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Posts Tagged ‘最終講義’


『「図鑑」=作品集はもう一冊は出したい』


   


     11月 13th, 2014  Posted 12:00 AM

デザイナーになって40年の活動は図鑑「川崎和男Design」に
まとめることができました。
だから、自分の仕事を紹介するにはとても重宝しています。
しかし、本来は阪大の最終講義に出版をと思っていましたが、
自分で編集に加わってからは、どうしても書籍というモノ、
モノのプロダクトデザインとして、紙質から製版までをなんとか
最先端にしたくなって1年も延期してしまいました。
また、出版社からは「川崎和男・全仕事」が売れ筋と言われましたが
全仕事ではなくて、今も進行中の仕事を最終と考えたい、
そう言い張ってしまったのも延期することにつながりました。
幸いにして、この書籍出版では、現在最高峰の技術を集めたので、
おそらく、この種の美術図鑑ではこれ以上の仕上げは無いとさえ、
自画自賛しているありさまです。
だから、本来なら配布したい人がいますがこれも敢えてやりません。
今は傍らに置いて改めて詳細な校正というより説明を付加しています。
デザイナーである私の作品は写真表現になっていますが、
その作品一つ一つは、製造・生産に関わった人たちだけではなくて、
この作品に至るまでのスケッチ、何枚もの図面、企画書など、
作品の写真に集約されているだけのことであり、実際は、
とてつも無く多くの人たちが支えてもらえたからこその出来映えです。
もし、画家なら、自分の力量で作品は描けたかもしれませんが、
デザイナーであるからこそ、発想のスケッチから企画計画を立案し、
私のことですから、随分とわがままなる喧嘩もしてきました。
私自身は、これで4冊目の作品集ですが、
私の人生最期の仕事=今関わっているすべては、メモも、それこそ、
電話の声も、会議も残したい、その記録としての作品集、
そのようまモノが残せるのだろうかと、考えてしまいます。
でも、現在進行形の仕事も必ず「図鑑」にしたいと願っています。

『作品集は合計やっと4冊になりました』
「64歳ー私のデザイン作品集『図鑑』編集中」


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「パリから帰国後超多忙だった・・ようやく・・・です」


   


     3月 24th, 2013  Posted 12:00 AM

パリ市内で初めてノートルダム寺院を裏から見ました。
長年の夢でした。
850年も前に、ドーム建築のドーム支えの発想が、
そのまま美しく建築に反映していました。
仏人の阪大インターンの教え子は、
車椅子の私を初めてモンマルトルの丘、
その頂上の教会まで登らせてくれました。
絶対に車椅子で自力に登るのは不可能でしょう。
フランスでは教え子たちと出会い、本当に満足いっぱいでした。
ところが帰国すると、
「第一回危機管理デザイン賞」の審査から表彰式・講演を努めました。
これから危機管理工学へのプロダクトデザイン主導による、
産業創出をめざすでしょう。
このことをしっかりと伝えていくことが私の役目になるでしょう。
海外に行っていたのでいくつかのクライアントに会い、
クライアントそれぞれの仕事に決着をつけたり、修正に追われました。
さらに大阪大学の退職教員として、挨拶や教授会、パーティに出ました。
このFBも全く見ないほど超・超多忙でした。
ようやく落ち着きました。
大阪大学大学院での次の準備にようやく取りかかりましたが、
退官記念出版も本格的に出版内容をしっかりと校正しなければなりません。
本年正月に書き上げた論文校正もこれからです。
正直、毎日ともかく眠くて眠くてたまらない毎日でした。
それでもいくつかの本は読破しました。
ようやく今夜から、
あらたな活動の準備態勢に入ります。
ご無沙汰しているみなさんや、
最終講義に大阪まで来ていただいた、
クライアントから教え子のみんなにも心から感謝します。


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「5年ぶりのパリ、5日目の報告」


   


     3月 9th, 2013  Posted 3:40 PM

最終講義」を終えて一日休み、
翌日、伊丹 → 成田 → パリに入りました。
車椅子になってからは、飛行機は余程の事で無い限り、
私のある信念で選んでいます。
よく眠りました。
ワイフは3本も映画を観たとかでした。
すでにパリでは5日過ごしましたので、BLOGを書きます。
2008年には私の誕生日を挟んで来ていましたから、
ホテル(Four Seasons George V)には、
かつては友人がアジア担当ディレクターでいましたがもう帰国しています。
けれども、スタッフの一部は覚えていてもらいました。
10年以上もパリの定宿ですから、
車椅子対応はそのままで、ワイフが映っている鏡扉の後に、
ホールから各部屋へのエレベーターはそのままでした。
ただし、やはり、パリは車椅子での横行は厳しいです。
いつも電動の凄いのをデザインしないと、と思います。
飛行機の中からある小説を読み出し、
パリ2日目夜に読み終わりました。
フランスには教え子が4人もいます。親友もいます。
昨夜から帰国してからの仕事準備を始めました。
ワイフは5年ぶりの街中地理を確かめに行ったり、
スーパーマーケットに行ったりです。
昨日、
街中のいつもの文房具店でもっとも素敵なスケッチブックを買いました。
店内では、やたらにモレスキンが増えていました。
けれども、なかなか手に入らない皮革カバーで
最高品質のスケッチブック2冊だけでしたが買い占めました。
ワイフが買い占めているモノも十分に知っています。
帰国前に教え子たちと食事をしたり、
どうしても観たい現代美術を観に行くつもりです。
恩師や目上の方々には絵はがきを書きました。
父がいた頃には、海外に出るときには、
必ず、飛行機内で絵はがきをもらって到着地で郵送しました。
それは、もし、私が海外に居る時にでも、
父に何か体調事情があれば困るので「私なりのおまじない」でした。
しかし、もう父はいません。
生きていれば96歳、79歳で逝きました。
今回、しみじみと思ったことは、
<これが最期の海外かも>ということでした。
「最終講義」で一応、阪大を退官しますが、
阪大からは、「名誉教授号」のカードと名刺200枚を作成してもらえます。
早速、SHOT NOTEホワイトボードにラフを描いてスタッフに送付。
本日(Paris 14:07)に、研究室レイアウトをOKしました。


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「今日からフランスへ」


   


     3月 4th, 2013  Posted 12:00 AM

一昨日「最終講義」を終えました。
母が47歳で逝きましたから、私も47歳で生き方を変えました。
1996年に名古屋市立大学芸術工学部が新設とともに、
私は大学人になり、デザイナー活動と二足のわらじを履いたのです。
2006年には、芸術工学科・博士後期課程が完成年度とともに、
私は大阪大学大学院に転籍しました。
「光陰矢のごとし」です。
64歳にて阪大を退官することになり「最終講義」をさせていただきました。
退官しましたが、
「危機管理デザイン賞」総合審査委員長ということもあり、
大阪大学大学院工学研究科は、3.11という大経験を乗り越えて、
これからmade in Japan産業を「危機管理関連産業へのデザイン応用支援」の
重要拠点として、国家ミッションを引き受けることになりました。
特任教授(名誉教授)・プロジェクトリーダーとして
現研究室をさらに拡大していくことになりました。
講義前日には、「危機管理デザイン賞」の審査で、
大阪市内のショールームで応募賞品や、
阪大研究室に送られてきたり、
作品ともども持ち込まれた応募者と会談もしました。
気づいたことは、わが国がこれほど天災・地震や津波国であることですが、
「危機管理」といっても、まだまだ知識不足が多いことでした。
もちろん、
グランプリやゴールド、シルバー賞、特別賞候補などを決めました。
その翌日には、阪大発祥の大阪大学会館にて「最終講義」でした。
大勢の人が見えて、会場は満杯になり、
お花やプレゼントを一杯いただきました。
明日から、
フランス芸術大学(エコール・デ・ボザールはフランス各地に散在)
パリにて、
退官後、引き受けることになった「危機産業創成デザイン重要拠点」にて、
阪大が「危機管理産業のmade in Japanをしていく話をしてくるつもりです。
最終講義にご来場していただいた皆さんや、
来れないからと連絡いただいた皆さん、
そして、すべてを管理してくれた研究室やオーザックデザイン、
現スタッフ、元スタッフに心から感謝します。
帰国とともに、
デザインによるこの災害から危険、危機への産業化を主導します。


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「連載結果の出版は『ことばの相対論』」


   


     3月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

本日、大阪大学会館にて「最終講義」をします。
講義内容は、すべて「ことば」になります。
本来の仕事は、
デザイナーゆえに「かたち」で問題解決をめざしてきました。
もはや無くなった「MacPower」誌には、
17年間連載をさせてもらっていました。
その連載を中学性時代に出逢って、
デザイナーという職能を選んだ人までいるのです。
連載は、当時は副編集長、
やがてアスキー社の常務にまでなったT氏の薦めでした。
2年半で、連載は単行本として書店に並ぶようになりました。
しかし、
連載はほとんどその当時のパソコン、それもApple社ばかりでした。
したがって、内容はエッセイ的なものにかかわらず、
アスキー社ゆえに、
書店では常にパソコン誌の傍らにひっそりと置かれました。
エッセイ群に入っていればそれなりに売れた自信がありますが、
パソコン誌群の片隅ではなかなか売れなかったのですが、
それでも4版にまでなったモノもあれば、
これは難解さを求めたから売れないと思っていたモノが
長期にわたって3版にまでなったりしました。
「かたち」にこだわる職能として、
「ことば」を求め続けていました。
表紙にもこだわり、
初期のモノは活版印刷・布貼り・銀箔文字型押しもあります。
モノの「かたち」にもこだわりました。
文章は、大学入試の現代国語の試験問題に選ばれた所もあり、
実際には大学入試問題になった文章もあり難しいと思った経験があります。
結局は、パソコンとデザインにこだわったことば=文章でした。
伝えたいことを徹底して日本語を調べたので日本語は中学時代以来、
日本語の語彙が増加した経験が残っています。
だから、この6冊は15年間にわたっての連載を単行本にできました。
少なからず、私のささやかな宝物になったのかもしれません。
時には、私のこの著作を抱いて、講演会でサインを求められます。
とても嬉しいことです。
できるかぎり毛筆で名前を書きます。
そして「恵存」とまとめます。
「恵存」ということばは、哲学者の中村雄二郎先生に教わりました。
「恵存」というのは、
「どうかいつまでも大事にしてほしい」という意味です。
「ことば」と「かたち」、
この相対論は常に身につけておきたいと思っています。


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「これからの私、私が賢明で懸命になること」


   


     2月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

2月26日誕生日でした。
本年度で大阪大学大学院は定年退官が決定しました。
しかし、昨年、「危機管理デザイン賞」審査委員長を拝命し、
昨年7月2日には、前政権の防災大臣に1時間半も
プレゼンテーションをしましたが、
案の上、この「政権ごっこ」などは、
全く私の想いとはかけ離れていました。
8月1日には、弁護士会館にて、
危機管理デザイン賞」創立の講演をしました。
その結果として、
大阪大学大学院工学研究科の私の研究室に、
特任教授として、
「危機産業創成デザイン重要拠点」づくりが与えられました。
64歳にして、再度、この国難国家をデザイン主導、
大阪大学大学院を重要拠点とした、
プロジェクトリーダーになる決意をしました。
ところが、インフルエンザで阪大病院に入院するとか、
グアムに行くとか、東京でのクライアントに会うとかでした。
幸いにして元気を回復し、
博士後期課程=博士号取得者もいることから、
3月2日には「最終講義」をします。
デザイン界の恩師・平野拓夫先生や従兄弟やふるさとの伝統工芸産地から、
教え子たちも来ていただけることになりました。
今回のインフルエンザで、多分、もう本当に駄目かと思うほどでしたが、
元気になってしまい、熊本大学にて後輩の依頼で講演をしてきました。
まだ、走り続けることになりそうです。
公共政策では、制度設計論が様々な大学にもありますが、
私は、3.11があったからこそ、
国家防衛から警備警察、さらには防災・防犯などへの
新しい産業を「デザインで牽引する」というテーマを抱きました。
ようやく、新政権が本格的になろうとしてくれています。
であるならば、
デザイナーとして、デザインディレクターとして、
そして大学人として、大阪大学大学院をハブに危機産業の創成こそ、
これからの「公共」のあり方を支える、
産業構造を創出したいと考えています。
これが、これからの私が、
より賢明になり、より懸命に行学を貫く所存です。


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「64歳ー私のデザイン作品集『図鑑』編集中」


   


     2月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

40歳までと言われましたが、もはや64歳になりました。
20歳当時は、大阪に居る恋人が電話をくれました。
その日、翌年には母と死別するとは思ってもいませんでした。
それから28歳には交通被災で歩けない体になり、
無防備にも40歳までの命とすら考えてきました。
ところが、64歳で阪大も退官します。
運良くもある出版社から
「作品集」を作成していただけることになりました。
それも最終講義に出版予定でしたが、
体調不信もあって、この秋までには出版できそうです。
本図は、私なりのアイディアスケッチです。
作品一点を誰も試さなかった印刷技術で創り出したいと考えています。
おそらく、これから書体・レイアウト・カーニングと詳細設計します。
出版社からは「全作品集」と言われましたが、
まだ今後の作品があるので、「図鑑」的な編集を目指しています。
紙から表紙印刷など、これまで自分の作品集では三冊目になります。
ともかく64年間を
自叙伝的・編年体的・視覚触覚的な編集をと考えています。
本当は発表してはいけないのかも知れませんが、
絶対に「私」を表現してみたいと思います。
ほとんどを出版社に任せて作成した作品集は、
祖父宛の文章を入れました。
夢で、祖父と会話をしたことを想い出します。
こうした作品集を出版できるのは、デザイナー冥利です。
デザイナーになって良かったと思います。
私なりには「図鑑」と呼んでいるこの作品集には、
先祖の図面も載せたいと考えています。
私自身は、リンカーネーションを全く信じていません。
輪廻転生は夢だと考えますが、
それでも、生まれ変わってもデザイナーでありたいと考えています。
「終章にむかって・・・」、これがはしがきです。
「・・・消失点を見つめて」、があとがきです。
だから、どこまでも「生きぬく」ためにデザイナーでありたいと思います。
工業デザイナーが作品集を創るならという代表作にするつもりです。
最終講義には間に合いませんが、なんとしても力作づくりにします。


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「ようやく・・・活動再開だ!」


   


     2月 24th, 2013  Posted 12:00 AM

今回のインフルエンザには、本当にいじめられました。
阪大病院に2度も入院し、
体調不備のまま、グアムに飛び、
帰国すれば、薬づけのままに企業やプロジェクト管理をし、
帰阪したら、退官届けが山のごとく残っていました。
まだやり残しがありますが、
体調不備のまま、ともかく、「眠って眠って体調を!」と。
さて、もうこれで大丈夫です。
「活動再開!!!」です。
しかし、まだ、「最終講義告知」も自分で確認していません。
この3月いっぱいには大阪大学を退官します。
けれども、現在の研究室にてそのまま国家ミッションを続けます。
「危機産業の創成をプロダクトデザイン主導する
 日本最初の重要拠点」にします。
危機管理デザイン賞を昨年8月に設置しました。
あいにく、わが国は、
3.11の大震災・大津波は原発大事故にまで連続しました。
自分の人生で、国難に接するなんてまったく想像もしていませんでした。
とりわけ、わが国は地震大国であり大津波の危険性を想い知らされました。
昨年7月2日には、前政権の中川防災大臣にプレゼンまでしました。
想像通りで、前政権は「政府ごっこ」に過ぎない、
なんとも情けない国家にわが国を落とし込んでいました。
この大苛つきを抱きながら、「何が私に可能だろう」、
「何が私の残された日々にデザイン活動になるのだろう」、
この想いは毎日上昇しました。
「いじめ・体罰・大犯罪など」と「国難」の国内、
領土問題と拉致問題の国外交渉を見つめながらも、
インフルエンザは自然からの暴力でした。
私は歩くことができませんが、
グアムでは自分をある訓練をさせてきました。
実際は、体調がもどらないかもしれないと思いつつです。
それでも、私は「生きる」ことよりも「生きぬく」ことを狙っています。
あらためて、インフルエンザを体験し、
阪大病院ではおそるべし強靱なウィルスも間近で見つめました。
「危機関係の産業をデザイン主導で創成させます」。
そのためなのか、私に元気が戻ってきました。
私の発言を、他人は「怖い」と言います。
「怖い」→「恐れる」→「恨む」という回路がありそうです。
そんなものに囚われている連中には、
「命がけ」になって向かっていくことになるでしょう。
「終章に向かって・・・消失点を見つめて・・・」がテーマです。


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「あらためて『最終講義』告知をします」


   


     2月 18th, 2013  Posted 12:00 AM

インフルエンザは、私の体調を相当に壊しました。
2度も阪大病院に入院しましたが、
自分で阪大病院に行くとまで言ったのは初めてでした。
しかし、退院翌日には、
ワイフの弟の結婚式でグアムに飛びました。
暖かくて、ゆっくり休みに出かけましたが、
丁度、あの大事件にワイフは1時間前にホテルにもどって無事でした。
大阪市に住むようになって、阪大病院への入院は慣れています。
しかし、大阪市の救急隊員はもう一度、トレーニングすべきです。
おそらく、各都道府県毎に救急隊員の装備から対応、
ユニフォームはまったく差異があるはずです。
「大阪市は最低」と断言します。
やり直さないと全く駄目ですね。
市長も気づいていなでしょうから、徹底検証します。
名古屋は最高でした。
装備、ユニフォームを見ただけで「安心」できます。
このところ、退官間際ですが、スタッフと学生たちが支援してくれました。
このFBでの皆さんも随分心配かえけてごめんなさい。
もうちょっとで、元気復活させて「最終講義」をします。
今回、グアムに初めて行きましたが、
アトリエを建ててもいいと思いました。
ともかく、まだやり始めたプロジェクトに関与する皆さんにも
大迷惑をおかけしました。
どれだけに、まだ、
私は仕上げておくべきコトをつくづくと思い知りました。
4月からは、新たな立場で、デザイナーとして目指すべき仕事をします。
特に、気になっているのは、「体罰=暴力」などの
「問答無用論」ばかりが、わが国ではまたまた平均発想ですが、
せめて、ソレル著「暴力論」という定本との評論無しでは、
とても「知的判断」そのものが野望です。
そのようなことも「最終講義」で語ります。

最終講義の詳細はこちら


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「『最終講義』を告知させていただきます」


   


     2月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

すっかり風邪を引き、点滴でなんとかしつつも、
実質的な阪大での講義も全てやり終えました。
それからまたふるさと福井での繊維産業の再活性化で帰省しました。
いつものごとく、親友がいつでも見まもってくれているので、
ふるさとは本当にありがたい場です。
このFBでも、BLOGを休筆すると先輩や後輩、
さらには教え子から元スタッフまでみんなに心配をかけてしまいます。
正直、まだ風邪は抜けてくれていませんが、
自分の身体がどうであれ、世の中は連日事件、
さらには、中国からのスモッグと大変な状況です。
昨夜北陸線でも事故があって、車中で従兄弟からも、
最終講義は聴きにいくからと嬉しいメールで、
「準備進んでいるか」とのこと。
やや焦っています。
スタッフや元スタッフ、学生たちが
最終講義の準備をしてくれていますから、
私としては、
本当に大学人最後の講義をしたいと思ってはいますが、
何をテーマにするかは日々変わります。
タイトルだけは、「・・・the Final」と決めました。
プレゼンテーションも、
Picture in Pictureという形式での講義スタイルを考えています。
デザイナーだから、
作品で語ることもできます。
デザイン史を、デザイン論を、
敬愛するデザイナーを、などなど語れるでしょう。
1996年に名古屋市立大学・芸術工学部新設から大学人になりました。
2006年に大阪大学大学院に移籍しました。
17年間、大学人とデザイナーという社会的な立場にありました。
阪大を退官とともに、
どのように今後のワークスタイルをここ数年常に考えてきましたが、
3.11によって、私は、最期の生き方を決定することができました。
あくまでも「行学としてのデザイン、デザイナーでいること」です。
それはおそらく、もし生まれ変わっても、
「デザイナーになる」ことは変わらないでしょう。
話せるかどうかはわかりませんが、
常に、自分を捉えて放さなかったテーマは、
「デザインでわび・さび観に近接できるか」でした。
直感的には、たとえ工業製品、産業的美学上の形態に、
「わび・さび」を配置することこそ、
日本のデザインテーマだと熟考してきたことです。
そんなことを最終講義に少しでも加味したいと考えています。

最終講義申し込みは以下です。
www.kazuokawasaki.jp/final.html


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