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Posts Tagged ‘悲母観音像’


『日本の国家プロジェクトはとても優れていたのに!』


   


     11月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

現代の日本は、現代の日本を履き間違え、穏便さこそ、
知性ある国家、国家姿勢だという貧弱さがありすぎます。
ユネスコにはへつらいISOこそ遵守すべきであり過激さを控えること
これは大間違いで、密漁?、とんでもない強奪を見逃しています。
すべてが不満はいだきつつも、ひたすら遠慮をしていればいいとは、
私はこの国家プロジェクトを思い出すべきだと思っています。
狩野芳崖の「悲母観音像」、このたった一枚の絵画に、
日本の国際的な立場を表した国家意図があったのです。
仕掛けたのは岡倉天心です。
西洋列強の欧米に対して、
日本そのアイデンティティをこの絵画一枚、
これで語り尽くした気概を思い起こすべきだと私は主張します。
領海内の強奪者には、聡明な武力を行使すべきです。
聡明な武力とは戦争ではありません。
この武力で、拉致被害者を取り戻すべきです。
フクシマの真実を明確に、
間違いだらけの再生可能エネルギーなんてありえぬことを、
単なる玩具にすぎないモノをロボットと勘違いなどさせないことを、
私は留まることができないほど、この喧嘩を売る覚悟です。
武力は、敗戦国家を狂わせてしまったと言っていいでしょう。
武力とは、戦争手段としての武器を使う事だけではありません。
この絵画は武力です。
武力の真の意味とは、文化という攻撃不可能の事態で対峙することです。
私は自分の講演では肝心な時にはこの絵画スライドを最終に使います。
悲母観音像を西洋は見て,
あの小さな島国にもマリア様は存在していたのか、
いやもっと偉大な母と子の観音像シンボルを持ち得る民族という証明です。
明治維新直後に、このたった一枚の絵画が武力だったのです。
この武力を国家プロジェクトで、島国を守りきった気概を
私たちは忘れていることを思い出す必要があるのです。
これは岡倉天心の策略=デザインでした。
策略としての難問解決は語り切ったのです。
「美しいモノに囲まれれば,美しく死んでいくことが出来る」と。
これこそ、人類普遍の命題であり、最大の武力です。
なにもオリンピックが、おもてなしが、最高ではありません。
無論、現代的には必要なことですが、
かつて、この絵画一枚が武力=国家プロジェクトだったことを、
私たちは忘れてはいけないのです。

「貿易立国最初の輸出品・九谷焼き」


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「貿易立国最初の輸出品・九谷焼き」


   


     3月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

明治維新後、日本のアイデンティティ明示は、
岡倉天心の国家プロジェクトで、狩野芳崖の「悲母観音像」でした。
西欧諸国が驚愕したこの絵画一点を証明したのは、
1873年ウィーン万国博での「九谷焼き」商品でした。
日本が貿易立国となっていく最初の商品が九谷焼きになりました。
私はこの最初の貿易品が九谷焼きだったのなら、
長い間どのような陶磁器であったのかと思い続けてきました。
改めて逆輸入された当時の輸出品そのものを九谷産地で見つけ出しました。
今では私の大切なコレクションになっています。
これは現在の九谷焼きをはるかにしのいでいるとともに、
日本の現代の陶磁器技術を超えていると評価できます。
まず陶磁器とは思えない、
まるで「ガラスのようなセラミックス」であり軽いことは究極です。
さらに、装飾=これをデザインとは私は呼びませんが、
デコレーション=装飾・加飾技法もずばぬけています。
だから、加賀の伝統は今も健在だとは言い切れないと思っています。
最近、全国の陶磁器から漆器に至るまで、
デコレーション=加飾の描写技法デッサン能力の低下を私は憂いています。
ずばり、
伝統工芸産地での自然写生デッサン力は下手くそになり果てています。
そのようなデッサン力で「人間国宝」の作家が数多くいます。
これは日本だけでなく海外の有名ブランドでも起こっている傾向です。
それこそ、何の花か、鳥らしいが何の鳥、葉っぱなどの描き分けは
完全に間違っているモノが多いのです。
自然観察力とデッサン能力は世界的にも力量低下しています。
世界の自然景観で失っている動植物が多いのかもしれません。
私は、最近は陶磁器を徹底的に収集をしています。
デザイン資料は「使わないと」本当の機能・性能が不明ですから、
いざ購入ともなれば、
自分がコレクションするのだから吟味に吟味します。
陶磁器はCHAINAと呼ばれてきましたが、
漆製品=JAPANでは無くて現在はLUCQER WAREと呼ばれます。
したがって、陶磁器産業はセラミックス産業として、
まず、陶石や陶土を伝統工芸陶磁器現地産から解放されるべきです。
さらに、写実的なデコレーション、
これを私は絶対にデザインとは呼びませんが、
デッサン描写力を強化すべきです。
となれば製陶技術を
さらに高度な技術開発をベースにしたデザイン導入が必要です。
結局、陶磁器はあまりにも伝統工芸への大きな誤解、
産地存続の継承にだけ踏みとどまり、
全く「革新」をしてこなかったと判断しています。
なぜ、明治維新後、日本の国際化・貿易立国としての輸出品が
九谷のセラミックスだったのかその詳細を見直せば一目瞭然です。
この技術はもはや九谷に残ってはいないのではないでしょうか。

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