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Posts Tagged ‘投影’


3月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 23rd, 2021  Posted 12:00 AM

3月23日 赤口(庚午)

『誌論としてのデザイン』

まして、
ジャーナリズムの
テクニックによって
加飾された情報
としての記事は、
偏光レンズとなって
実像も
虚像も
単なる投影された
図像でしかない。

artificial heart:川崎和男展


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『「Kazuo Kawasaki」と「OUZAK」はデザイナー財産』


   


     6月 10th, 2020  Posted 5:04 PM

私には「私の大きな財産」があります。
Kazuo Kawasaki ®とOUZAK ®のロゴタイプです。
C.I.はやはり徹底的に東芝時代に
「Aurex」で私のデザインでやらされたので、
私のデザインとそのロゴタイプ、そしてマークもやり終えたのです。
C.Iにはもちろん時代背景を投影することも大事かと思いますが、
私はそれを超越した変わらない存在を感覚ではなく論理で導いています。
カズオの逆文字、OUZAKとつけた私の会社OUZAK Designは25年目です。
前身として福井で「eX-Design」、
その前は東京で「Super Edison 」として活動していました。
そして、名古屋市立大学 教授就任時に、その立場を割愛し、
その他数社の副社長や取締役も降りました。
「Kazuo Kawasaki」はブランドとして、
変わらず大学人になっても原稿用紙やメモや封筒に使ってきました。
OUZAK Designは、名古屋で国際デザインセンターを構える時に
OUZAKにわかりやすくDesignをつけることを求められて
マークで今の形になりました。
本来はOUZAKは音響機器システムのデザインだけを
取り扱いたいと考えていました。
というか、そもそも学生時代から「光と音」を目指し、
東芝での部署希望も最高級の音響「Aurex」だけでした。
大学を退官したら、今度こそ「音響機器」まずは、
プリアンプとシンセザイラーをやりたいと思っていましたが、
東芝時代ともに開発した仲間から会わせたい人が居たけれど、
みんな死んじゃった、と言われました。人生に予定調和はあり得ません。
デザインしてきた音響機器、レコード針も長く存在価値を失わず、
商品として取り扱われていますが、「不易流行」、
そして先を見据えた「音響のデザインを目指したい」と思っています。


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10月07日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 7th, 2018  Posted 12:00 AM

10月07日 大安(壬申)

誰もがすぐに思いつくものではない。
アイディアを思いついた人自身や、
大げさに言えばその人の生き様、
個性が大きく投影されていることである。

『プレゼンテーションの極意』タブーの逆説「いい加減」なプレゼンの「良い加減」づくり


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『今でも、最も美しい、NeXTの存在』


   


     8月 23rd, 2017  Posted 12:00 AM

今ではほとんど忘れられているパソコン、
当時はMacintoshがようやく知られていましたが、
これもスティーブ・ジョブズの仕事でした。
それはNeXT Stationでした。
私は以前の大学では二台使用し、もう一台は自宅でした。
その自宅でのNeXTを発見して、もう一度使ってみようか、と考えています。
阪大にもMacSEがありました。が、やや黄ばんでいましたが、
あらためて使いたい気分になりました。
自宅で見つけたこのNeXTは、もう一度見直してみると、
私はこれを部屋のディスプレイに置いて使って見たい気分になりました。
確か、アップルジャパン設立10周年記念講演に出たことがあります。
その時には、Digital Equipmentのパソコンに
NeXTのLight Showを入れて画面投影をしましたが、
Digital Equipmentとは分からないようにということで、
アップルから指示がありました。
同時に講演したのがジョナサン・アイブでした。
まさか、Digital EquipmentでLight Showが動くということには、
アップル社にも大変驚かれた思い出があります。
Light Showが今のKeynoteになっていると言えるでしょう。
さらに思い出すのは、なぜか、NeXTには、
「シェイクスピア」がほぼ全巻入っていました。
ともかく、ジョブズが思い切りやりたいことをやり遂げたデザインでした。
私は今でもこのコンピュータほど美しいコンピュータは無かったと思います。
これからこのコンピュータを思い出すためにも、
記述しておく必要があると思うのです。
なぜなら、当時はまだウィルスやハッカーという存在はありませんでした。
当然、SNSなどもなく、1200bpsでの通信ネットワーク?だったはずです。
ともかく、「ハッカー」というのはMITの鉄道クラブで生まれた言葉でした。
それは夜の間に鉄道模型ジオラマをやり替えてしまう人のことでした。
もう一度、動かすことができるのかどうか、です。
そういえば、当時、阪大は400台が投入されていました。
誰が中心?、
これを聞いたところ、3名の教授が「私だった!」とのことです ?。
もし、・・・だったら、「変わっていたはず」と私は思います。

* 「哀悼・スティーブ・ジョブズ氏」
* 『パソコンの小さな歴史の物語り』
* 「現代の道具・LSIのやり直し」
* 『メルクリンの世界も私の憧れのコレクションだ!』
 「Power Point・進化もしないソフトに才能を乗せているのは能無しを自己証明」


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『非在性の市松模様、TV背景のデザインはむずかしい』


   


     7月 28th, 2016  Posted 12:00 AM

TVでのコメント場面、その背景です。
実際は、個人的にはもっと新たな背景があるはずと思っています。
しかし、なかなか思いつかず、それでも、プロジェクター投影との
コンビネーションと三つの専門領域を集合させた背景にしました。
これは本日「記者発表の広報」で使用する会場のTV背景デザインです。
最近は大学でのマスコミ発表には、典型的な背景になっています。
TV報道の背景デザインもデザイナーとしては、最も気がかりなことです。
福井でデザインスタジオをやっていた頃は、地元放送局の背景デザインは
日常デザイン業務だったこともありました。
が、とても難しい仕事であったと今も思い出します。
いわゆる舞台背景やそのデザイン表現は、
一時的であっても重大な仕事だったと考えています。
そういう意味ではデザイン対象として完全な裏方仕事だけに難しい仕事です。
自分にとっては、壁面使用へのいくつかのアイディアがあります。
これは展示関連、いわゆるShow-up Methodへのデジタルデザイン、
その展開が考えられます。
自分には、新たな壁面素材とデジタル技術での新しい造形言語になる、
デジタルアッサンブラージュが用途拡大すると思っています。
しかし、このデザインも市松模様です。
別名は市松格子とも呼ばれています。
最近話題のオリンピック・パラリンピックのマークも
市松模様と呼ばれていますが、
このデザインの是非はここでは述べませんが、
この市松模様を立体化する発想はとても新しい発見であったと思います。
市松模様、チェッカーと呼ばれる意味が、こうしたTV背景でも、
現代のある意味づけを確実にラング化したことは間違いありません。
背景という、非在性を明確にする困難なデザイン対象だと思っています。

* 『新素材ブランドの確立をめざす・「羽二重 HUBTAE」から』
* 『TV番組の役割は終わっていることを再確認!』
* 『デジタルアッサンブラージュでの映像音場照明空間』
* 『東日本大震災のNHKジャーナリスト講演から』
* 「たとえ『市松模様でも』デザイン戦略の妙技」


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『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』


   


     4月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

コンシリエンスデザインという発想手法は、
学術系+芸術系・文系+理系の融合性と統合的なデザイン方法です。
デザイン方法というのは、
問題解決・価値創出・未来創成を目標・目的としています。
そして、僕が最も重大視していることは
「コンセプト」からの発想からの解放です。
それは、三つのデザイン空間への文理統合、
その思考の照射・投影・透過・射影によって
形態設計と制度設計になります。
● SCOPE・スコープでは視点移動=dollyが重大です。
● PERSPECT・パースペクトではその思考空間に消失点の発見です。
● PANORAMA・パノラマは学術と芸術が統合された思考空間に
そのアスペクト=比率を明確にしていくことです。
かつて、僕がCG登場とともにトロントでCGの教育訓練を受けたときに
dolly=ドーリーという言葉を初めて知りました。
それは、画面上でカメラの焦点を当てて行くようにすることでした。
この言葉は当時の英英辞典にも無くて、質問をした経験があります。
まさしく学術的な知識の焦点を芸術的な視点で動かしつつ思考決定です。
パースペクトというのは思考の投影図を創造したときに、
消失点=Vanishing pointを見いだせるかどうかを
論理性と感性を統合しながら見いだす方法です。
そして、デザインを最適化するには、統合的な発想結果が
社会性、それは制度設計かもしれませんが、
適正ある比例配分を決定すること=パノラマ的であることです。
こうした思考を成し遂げていくにはすでに「コンセプト」だけで
デザイナー的な発想を語り出すことからは解放されるべきでしょう。
コンシリエンスデザインにはこの三つを繋いでいる
まさに「ライン・メソッド」=Line Methodがあるということです。

*『数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・03」
*『色彩知識はトロントで消去、そしてbit色彩を知る・04』
*『色彩感覚とCAD感覚・05』
*『なつかしい三冊の本、そこにクラインボトルあり』
*『今秋より『KK塾』を開催します』


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「ロボット・『舞』の意図すること」


   


     4月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

「ロボット」、その言葉=戯曲からの由来はすでに教科書的です。
が、その由来名辞から解放されているとは言い難いと私は思っています。
J・ボードリヤールは「物の体系」で、
「ロボットは想像的なものの局面が神話として
到達したものに他ならない。
それは目に見える機能性の投影という局面である。」と、断言。
私は、わが国のロボット学者や企業は、
ヒューマノイド系とメカノイド系に
輪郭化されていることに不満がありました。
この指摘を「私のロボットデザイン」で
評論的な表現にモデル化したいと考えてきました。
ベースは、中村雄二郎先生の「形態論」と「身体論」です。
「形態論」=安心+安全であり、
「身体論」=安全+安心として再考すると、
スポーツや舞踊が引用できると結論づけることができました。
ところが、「舞踊」は日本だけでなく、
世界中の「踊り」が見事に二分できるとたどり着いたのです。
それはボードリヤールの指摘からも、
ロボットという名辞からも解放されるデザインから
技術仕様を決定していく一つの「基礎学」でした。
「舞」は、足裏を決して見せません。
能舞が日本の伝統芸能として的確でした。
名前も『Nomenclator』という古代ギリシア語を選別しました。
「Nomenclator」というのは召使いですが、
データを把握している情報マンのことです。
誰かが歩いてきて領主的な主人に挨拶をすると、
「あれはどこそこの誰で、先般、病気をしていたとか」、
性格や立場を主人様に伝達する奴隷でした。
しかし、人間ゆえに「感情を持っている」という決めてがありました。
だから、私のロボットは呼び名を変えて、足裏を見せないで行動し、
なおかつ感情=泣いたり笑ったりという表情を、
ヒューマノイドでもメカノイドでもない
形態の身体化を図るということでした。
これは私の人工心臓の究極である「感情=交感神経β1と副交感神経β2」で
鼓動しているような「性能化」感覚と一致しています。
例えば、帰宅すると出迎えてくれて、
ユーザーの想いを共有してくれることが目標意図になりました。
これは大阪大学に特任教授となったときに、
阪大フロンティア研究機構で、ワーキングモデルとして、
「感情共振」=Emotional Domainまでへのアドバンスデザインとして
開発具現化できました。
このモデル化は「玩具性」を離脱する一つの方法だと思っています。

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5月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 20th, 2010  Posted 9:04 PM

5月20日 仏滅(庚午)

「モノが投影された図像が透視図である。」

ということは、
何が投影されたのか、別の言い方をするなら、
積極的には何をイメージとして
投影するかということが問題になる。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


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『資本主義からの逃走』
「ケータイはツールか、メディアか、
     それは使用者・所有者の人格が決定している」


   


     3月 18th, 2010  Posted 9:39 AM

Tool or Media
私はモノのデザインをしています。
モノを所有する、使用する、いづれもユーザーと呼びます。
たとえば、ポルシェという憧れの車があります。
ポルシェを所有している人は、
その人自身は、「使用観」だけで所有しているかもしれません。
これは、ポルシェが「ツール=移動する手段具」です。
しかし、いつかはあの車を「所有」したいという人にとっては、
ポルシェは「メディア=移動具よりも顕示性表現の媒体」です。
モノへの所有観を自己表現するとき、
そのモノは「メディア」になります。
しかし、
モノへの使用観をあるいは使用感覚を軸にする人にとって、
そのモノは「ツール」です。
もっともモノが、「ツールでありメディア」になるのは、
モノの「存在性」=オントロジーになっていくと思います。
私は、きわめて「所有観・所有感」にこだわっています。
それは、自分が選んで所有していることは、告白すれば、
モノで、自分の存在性をも強く演出していることです。
たとえば、
モノへのこだわり感覚は、「所有してなおかつ使用感覚」が、
「望ましくて、好ましい」=価値観が私的であってほしいのです。
私は、これまで携帯電話が自動車用からスタートしたときから、
この感覚を、自分に差し戻して、
自分とケータイとを、「ツール」なのか、「メディア」なのか、
徹底的に考え抜いてきました。
Mobile Phone as Media
結果、
明らかに、「ケータイ」は、「メディア」なのです。
無論ツールとしての機能と性能は最高であってほしいのです。
残念ながら、私自身が「私のために」社会システム、
すなわち、生産システムから流通システムに載せて、
「製品化」から「商品」にしたモノは皆無です。
とりわけ、デザイナーにはそのことを徹底して、
自問自答してほしいのです。
結論は、モノ、たとえばケータイ、
その「ツール」であるのか「メディア」であるのかは、
ユーザーの人格の投影であることは間違いありません。
ちなみに、現在、私が愛用しているのは、
いづれもホワイト色のiPhoneとBlack berryで、
メガネテンプルのカラー毎に合わせた、
それぞれカラーのHeadsetです。


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