・恩師の死から、ジョンレノン、そしてジョブズの死、
私の生涯での「幸不幸」を、
大津波の廃墟写真を見つめながら勇気を抱いて、
慎重大胆に自分の生涯に引き込んでやろうと考えています。

目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「ATOMがBITSを、BITSでATOMに、
        それは新素材開発での造形デザイン」


   


     2月 2nd, 2010  Posted 1:00 AM

FEP Front End Processor
ワープロは、日本独自の発明でした。
英・Word Processorとは異なるBits文字世界です。
さらに、日本語フロントエンドプロセッサーも、
日本語処理を可能とした大変な成果だと思っています。
だからFEPが無料である必要はありません。
しかし、そんな時代が近づいていると考えます。
日本語は、パソコンやケータイでは、
不利な言語体系であることがDigital技術で、
明白になりました。 
それは、BITSをコスト的に考えれば英字に比べれば、
コストは2倍です。
ハングルとも2倍差があります。
そこで、パソコンやケータイでは無くて、
電子ブック(これは変な日本語です)での日本語、
その進化を私は、これまで正確に追いかけてきました。
すでに確立しているFEP(IN PUT)が電子ブックでは、
「EFP」(OUT PUT)=日本語アウトプットが不可欠です。
「書籍(ATOM)」という形式の要素としての日本が、
電子ブック(BITS)形式にはもう目前です。
私はe-Bookが各種進化するたびに収集してきました。
しかし、これらはすべて英文字でした。
「青空文庫」が立ち上がって、なんとかMacで、
という発端時の様子も間近でみてきました。
今、私はKindleを、Kindleで購入したコンテンツを
iPhoneでも読むことができる時代になりました。
Kindle・iPhone
i-Pad
そして、とうとう大変な話題であった、
憶測や推測のiPadが商品化されました。
が、日本語処理=「EFP」は、
KindleもiPhoneもBITS技術は開発されていないので、
日本語電子ブックになる明確な日程は届いていません。
それはBITSの問題ですが、私は別の視点で、
大きな見落としを、デザイナーとして確信しています。
それは、電子ブックの「形式」ではなくて「形態」です。
「形態」=ATOMを決定づける素材が、
まったく開発されていません。
すなわちATOMとBITSの相互作用を忘却していす。
もうひとつ付け加えるなら、デジタル機器の機能です。
その機能の重大さは「清潔さ」です。
「書籍」を一ページづつ舐めた指先でという風景より、
「不潔さ」を解消しているATOM性が皆無です。
それはBITSを包んでいる形態の「素材」の進歩です。
私は、その「新素材開発」をベースに、
ATOMとBITSの相互作用性をデザインしました。
まもなく発表します。


目次を見る

11月30日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     11月 30th, 2009  Posted 7:33 PM

11月30日 大安(己卯)

情報の生産とは発信または複製であり、
消費とは受信し
誤解(善意で解釈すれば理解)を
共有するということになる。
これをコミュニケーションと呼ぶわけだ。
情報の廃棄とは忘却か消去にほかならない。

『プラトンのオルゴール』
街角のエコロジー


目次を見る