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Posts Tagged ‘暗闇’


4月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 25th, 2020  Posted 12:00 AM

4月25日 赤口(戊戌)

イメージの暗闇のなかで、
自分のイメージの核心に辿り着くためには、
何か、口ずさむ音楽、
あるいはリズムのような感覚が、
心強い頼りがいであったことは
間違いない。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』17 リトルネツ口論とエキスパンドメタル


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『皆既日食と太陽フレアが風景の予測シグナルかも』


   


     9月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

「風景」を成立させる自然現象には人類に幸不幸がもたらされます。
なぜなら、風景は、彗星が地球にまで落下するかもしれない。
月食と日食、そしてとんでもない暴風雨、
この四つが風景と中国古典、易経を筆頭に書かれていたのです。
しかし現在、風景は「見晴らしの景観」という認識になっています。
特に太陰暦は月の満ち欠けと満月が日本江戸時代の古代暦でした。
それはムーンフェイズの時計が太陽暦であることを補足しています。
つい先日、元私の秘書だった女性がともかく米国へ日食だけを見に行って、
そのことをFBにて書いていました。
皆既日食は、本当に太陽が月の後となって、
一時、暗闇に包まれたという感激を伝えていました。
私は直感で、不吉感が走りました。
それはこれまでの歴史においても、月食と日食には、
とんでもない自然現象、たとえば大地震や大津波があったことは確かです。
そうしたら皆既日食で「太陽フレア」が起こったという報道がありました。
まさに、風景が人類に知らしめる自然現象での悪しき風景異変が発生です。
まず、地磁気嵐が起こる、大地震が起こる、という具合です。
どうか、大地震が日本に起こってほしくないという願いは祈りに至りました。
今、太陽フレアや太陽黒点の変動が、成層圏に大きな影響を与えること、
これがかなり詳細に検証され始めています。
案の上、北朝鮮は地磁気嵐ゆえにGPS使用は不可能ゆえ、
ミサイル発射をこれは幸運なことに見送った(未定?一部推測)というのは、
真逆の思考では、GPS不安ではミサイル誘導は出来ない程度の技術力、
これは安堵しますが、皆既日食が人類への信号だとすれば、
大地震、大津波、大暴風雨が絶対に起こらないことを祈るだけです。
人類はようやく太陽フレアがあると、
それこそ地磁気嵐が成層圏にまでの影響が甚大な不幸を呼び込むことまで、
やっとそこまで人類の予知では無く予定まで到達したようです。
地震は確実に成層圏の異常状態を連動させるのかも知れません。
光景は、生と死、光と闇の関係の象徴論であり、
情景は、人間同士の幸不幸を決定しているという、太陰暦的な予知?
この古代予知は正しかったのかも知れません。
景観と景気はすべて太陽と月との何らかの関係があるのでしょう。
光景は自然と自然、風景は自然と人類、情景は人類と人類、
これを占いでは無く予知では無く、幸不幸の予測的確かと思います。

* 「『風景』とは天地異変のシグナルだった」
* 「月齢表示・ムーンフェイズが暗黙に指示しているかも」
* 『「時計」はデザイン対象、デザイン力量が試されている』
* 『日本人の根本的な倫理観、その原点を見つめ直す』
* 「幸不幸の連鎖の中で」


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『充電器とUSBの進化は日本がやるべきだ』


   


     8月 22nd, 2017  Posted 12:00 AM

ようやく充電器がここまで進化してきたのだと私は思っています。
しかし、その容量も最大では25800mAh。
このアンペア容量とカバーリングデザインによって価格が違うようです。
私自身は、11200mAhと20800mAhを使い分けていますが、
携帯用には薄型=ほぼiPhone7plusの大きさが適していると判断しています。
まだ充電器が必要なモバイル系のスマホやPad、パソコンそのものが問題。
ただ充電器技術の進化は今後ますます進化すると考えますが、
大きな問題が残っているようです。
それはUSBのあり方であり、USB対応プラグ数が何種類かあることと、
このコードはかなり丈夫にはなってきていますが、
最大の問題は、このコネクター自体にデザインが無いことです。
もっとも充電器は電池にすぎませんが、それこそボルタ電池からの進化、
それは無いと言っても過言ではありません。
結局、電池自体の問題はそれこそ鉛電池はもはや時代性を失っています。
ではリチウム電池でOKなのかということになれば、
結局はイオン化傾向である金属とある金属間には4Vの差程度しか、
人類は見つけていないことです。
私は自然界、すなわち太陽は我々人類には「お天道様」が認めている容量、
それだけが人類に与えられた電力エネルギーだと考えています。
最近、次世代デザイナーには、
「照明器具デザイン」は全て無線化するべきとアドバイスしています。
少なからずUSB充電器とLEDで人類は「明るさ」を手に入れること可能です。
そうしたことからも、充電器=充電池のあり方とUSBプラグへのデザイン、
これのやり直しが当然だと考えています。
まず、充電池そのものを人体に埋め込むことが可能かどうか?
そしてUSBプラグの大きさはもっと小さくできるかどうか?
最後に、真っ暗闇でUSBと充電地が使えるかどうか?
こうしたことに応えるデザイン=問題解決と価値感の創出です。
充電器は必ず日本製になってほしいと思っています。
そのためにはリチウム電池からも離れるべきかも知れません。

* 「現在使用のバッテリーパック・・・携帯電力を再考」
* 『モバイルバッテリーはやり直しが必要だ』
* 『電力の自由化と電気の自由化があります』
* 『私の大疑問は電力というエネルギーへの不配慮』
* 『USBケーブルとそのプラグ:ソケットから進化を』


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『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』


   


     11月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「影向」:yow gowという松岡正剛の提示は、
流石と言わざるをえませんし、それは彼の膨大な認知力でした。
「かげ」には、光との関係が明白にあります。
それは私が「陰翳礼讃」では語りきれなかった不平不満を
全て取り出して、一挙にそれが、納得し解決しました。
陰翳とは、
確かに日本的な暗闇に存在する物への美学的アプローチでしたが、
私には、特に、デジタル化された光と、その影と陰には、
もっとその根幹であるひかりとあかりの翳りという動態こそ重要でした。
そこに、「影向」という言語が身体性で語り直されたわけです。
影にはあかりの翳り具合の形が、
それこそ夢幻抱影な印象解が必要でした。
それこそ薄暗闇にあたかも浮かび上がる世界観が「影向」だったのです。
しかし、影にはあかりに浮かびあがる形があっても、
陰には陰陽五行での遮断されている翳りだけでは、日本の美学は、
翳りのアナログ性を引き継いでもデジタルな翳りへの進化は
決して語り次ぐことは不可能なのです。
陰翳では日本の伝統へその美学性のコンテクストを引き継げません。
これが私的には不満足であり、大きなストレスでした。
デジタルサイネージが結局は電子看板という軽薄さでは日本流は不可能。
「影向」という、暗闇は翳り動態をしながらもあかりある影の形態こそ
抱影されたイメージそのものをデジタル変容させるのです。
だから私はサイネージを超えた「デジタルアッサンブラージュ」という
その新語による映像・照明・空調もデザイン表現を提案し始めました。
「影向」は、言語が場踊りという身体パフォーマンスを、
舞台芸術として革新するとともに私のデザイン表現そのものを
陰翳礼讃どころかデジタル光線の陰と影との翳り制御を発見させました。
私は「KK塾」第1回目の冒頭で「影向」にデザイナー感性を知り、
破壊されていた気分や気配でこの講座を始めることを宣言しました。
この一枚の演劇ポスターですら、
銀塩版での初期写真機撮影で、光の翳り具合撮影であったのです。
世界的なカメラマンが、群像写真撮影ならば絶対に断ったにも関わらず、
「影向」表現の演出には
ここまでのデザイン的な配慮があったと聞きました。
偶然といえば済んでしまう話ですが、
私は「コンシリエンスデザイン」を開始するにあたって
「影向」という、それこそイノベーションという誤解だらけの定義を
「コンシリエンス」=新結合=コンバイネーションを
手に入れることが出来たのです。


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『照明の文化論としての陰翳礼讃』


   


     8月 31st, 2015  Posted 12:00 AM

日本には文化として照明には二つのことばとその結果の漢字があります。
ひかりとあかり、その結果として影があり、影には、陰と翳です。
ひかりとは、見つめられない、まぶしさがあり、
あかりは、見つめることができる炎である焚き火や蝋燭の炎でしょう。
古来、日本人には、まぶしさとあかりそれぞれのコントロールは、
障子の存在であったと私は理解しています。
そして、このひかりとあかりを制御してきた影の存在を体系化した
文化として谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」という美学論を持ちました。
この記述は、なんとも廁の美学性まで語られるのです。
私は「陰翳礼讃」こそ、今なお熟読されるべき照明論だと考えます。
「陰翳礼讃」は一言で断言すると、
太陽の光線は朝日、夕焼け、木漏れ日を障子という素材で、
光線=ひかりを見事にあかりとその陰翳効果にしていくのです。
現代技術は、ひかりのコントロールに焦点があたっていますが、
私が最も重要だと考えているのは、陰翳の技術というより手法です。
光はその光度を限りなくアップさせることは可能になってきました。
そのことで、私たちの視覚能力は狂ってきたこともあります。
たとえば、液晶LCDモニターからブルーライト光線が多くて、
ブルーライト削減かカットの眼鏡が最もらしく語られます。
しかしこれは大きな間違いであり,重要なのはドライアイ対策です。
同様に,空間の明るさは、灯りとしての照度が暗がりの制御であり、
それは暗闇に差し込んでくる一条のあかり、木漏れ日のまぶしさまで
人間の視覚能力の対応性を築くことだと私は考えています。
あかりごこちこそ、陰翳礼讃につながっている照明論です。
すなわち、暗がりのなかでの灯りを造形言語=designing languageで
照明のデザインを行い、その結果としての陰翳こそ、
形態言語=designed languageとしての結果認識だと理解します。
照明論は明白にLEDとWifiとIRと電磁波そして放射能の制御に
私はこれからの照明論の統合性=コンシリエンスデザイン現象が
あると言い切ることができます。
それは機能論としてのひかりの安全、規模論としてあかりの安心、
ネットワーク論としての無線化技術、文化論としての陰翳です。


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『実寸大の馬が32階の自宅にいる!』


   


     6月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

わが自宅は海抜ほぼ100mで32階建ての32階にあります。
そこにほぼ実寸大の馬がやってきました。
ワイフが長年、この馬に出会ってから
「馬が、馬が、・・・」と言ってきました。
結局、搬入では17人乗りエレベーターもあり、
私はエレベーターもプロ並みに知り尽くしていますから、
計算上は搬入可能だと言ってきましたが、
エレベーター構造は明らかに遅れていました。
そこで搬入は結局人力で32階を運び上げるという作業を
余儀なくされましたが、
搬入業者の方々がプロであり、搬入時には小学生たちが集まってきて、
大騒動になってしまったくらいでした。
そして、来訪するゲストたちには仰天されています。
「エッ、何で、どうしてこの馬が・・・」とびっくりされています。
最も欲しがっていたワイフが夜の暗闇で馬を見て驚愕し怖がる始末です。
なぜなんだ?って、私は不思議でたまりません。
しかも、これは巨大な照明器具ですが、
それなら思い切った音響でのLED照明にするべきと私は考えてしまいます。
最もふさわしいテキスタイルをということで、
馬の佇まいが、なんとも大きなアクセントになっていて、
馬が見つめてくれています。
亡き父は、騎兵隊で従軍していたので、
実家には馬の置物やら掛け軸が相当にありました。
父が生きていたら喜んだと言うよりも驚いたかもしれません。
ワイフが銀座のあるブランドショップで木彫りの実寸大の馬を見てから、
「あれ、家に欲しくない?」から始まり、
それがある著名なインテリアデザイナーの自宅写真にまでありました。
突然、FaceTimeであるショップで「偶然見つけたから」と連絡があり、
搬入不可能だと知ってから見事に落ち込んでいました。
そうしたらFacebookでもアイディアが集まり
私はエレベーター企業にも交渉しましたが、
結局、人力での搬入会社の明るいメンバーはかなえていただいたようです。
鎮座まします、この馬、相当に威厳があると私は思っています。

「欧州の紋章とタータンチェックから学ぶこと」


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2月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 19th, 2015  Posted 12:00 AM

2月19日 丙寅(先勝)

攻撃になるほどの
強靭さが無ければ、
冥府の暗闇にあるあの輝きを
見つめることは不可能であることを、
私は知っている。

川崎和男Design 図鑑


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2月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 18th, 2015  Posted 12:00 AM

2月18日 乙丑(大安)

攻撃になるほどの
強靭さが無ければ、
冥府の暗闇にあるあの輝きを
見つめることは不可能であることを、
私は知っている。

川崎和男Design 図鑑


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6月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 23rd, 2014  Posted 12:00 AM

6月23日 乙丑(赤口)

攻撃になるほどの
強靭さが無ければ、
冥府の暗闇にあるあの輝きを
見つめることは不可能であることを、
私は知っている。

川崎和男Design 図鑑


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『意識して見つめたい「光」を』


   


     2月 12th, 2014  Posted 12:00 AM

生きている実感は「光」を視るからかもしれません。
それは私には三つの体験からの一つの結論です。
日常は全く「光」には何の興味も持っていないものですが、
私は幾たびか入院し、しかも生命が危ないという体験もあります。
そして思い起こすのは大抵、その時は眠っているのでしょうが、
自分の記憶の中では、暗闇に「光」があるという、
これこそ「光景」の中に放り出されている実体験が残っています。
だから、私は明らかに「光」が太陽から雲から出ている写真、
この写真を集め、またこれまでの画家達がこの光景を描いたことに
とめどない興味があります。
色彩が光の物理的現象ということも、単なる知識にすぎません。
むしろ私はこの物理現象よりも、幻想にある光景にこそ、
これまでのあらゆる思考の学や論が意識に沈殿しているのです。
したがって、私が「色」を体感する以上に「光」があります。
物理的・科学的なことよりも考え抜くことは、
「まず、光あり」という宣言に心惹かれています。
こうした自分の体験や幻想、それらは全て私の想像力ですが、
この想像力をいつも整理するためにこのブログだけは、
できる限り書き残そうとしているのかもしれません。
端的に言えば、私の欲望はほとんど光のごとく在るのでしょう。
できる限り私のデザイン、その効用と効果も光のごとくなのです。
私たちが光を具体的に印象化しているのは、
太陽を視ること無くても、雲があって、差し込んでくるものです。
差し込んでくるからこそ、これを自分の実体験にまでするには、
相当の想像力と光を同根にまでしなければなりません。
なぜなら、せめて「光」のあるところには行きたいと思うのです。
それは決まって、私が暗闇に放り出されて苦しんでいるその時、
私は必ず、この一点=差し込む光を求めてきました。

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