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『資本主義からの逃走』
  「哀しみの『美』が感覚を豊かにしていると想う」


   


     6月 27th, 2010  Posted 12:00 AM

人間の生涯、「喜怒哀楽」が折り重なって日常を包んでくれています。
私は、多分、人生は「喜び」・「怒り」・「哀しみ」・「楽しみ」が
四分の一づつ携えているのかも知れないと思っています。
本来なら、「喜び」と「楽しみ」だけだったなら・・・とは、
誰もが願うことでしょう。
そして、この「喜怒哀楽」を受け止めて、
喜びをそのまま表す人もいれば、
怒りがあっても、飲み込んでしまう人、それぞれです。
私は、素直に喜び、楽しみ、
率直に、怒り、また哀しみをそのまま表せる性格です。
むしろ、「喜怒哀楽」に粘着しているかのような、
「妬み」・「嫉み」・「憎しみ」などは、決して自分に付着させることは罪悪だと考えます。
そして、そのような粘着性の性格などは、医学的にある種の「妄想的疾病」であることから、
「喜怒哀楽」がその人に与えられることは無いのだろうと想像します。
「哀」に「美」
さて、私は「哀しみ」に「美」があると考えてきました。
つまり、生きていくことが死んでいくことと同値ライン上にあります。
だから、「哀しみ」と「悲しみ」とは大きな違いもあるのでしょう。
私は、人間の生死が「哀しみ」にあるからこそ、
「喜び」と「楽しみ」で彩られる生活があると信じています。
舞・歌
その根拠の例示として、「舞」と「歌」を挙げることができます。
「舞」とは、祈り、願い、であり、
これはもう人力が及ばないからこそ「神」に肉体で表現をする行為です。
「歌」は、体を屈折させて、体内から絞り出すように声を出す行為です。
いづれも、根底には「哀しみ」があります。
感謝の踊と歌
そして、その願いが叶えば、人はまた「踊り」、「歌う」のです。
その「踊り」や「歌う」ことには喜びと楽しみが反射します。
またその喜びと楽しみは、反復されて記憶から幾たびも取り出すことができます。
この反射や反復が、
祈りと願いが届いたからこそ「感謝」ができるという構図になっているのでしょう。
私は、この構図の生地に「哀しみ」が塗り込められていると想像します。
この想像力こそ、
「美」を嗅ぎ取り、さらには「美」を創り出す意欲にもなるのだろうと考えています。


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『資本主義からの逃走』
 *「歌を忘れたカナリヤだったのかもしれません」*


   


     12月 17th, 2009  Posted 10:00 AM

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デザイン界と建築界は、
歌を忘れたカナリヤだったと、つくづく思います。

● まず今年のデザイン界で、
「やられたなー!」と思う作品=製品は、
ほとんど、まったく見つけることができませんでした。
展覧会も、あいかわらずの「形式」で「ごっこ」です。

● 建築界は、世界コンペで勝つことができません。
コンペで勝てる建築家は限られてしまっています。

デザインは未だに「かたち造形」でしかありません。
「かっこいいかな的」なモノは「玩物志向」です。
だから、ケータイも、家電も、情報機器も、
アジアからはあまり警戒も、尊敬もされません。

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●「歌を忘れた」というのは、
「実装設計と素材設計」にデザイナーの主導力無しです。
実装もこだわりました、なんて言うのですが、
みすぼらしくてとても評価できません。

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建築は、コンペに勝てないから、
日本の建設業が関われない、ということになります。
設備設計も敗北し日本製品でその建築は装備できません。

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結局、「都市計画」が「環境デザイン」という
とても救いがたい名称に変更したことが大失敗なんです。
かくいう私は、といわれそうですが、
今年は間に合いませんでした。

来春・来夏・来秋に、「成果」=「歌」が唱えるでしょう。
実装設計・素材設計・都市設計に来年は、
日本だから、やっぱり「出来てしまう」ことを
証明しないと、この不況からは脱出できません。
精進と修練の成果をめざしましょう!


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