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Posts Tagged ‘書経’


「資本主義からの逃走」
     「多様性の前に意識の中の『維新』を再検証」


   


     1月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

歴史的DNAの言葉・維新
意識には先天性・後天性があります。
その先天性には、民族性・個人性が関与しています。
民族性はきっと「歴史で培われたDNA」があるでしょう。
したがって、日本人には多様性意思が皆無であるDNAを確認します。
私は「維新・restoration」について明記しておくべきでしょう。
日本の歴史・日本人意思に革命・改革・改新という事例は、
「維新」という言葉で曖昧さと平和性に変位させています。
これが、私は意識・意思・多様性に多大な精神性を与えると判断しているわけです。
だから、「維新」という言葉への暗黙性を研磨し光沢を与えます。
「維新」は古典書二つから、「百事一新」という意味があります。

   ■ 『書経』
        <旧染汚俗、咸(みな)共に維(こ)れ新たなり>
   ■ 『詩経』
        <周は旧邦と雖も(いえども)、其命維(こ)れ新たなり>

1870年(明治3)1月3日の大教宣布の詔書では、次のように記載されました。
「百度維新、宜しく治教を明らかにし、以て惟神(かんながら)の道を宣揚すべし」という、
神道のイデオロギー、これは流血を最も嫌悪させます。
この嫌悪感をもって日本人をある種洗脳したしまったのかもしれません。
したがって、この日本人・一言語一民族を理想的に結集させるマニフェストになったのでしょう。
それは、昭和維新や平成維新という、
本来は革命とするタイトルを意識心理とインプリンティングしていると考えます。
このイデオロギーは、統一感であって多様性を拒絶しているのです。
この拒絶感が歴史的なDNAとして、私たち日本人には残存していると私は思っています。


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『資本主義からの逃走』
   「学と論をデザインがつなぐ」


   


     10月 7th, 2010  Posted 12:00 AM

幾何に向かうデザイン
問題解決を私は「幾何」という言葉を使います。
これは幾何学そのものとは距離感をおいての言葉です。
幾何学という数学論理に閉ざされつつ、
さらに数学論理から解放されることをめざす言葉運用です。
それは幾何学の原意である「幾何=いかばくの、どのような」という意味をを抽出し、
その言葉での学理としてのかたち=容を求めたいからです。
もう一度、プラトンに戻れば「神は幾何学を業となし給う」というテーゼに回帰するのです。
正直、プラトンが本当にこのテーゼを言ったのかどうかはわかりませんが、
学を教わらず学ばずにして論の中には入るべからず、ということは充分に理解できます。
デザイン学
さて、私はデザインは問題解決の一つの手法だと明言しています。
問題解決の手法=実務学です。
「学」となれは、それは「教わることで学ぶ」という相互性があります。
つまり、教わる「学」となっている、学ぶべき「論」がある学理だということです。
少なからず「デザイン学」は、他の様々な学理の歴史時間はもっていませんが、
短絡的に言えば、バウハウスをシンボルとした学校という場に、
学理がそのまま教科書としても存在していました。
ところが、デザインが応用美術であり、産業支援の実務技法という一般知によって、
「デザイン学」が学術論理であるという公認は、
はなはだ希薄な印象に放置されているということも認めざるをえません。
よって、デザインを言葉の道筋として語られることが手法論理=実務学であるがゆえに、
手法技法や技能としての学理という理解を拒否する、さらに私は批判的に言うならば、
古典的な「時代遅れな学術論者たち」からは多大な誤解とその誇張的な喧伝が残存しています。
こうしたことに荷担している論者たちこそ、実は、「学問」と「論理」、
少なからず「学」と「論」のあらたな統合性や誘導性という学理の学際性を破壊している、
そうしたセンス無き談合集団者であることを露呈しているのです。
デザイン論
明らかに「デザイン論」の論議が、デザイン技法を拡張しさらに、
「問題が何か」という、学理=幾何によって、
さらなる「デザイン学」の進歩による拡充が不可欠になってきていることを
あらためて強調しておきたいと考えます。「デザイン理論」にむかわなければなりません。
デザインを「学而時習之」(論語)とデザインを「論篤是与」(論語)によって、
「論道経邦」(書経)が、
現代、デザインが学と論をつないでいることを明快に評していることを提言しておきます。


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