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Posts Tagged ‘教示’


『パリティの崩壊=アレルギー関係の教示がデザイン思考』


   


     6月 25th, 2016  Posted 12:00 AM

理系から文系へ、文系から理系へ、
このリニア的な教育プログラムを「デザイン思考」とした手法は、
あたかも最適に見えていましたが、
デザイン=問題解決とその解答には「美」が決着する必要がありました。
それはパラボラ的な教育トレーニングが必要でした。
なぜなら、デザインによる問題解決には、
デザイン思考を支援する、造形化が義務だということを、
リニア的なプログラムでは無謀でしかなかったのです。
そこで、理系文系を学術系とし、その対称性に芸術系を配置したのです。
それは、リニア、パラボラ、さらに、対称性の崩壊により、
プライミングエフェクトという想像力を育成しました。
それは「美的」な解決を目論むというデザインそのものでした。
これは思考を超え、論理をふまえた倫理性あるsilienceでした。
だから当然として、学術と芸術は統合してconsilienceとなり。
その統合意欲を失えば、resilienceで支え直さねばならないことになります。
この対称性の崩壊、あるいはパリティの崩壊をサークルとする
ラインの創成でした。
consilienceとresilienceは、
あたかもアレルギー現象になっているのでしょう。
翻って見直せば、学術と芸術は、
互いに抗菌と免疫の関係だったのでしょう。
デザイン思考は、学術と芸術のアレルギー関係であることを
教示してくれたのだと自分は結論づけています。

*『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予』
*『デザイナー能力の格差が拡大している』
*『100円ショップの廉価性と品質性と影響性』
*『マスクか、ペルソナか、マスカレードか、今のデザイン』
*『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』


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『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』


   


     6月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

次世代デザインを提示していくのは、現在デザイナーの使命です。
しかし、現実には、デザイン系大学のほとんどの教員は、
自分のデザイン経験だけを教示しています。
それはデザインの根本に大きな間違いがあるのです。
「デザインとは何か?」を自分の経験だけで、しかも成功体験があれば、
それこそ「何がデザインになるか?」ということには
接近できないからです。
「コンシリエンスデザイン」を提案しています。
その原語はすでに死語化していますが、
探り出したsilienceについて、ここに書きとどめることから
改めて思考の深度に近づいてみます。
silienceとは、
人間には日常、その思考に深さがあることには気づかないことがあります。
たとえば、気づかされることもなく、褒められることも無いけれども、
時には感心せざるをえない熟考された確実で正当な考え方があるものです。
それは、通りすがりなのに饒舌に語られている批判とか、
大道芸でありながらも感心せざるをえない名も無き芸人の大技、
あるいは無名だけれどもすぐれた芸術的な才能に
はっとするようなことです。
これはまったく匿名的で、誰かに賞賛を浴びるものではないにしても、
いわゆる市井に潜んでいる知恵・知識として
見過ごすことができないのです。
silienceということばに近いほど、
沈黙の中に閉じ込められているということです。
こうした、決して光り輝きを自らが発するわけではない、
日常的、匿名的、無名性の中でも、知恵の集合体をあえて掘り出して、
なおかつ、こうしたことを「結合させる」ことは、
konvinationと言ったシュンペンターに繋がっています。
これが新結合=innovationであったことに極めて近い発想論理です。
silienceが結合することは、
隠れた知恵・知識がconsilienceだということです。
デザインが匿名性=アノニマスで支持されたことを再復活させることです。

*『シュンペンターと象形文字を同次元に考える』
*『「KK塾」キックオフはテクノロジスト・濱口秀司氏』
*『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』
*『ベンチャー企業を再考する!・カンブリア宮殿特番に出て』
*『リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う』


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『イラスト・漫画はデザインスケッチでは無い』


   


     3月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

デザイナーにとってスケッチは明らかに一つの技能であり技術です。
ただし、僕は恩師・故柳宗理先生からは、
「レンダリングなんぞ上手くなるな」と教えられましたが、
僕はいつも反抗していました。
「レンダリングが描けないと企業入社は出来ない」と
たてついていましたし、実際はクラス(工業デザイン専攻)の中では
基本的な入試でのデッサン力も無くておそらく最低の下手くそでした。
だから社会人になって、レンダリングが上手くなることは
僕には義務でした。
実際、フリーランスデザイナーになってからも、
デザインスケッチとラフレンダリング、レンダリング技能を
日課として
自分精進の大きな目標でした。
それからパソコンの登場では、Macintosh 128kに、デザイナーの未来、
つまり、MacPaintとMacDrawに将来のデザイナー技能が見えてきました。
多分FullPaintで僕自身がトレーニングをして描いたのが
パソコンでのレンダリング、その最初のものだったと考えています。
今では、iPad Proで、かなり描ける時代になりましたが、
パソコン、EWSでのレンダリングソフトは全て追いかけてきたと思います。
しかし、最近はデザイナーがスケッチ技法での大きな間違いがあります。
簡単に言ってしまえば、
デザイナーにとってのスケッチ、それからレンダリングというのは、
あくまでもデザインスケッチであり、
その基本はデッサンでも「デザインストローク」での訓練が必須です。
それは、いわゆるイラスト描法でも、まして漫画描法でもありません。
なぜ、イラストや漫画では「デザインスケッチ」にはならないかを
書き残しておきたいと考えます。
すこぶる簡単です。
イラストにしても漫画にしても、そうした描画、特に漫画には
画枠があるのです。
つまり、画枠内でのイラストや漫画では、デザインの根本である
「発想の限界」を与えてしまうのです。
発想に限界を絶対に与えない手法である技能=技術がデザインスケッチでは
必ず求められなければなりません。
私はたとえばモレスキンにしても蛇腹の「ジャパニーズスタイル」を使い、
パソコンやiPadであれば、画面を相当に大きく拡大して使います。
デザインスケッチでは、
決して限界を与える画材や手法は使うべきではありません。
レンダリングを全否定していた故柳宗理先生には
描画に与えられる画枠からの解放を教示されていたのです。


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