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Posts Tagged ‘新人研修’


『商品には必ずオリジナリティを、そしてヒットさせる』


   


     9月 4th, 2017  Posted 12:00 AM

これは商品化されたヒット作です。
東芝入社後一年間は新人研修で、工場勤務から
地方大手家電量販店でヘルパーなど売り場にも立ちました。
ヘルパーとして売り上げは新人ヘルパーとしては全国5位でした。
ようやくオーディオ部隊に配属して、
Aurexマークは、私のデザインがコンペでトップとなり、
東芝取締役たちに新人がプレゼンテーションもさせられました。
Aurexは型番510からスタートでしたが、「このデザインは失敗」と、
新人が叫んでいたのですから生意気だったことでしょう。
それなら絶対成功させると取り組んだ420シリーズのTunerです。
競合各社が、Tuninng窓は全てが上部でしたが、
私は下部傾斜配置でしかもメーターも自分デザインを部品メーカーに発注。
その版下も私自身が5倍図を書きました。
筐体天板にシルク印刷で、型名や背面の接続端子部までを表現しました。
しかし、社内抵抗は相当激しかったのですが、
生意気真っ盛りで、いつでも喧嘩腰の私の提案は
チーフやディレクターには守られました。
技術部では「これを反対すると、必ずあの新人の川崎が乗り込んでくる」、
「ほーら、やっぱり来ただろう」って笑って受け入れてもらっていました。
デザインは東芝でも勿論、チーフやエンジニアたちから鍛えられましたが、
試作モデルメーカーや、大田区の職人さんたちに鍛えられました。
試作のモデルメーカーでは、今でももう会長の方とは、
いつでも連絡や会長からは出身地の名作果物やお肉や野菜が届き、
「早く出世返しを」とかで食事をする間柄です。
さて、この製品は商品として今もオークションに登場します。
そして、改めて当時の素材仕上げは綿密です。安っぽさはありません。
オーディオは今なおオークションに登場してくるほど、
超ロングライフ作品であることは本当に良かった、と
誇らしげに自負出来るモノです。

* 『私が育った企業の滅亡は日本の産業滅亡に連鎖する』
* 『天衣無縫な時代と社会に活気がある』
* 「企画は必ず具現化すること」
* 『LPの音は聴覚という触覚感覚でありそのためのしつらえ』
* 『ふるさと納税に私デザインのカートリッジを発見』


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『強固なるゲマインシャフトからデザインは生まれる』


   


     4月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

「柳宗理生誕100年記念講演」を私が担うことなりました。
金沢美術工芸大学は今なお先輩後輩の結束は堅くて、
先輩からの指示には最大限の寄与をすることになっています。
同級生が支えてくれていますから、私の役目は懸命に果たします。
講演内容は、柳先生の作品解説と、私なりの、先生との思い出があります。
正直、若い頃は入学直後に、私は覚えられるほど反発していました。
それなのに、東芝に入社すると、新人研修でまたもや先生の講義を受け、
これまた、もう何度も聞いているからと断りに行って、
「お前などもう来なくて良い」と言われました。
ところが、車イスになって母校に非常勤でもどると、
「なんでお前はそんな体になった」と心配を受け、
福井で先生の講演会準備に駆け回りました。
先生が高齢になられてからは、同級生が先生を見護り、
先生の作品収蔵や記念館設立、そして生誕記念講演、
その役目を私に与えてくれました。
先生への反発も、先生から教わってきたことは、今も私の根幹です。
私の世代の美大は赤レンガ校舎で元兵器庫跡ゆえ、
結局は薄汚れた倉庫で、室内には雪が舞い込むほどの寒さでした。
ある時、同級生が教室で煙草を消し去り投げ捨てました。
柳先生は突然、大声で顔を真っ赤にして怒鳴られました。
「煙草を平気で投げ捨てるお前はクビだ!」、
「煙草を捨てる者にデザイナーになる資格が与えられるか!」、と。
私はこの瞬間に、デザイナーと社会の関係を学んだと、
今なお思い続けてきました。
卒業間際になってまだ私にはデザインの真意が分かりませんでした。
あのモホリ・ナギの「デザインは社会に対する態度である」。
このことを目前で教え込まれました。
アノニマスデザイン、
強固なるゲマインシャフト、
伝統は創造である、
発明あるデザインなど、
先生の作品を再度厳密に私は見直し、
これからのデザインを、柳デザインから引き継いで語る、
その覚悟づくりをしています。
先輩たちが私の語らせる役目を果たすべく、
これならデザイン評論になると思っています。

柳宗理生誕100年記念講演
* 東名高速道路・東京料金所ー防音壁


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『iPhone6 plusの意味と意義とファッション価値』


   


     10月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

私の情報化はコンピュータとの日常化のなかで、
1972年、東芝入社での新人研修、Apple?で再学習し、
1984年、Macintosh128kからエバンジェリストになり、
そして、クパチーノApple本社でのコンサルタントから今まで、
そのほとんどがApple製品との関係で全てを構築してきたものです。
結果iPhoneも米国発売から私のケータイとスマホも連続しています。
昨夜、いろいろ批判あるMacOS Yosemiteもインストールしました。
まったく、今のところ、巷で話題となっている問題はありません。
それどころか、iPhone6 Plusは、最適なルイヴィトンの
本来はペンケースがそのまま転用することができます。
これまでも、特にコンピュータさらにiPhoneの機能性は現段階では、
これが最も正当であり、最適なファッション性を形成していると
私は確信をもって断言することができると発言してきました。
ケータイ・スマホの時代と共時するのは、ネットワーク回線という
そのインフラによって、「自分の情報性」の真正さにつきます。
真正さが企業の欺し広告で乱されることはあってはならないのです。
それはスマホの販売会社や電話会社の時代的な正義性と倫理性が
ファッションとして、正直性を真摯に訴求することです。
明らかに、このケータイ・スマホ販売は、機器とネットワークの
市場価格と企業それぞれの正当な美学的決断の社会化、効能性です。
しかし、この市場競合には、単なる儲け主義がはびこり、企業存在、
そのインチキが横行しています。今流に言えばブラック企業が
あたかもIT企業と自称し宣伝によりかかった企業存在があることです。
IT企業でベンチャー企業という自称は、国民への裏切りを散々見ます。
こうした企業を徹底的にこれから、私は正当な美学的な検証で
厳しく提示し批判していかなければならないと思います。
その最大の理由は、企業の商業主義を装ったブラック企業だからです。
盟友から「自死の日本史」を薦められ読み直しています。
彼が伝えてくれました。
いつの日からかこの国は誤りの商売で滅茶苦茶になってしまったのです。
だからオピニオンリーダーの一人として、
こうした企業を名指しで非難し討ち滅ぼす必要があります。


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『大阪の子ども達に、このような給食では能力不足当然です』


   


     6月 12th, 2014  Posted 12:00 AM

大阪市に住まなければならなくなったときに、
まず街が貧しくなり、犯罪が格段に多いことにびっくりしました。
そして、必ず年1回は講演を要請されましたが、
気づいたらそれは2月末の予算消化だと思えるようになりました。
行政の力量は、救急救助システムであり、救急車に表れています。
大阪の小中生徒の学力やスポーツ能力が極めて低いことも知り、
ふるさと福井は、学業も体力も全国ではトップクラスでした。
さて、私の時代にも給食がありましたが、
私は大嫌いでした。米国からの脱脂粉乳なんて飲めませんでした。
それこそ、東芝で新人研修の時に、
「食堂のメシがまずいなんて話はしないこと」と言われ、
上司に噛みついたことがあります。
それこそ、名市大病院の病院食にもかなり文句を言っていました。
しかし、改善がかなってかなり美味しくなっていると思います。
そういう意味では、中学性の給食がかなり不味いという報道を知り
びっくりどころか、これで何が政治勢力主張かと思うほどです。
給食業者が学校で保健のために冷蔵庫保管し、
その冷えた昼食は見るからに不味そうです。
こんな給食なら、私は登校拒否します。それこそ、
市議会でも生徒達から弁当をとの提言まであったとかです。
日本という国は2800Calも国民は消費し、そして捨てています。
大阪の中学性給食は850Cal程度らしいのですが、
不味くて残飯で終わるなら、それこそ税金の無駄使いです。
一時期は知事から市長への転身、その選挙のために帰阪しました。
しかし、今では、何が新たな野党づくりだと私は思います。
まず、生徒たちが大事でしょう。それなら給食は美味しくです。
そして救急救命システムもなんとかすべきだと思います。
かつて浪人時代の大阪は面白かった街でしたが、
いづれ、名古屋が大阪以上になるという予測はあたっています。
具体的には、「.tokyo」と「.nagoya」がすでにあります。
「.osaka」は首長の指導力不足ゆえありえません。

『行政サービスの力量は救急システムでわかる!』


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『資本主義からの逃走』
 「数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・01」


   


     1月 19th, 2010  Posted 9:00 AM

TOSBAC-5600
私が最初にコンピューターと出逢ったのは、
東芝に入社した1972年でした。
新人研修で、FORTRANCOBOLを知りました。
デザイナーゆえに、チューターはどちらにするか、
ということでしたが、二つともやらされました。
TOSBAC-5600でした。

大学時代にタイプライターをマスターしていたことが、
最も役に立ちました。
新人研修はグループ全員が旧帝大卒ばかりでした。
美大卒?、デザイナー?というやや蔑視的雰囲気から
「パンチカード」への入力がうまかったので、
TOSBAC-5600は、私の力量?を認めてくれた!
とさえ、思った出逢いでした。

しかしなんとも面倒で何の役に立つのかは不明でした。
やがて、Appleの存在を知りました。Apple?でした。
買える値段ではありませんでした。
ZX81
Sinclair(英)ZX81がやっと買えたので、
これでMS-DOSを独習しましたが、
本当はCP/Mが大好きになりました。
以後、様々なプログラム言語も独学でした。
気がつくと、
国内メーカーへのコンサルタントになりました。
コンピュータ開発でありデザインではありません。
VENUS-P(KDD)で、MARUNET(丸善)、
この通信系経由から
情報検索システムDAIALOG(ロッキード社)に
接続していたのです。
そして新聞記事を書くまでになってました。

Macintosh128KでSOURCEの会員になったのは、
私が日本人では4番目だったはずです。
SOURCEからCompuServe(現在のNifty-Serve)が、
最初の会員制ネットワーク回線だったことを知る人は、
どれだけ残っているでしょうか。
「北陸の福井に、デザイナーなのに変なヤツがいる」
ということでデザイナーなのにコンピューター雑誌に、
連載を持ち始めました。
これが私がbit社会へ入って行くいきさつの一部です。


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