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Posts Tagged ‘易しさ’


12月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

12月7日 壬子(先勝)

厳しいコト、
厳しさには易しさはない。
あってはならないとさえ思っている。
しかし、
厳しさには
優しさがある。

厳しい優しさはとても困難である。

優しい厳しさなんていうのは、
あってはならない、いい加減さだと思っている。

川崎和男「強い人間弱い人間」


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「リスクという片言では思考幅が狭くなる」


   


     5月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

言葉づかいが一つだけは思考幅の問題。
たとえば、「安全」には「安心」があり、
「感情」には「感性」が、
こうした一対の対称性を思考内容にすること。
それは、思考幅を偏重することから解放させてくれます。
ところが、私たち日本人の一言語一民族の特徴には、
この対称性や対照性を一言=片言で済ませても、
まさに以心伝心という独特のコミュニケーション慣習があります。
たとえば、「やさしさ」という平仮名では、
実は本来の、「優しさ」と「易しさ」を統合化してしまうのです。
結果、再確認しておくことが出てきます。
「優しさ」とは、決して目立たない優美さを意味し、
「易しさ」は、トカゲが簡単に色を変えるような簡便さです。
したがって、「やさしい」という一言は、
このどちらにでもなりうる曖昧さまで包含してくれます。
したがって「安全神話」には、
「安心」ということが欠落していたのです。
私は、「安全」が確保されて「安心」を確認することができ、
「安心」という確認があれば、「安全」が確約できると思うのです。
あたかも原子力を「安全神話」で装飾してきたとするなら、
やはり、何が、確保・確認・確約の手続きが、
片言に統合した誤魔化しの曖昧さだったのです。
大地震・大津波・フクシマ原電事故、すべてに対して、
「リスク」という言葉が多用されています。
「リスク管理」があたかも絶対性ある言葉になっています。
しかし、特に放射線リスクとは、
個人的な被曝をリスク=riskと呼び、
社会的・公的な被曝については、
デトリメント=detrimentと言わなければなりません。
私は、今回のフクシマ原発事故では改めて学ぶべき事が多く、
その学習成果から、
次世代エネルギーのあり方を探求すべきだと考えます。
そのとき、「リスク」と「デトリメント」の対称性を取り上げ、
この二つの言葉、
それぞれの対照性を対象化するべきだと提案しておきます。

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「安全と安心・日本語の対語的欠落性」


   


     4月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

日本語は、常に一語制に囚われています。
「感性」と「感情」
「優しさ」と「易しさ」
「科学」と「技術」などの対語がありますが、
一方だけの言葉を選んで、
もう一方の対語的な意味性を無視する傾向です。
これは意味の曖昧性を残しながらも、
いわば以心伝心的な日本風に寄りかかっています。
私は、常に、こうした対語的な意味性で、
一語選択言葉の相補性を確認して、本来の「ことば」原意によって、
「かたちとことばの相対論」をデザイン基底にしています。
なんといっても「安全」という言葉には、
この言葉の対語であるべき「安心」を対象化と対照化するべき、
このように考えています。
「安」はまさしく女性が屋根の下、空間の中に居る形象です。
これは女性の生命・次世代人間への連鎖性を保全する意味があります。
生殖連鎖の性である女性の保全が人類の「安全」という原意です。
一方の「安心」は、「安全」が確保されていることの安堵感です。
英語では、安全=safety・security・安心=Rilief・Reassure
フランス語でもドイツ語でも明確な対比性があります。
この対比・対照性を再確認していくとき、
「安全神話」という言葉は語りやすかったのでしょう。
曖昧性が虚仮になりました。
それこそ、聖徳太子の言「世間虚仮唯佛是真」を忘れています。
人間の世界では嘘と偽りでいっぱいだから、
その真実は仏様しか知らないのです、ということ。
なぜなら、英語でも安心をSecurity and Safetyとなり、
Security =外部からの攻撃を阻止保全し安全=Safety確保です。
したがって、安全を確保したとしても安心だというわけではないのです。
「安全」を神話として語っても、
安心という信頼は得られるわけはありません。
今、私は宇宙ステーション設計では安全工学ではなくて、
安全設計工学を担ってきた専門家からの指導と支援を受けています。
デザイン+設計に包含して、
いわゆる網羅性のデザインテーマ確立ということが肝要だと考えます。
「安全」で「安心」と
「安心」で「安全」、
それぞれの相補性が、
この網羅的なデザイン設計解を叶える企望だと期待しているのです。

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『資本主義からの逃走』
   「慈愛が生み出すこれからの資本」


   


     7月 1st, 2010  Posted 12:00 AM

支配層は1億人
世界人口は加速度的に、70億人に向かっています。
現代明らかになっていることは、たった1億人だけが、
この地球上で、文明的かつ文化的な生活を送っているだけです。
もっとも、この1億人が「幸福」かどうかは不明です。
なぜなら、自殺率から考えれば、この先進的国家は「幸運」なだけでしょう。
そして、「資本主義」が結果的に「幸運さ」を支援しているのも、たった1億人です。
もし、「慈愛」があたえられるべきは、全人口65%約45億人(年収3万円から7万円)と、
23億人(年収20万円から200万円)の人たちに向けて、もっとも「慈愛」が必要です。
優しさと易しさ
根底的、根本的には、最も発露すべき「感性」の健全さとは、
「慈愛」という優しさです。易しさではありません。
「やさしさ」と書き直した曖昧さを打ち切って、
「優しさ」は「慈愛心」という感性です。感情の不純さではありません。
日本語の美しさそのままに、「優美なる慈愛」こそ、
日本の伝統的な文化資本です。
さて、私が「資本論」を肯定的に評価するならば、
「労働者」=被支配者を「慈愛的」な守護主張だったかもしれません。
しかし、「資本論」には優美さは皆無です。
論理で攻勢する主張に最も欠落するのは「優美さ」です。
「資本主義」の合理性がはぎ取ってきたのも「優美さ」です。
それなら、「優美さ」と「慈愛」が創出する「資本」、
何が「優美で、慈愛ある」ことが「資本」になるのかを突き詰める時代を、
人類70億人に問われているのでしょう。
優美な慈愛
そして、その先陣を担うのは、
わが国なればこそ「モノづくり」に込める「優美な慈愛」です。
無論、その主役は日本のデザインが創出します。


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