kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘戀’


「糸は日本語漢字の重大意図を持つ」


   


     12月 14th, 2011  Posted 12:00 AM

「戀」という漢字を「恋」に変えてから、
日本の文化は薄くなっていったのかも知れません。
私は漢字が略字化されたことをちょっぴり淋しく思います。
「醫」=医とか、「藝」=芸などもその類いです。
「戀」というのは、言葉が糸にからまってしまうほど、
言葉にはならない愛しさの表れを見事に表現しています。
今年象徴の漢字は「絆」になりました。
3.11という未曾有の体験を課せられた私たち、
日本人が最も希求した日本人の心のつながりは、
絆でした。もう一つ、絆は紲という文字もありますが、
絆には、元々は馬の足にからめて縛るひもから由来した
人を束縛するほどの義理とか人情をレトリックとした意味があり、
この国難にあってこそ人は、家族の絆から国民みんなの力、
その総合力で「絆」を思いだし、力合わせを誓いました。
「災」と「震」も候補であったようですが、
この二つには恐怖感があります。用心をさらに固める意味でしょう。
しかし「絆」が選ばれたことに、
私はこれからの民族魂感を認めます。
一言でいうならこの国難は日本民族が一体となって立ち向かうこと。
その確認をこの年の最後に納得できたものと考えます。
それは、以前にもこのブログで重大視してきた「綵」です。
つまり、日本は「花綵の国・はなづな」の風土であることだと思うのです。
東日本は徹底的に破壊し尽くされました。
多くの人命と街が破壊されてしまいました。
私は「3.11以後のデザイン」を語っています。
そして、「復興計画デザイン」に関与しています。
これは来年早々に、この半年以上も議論し、
発想を具体化計画を来年早々発表します。
「絆」の言葉を東北弁で置き換えます。
さらに重要なことは、復旧・復興を乗り越えて、
未来都市こそ、日本の発想と技術と日本人の根性で創出するのです。
それこそブータンの若き国王がいみじくも語っていただいた言葉です。
「これだけの災難から立ち上がられる唯一の民族、
だから、日本という国にこの試練が与えられた」ということです。
私たちはこの「絆」を持って、
さらに美しい「花綵の国」を進歩再生しなければなりません。
「糸」は蚕が絹糸を紡ぎだして生まれてきます。
この美しさこそ私たちが身に纏い、
そして日本の風土は咲き乱れる草木総花、
まさしく「花綵の国」づくりにほかなりません。
来年は、「絆」をしばしば確認しながら、
未来の私たちの国家風土は「花綵の国」ゆえに、
花がいっぱいに咲き乱れてくれるようになるのです。
来週早々のプレゼンテーションの総仕上げに入っています。

目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「革新は、改革なのか変革なのか?」


   


     8月 3rd, 2010  Posted 12:00 AM

革新には二つの方向
「革」、特にクロコダイルとブリザードが大好きです。
しかし、クロコダイルの皮革商品はこれからは貴重品になるでしょう。
地球環境の天変地異が動物たちの存続を怪しくしています。
この地球環境を「変える」ことは、デザイン対象です。
私は「変える」、「変えたい」と常に思って生きてきました。
昨日は「変える」というのは、
対象に「恋する」意欲、意志に近いと記しました。
その理由も至極、語源的であり、
「變」と「戀」にその意味が覆い被さっているという私見です。
さて、革新とは、対象が「革」を木を切り倒した切り口のようにすることです。
それが二通りあります。
私は、「改革」と「変革」には大きな違いがあるから、
相当の吟味が必要だと考えています。
特に、政治家や企業家のリーダーはこの二つの大きな違いを無意識ですから、
決して実現などしないのでしょう。
私はデザイナーだから、デザイン対象を詳細に見詰めます。
結果、若い頃には、企業家=社長に向かって、
「この企業でのデザインは、改革ですか変革ですか?」
この質問をしたおかげで、
生意気という評価と仕事はいただけない経験をどれだけしてきたことでしょうか。
おかげで、私のこのデザイン対象の再認識手法、
それを支援していただいたリーダーの器量ある企業での商品開発は「革新」でした。
だから、失敗は皆無だと自負できます。
そして、革新をめざしてデザインしたモノは、
ロングライフ製品や、海外の美術館に永久収蔵されています。
私は「改革」は目指しません。
それは、改善、手直しただけであり、革新と言うほどのものではないからです。
変革をめざす
いつでも「変革」をめざしてきました。
対象は「革」です。ピーンと張った革にも関わらず、
その不安定な革、
いうなれば、ピーンと張っていても
まさしく時代の風の中で揺れているというより吹き飛ばされそうな状況を
「変える」のです。
「変革」に恋する自分でありたいのです。
「改革」ではもうはや本当の「革新」には至らないとすら思っています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「『変』って恋?、という私的解釈・私見です」


   


     8月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

述語世界観
天候が「変」だ、と毎年感じています。
日常的には「変」なコトが多発しています。
私は、変化・変貌・変容・変態などの言葉を多用します。
それは「変えたい」と思っているからでしょう。
そして「変える」実務的な手法として、
有効だと確信しているのはデザインだと主張するわけです。
職能的な身びいきをすることは、それぞれプロを自称するなら当然のことです。
ただし、「世界をデザインが変える」とまでは断言を控えます。
述語世界観にデザインを配置することには異議を申し立てています。
「デザインが世界を変える」とアジテートしています。
同じコトを言っているかもしれません。
しかし、私はプロとしてのこだわりがあります。この差異性には、
デザインという職能は、
世界を変える程までの役割ではないから、目的語を冠言葉にまではできないのです。
むしろ、デザインの役割の何が「世界」を変えられるのだろうかという熟考のために、
デザインを主語として述語表現においているのです。
これは「述語世界観」という考え方です。
言い換えると、「デザインが世界を変えることができる」だろうか?、ということです。
變と戀
それなら、
「変える」の源・「変」を、私見的な解釈として言葉の確認メモをしておきます。
古語に戻ると「變」=変という言葉にもどります。
恋=戀という文字と同様な「?」が意味の大枠を決めているというように
私は解釈しています。
恋いするという経験が感覚的に「戀」、その意味にある納得ができそうです。
つまり、「?」は文字の組み合わせから、
「言」=ことばが「糸」で挟んでいます。語源辞典で確かめることができます。
まさしく、戀は言葉が糸に絡まっているようにもつれていて。
本来は「言」という明快さになる心が何かに絡まって不安定になっている印象です。
同様な意味の印象が「變」=変にも重なっています。
不安定な状態が元通りになるわけではなくて変則化=変ずれば則(すなわち)化すとか、
天変地異=自然界の異常な出来事などのように、
平常性という安定を異常な状況への不安定さに?(もつれ)させる意味があります。
そして、その結果が、変化・変貌・変容・変態などになることです。
整理すると、
変、という一語は、不安定極まりないないから感覚的にまず感じ取ってしまう状態です。
そして、変=不安定でもつれている状況の異常性を起こす必要性を納得することだというのが、
私なりの考え方です。
したがって、私自身は「変」と思われることも納得しつつ、
さらに、私はもう「変わる」ということはないでしょう。
変と恋は似ています。
つまり、若いときには変であってもいいのです。
当然、恋もするでしょう。
「変えよう」という意志や意欲は「恋する」という意識に近いと思います。
「変える」ことに「恋」をしなければいけないとすら思います。
私はもう変であっても、私自身は変わることなく、
多分、恋についても云々・・・ですが。
デザインで「変えたい」コトやモノはいっぱいあります。


目次を見る