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Posts Tagged ‘正義’


6月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 9th, 2020  Posted 12:00 AM

6月9日 先負(癸未)

『文学としてのデザイン』

「かたち」の持つ機能性、経済性、社会性が
見事にデザイン意図されているという
評価が、デザインの正義であった時代は、
いま終焉の時をむかえている。

artificial heart:川崎和男展


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2月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 28th, 2015  Posted 12:00 AM

2月28日 乙亥(仏滅)

喧嘩には、正義ではなく、
正直な正当性だけがある。
それを正義とは呼ばない。
この意義を、
日本は、日本人は
明確にすることが出来ると
私は、確信している。

この確信が
喧嘩師の第一条件である。

川崎和男「喧嘩道」


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12月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

12月17日 壬戌(大安)

善悪を知り尽くすことなどは
無用である。
なぜなら、
性善説で、生涯を生きるなら、
正義を常に
自分の行動理念にしているからだ。

川崎和男「強い人間弱い人間」


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10月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 25th, 2014  Posted 12:00 AM

10月25日 己巳(仏滅)

嘘つきは成敗すべき喧嘩相手である。
この決定は正義である。
したがって、
嘘つきへの成敗は
武力行使で、まったく構わない。

この武力行使を暴力と呼ぶことは
嘘つきである。
だから、
成敗の喧嘩すべきである。
この武力は暴力ではないということだ。

川崎和男「喧嘩道」


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『ソーラーパネルは制度で大誤解をあたえその真実が歪んでる』


   


     10月 23rd, 2014  Posted 12:00 AM

太陽電池=ソーラーパネルが再生エネルギーという期待感は、
大間違いだと言うことがようやく、制度廃止で決着がつきました。
私は、最初から、まず再生エネルギーという語彙の意味が不明、
なぜなら、エネルギーを電力だけに閉じ込め、
さらにまだソーラーパネル自体が生産・設置・電力確保など無理で、
エネルギーは永久保存の法則は無い、このことを主張してきました。
電力会社がその電力を無知性で買い取るという馬鹿げた制度を拡散、
これは詐欺行為になってしまったと言っていいでしょう。
私は住宅や企業の屋根にソーラーパネルを見るとき無念でした。
みんなが欺されているということです。だから設置されたパネルは、
メンテナンス会社で常に修繕を余儀なくされていました。
そのメンテナンス企業自身は決してソーラーパネルには依存無し。
私はソーラーパネルそのものの科学的な存在性を総否定していません。
ソーラーパネルが現在の技術で使用出来るのは住宅や企業ではなく、
たとえば、通信衛星や面積での発電量が25%でOKなる使い方のみです。
現政権は、いわゆるソーラーパネルバブルに決着をつけました。
すこぶる正当な判断です。これを原子力発電依存性拡大だとか、
その代表政治家を葬るバカ連中の知的な覚醒を促したのは正当です。
私は、ソーラー発電なりの重要性は知性的に全く違うと指摘します。
どこでもソーラーパネルと言っている成金の低レベルさに呆れ果て、
私はもう一つ風力発電も再生エネルギーという無知性さも同等です。
太陽から、風から、電力を得る方法のもっと科学性を望みます。
無論、原子力を現在のままの再稼働賛成でもありません。
原子力発電をプルトニウムからは引き離すべきと考えています。
そして、原子力工学によって再度、ソーラーも、風力も、
最適な発電実務の技術開発が根幹であると考えています。
そういう意味では、ソーラーパネルでの電力買い取り廃止の決定は
まったく正しかったと賛同します。
つまり、現状ソーラーパネル技術の詐欺的制度の解消は正義でした。
風力発電も私は必要だからこそ、現状技術の見直しを願います。

「太陽光発電は相当疑問?・・・」
『「ふくしま」だから未来と絆で、夢のプロジェクトとは?!』
「神話・寓話・童話にエネルギーは無い」


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「蚕は自然・遺伝子操作の繭は『反自然』か」


   


     3月 4th, 2012  Posted 12:12 AM

アーティスト・角永和夫氏の作品「SILK」は、
自然と反自然を提示しています。
ここから私たちが学び取ることは、自然と人工の問題です。
文明=飢えと寒さへの人間営為は、
自然への人工的な制御技術の獲得でした。
人間が自然、その総体である地球環境で
生き延びるためには「自然」から科学を
そしてその具現化としての技術を進化させてきました。
結果、この作品が見事に提示してみせた人工とは「反自然」であり、
蚕が遺伝子操作によって平面繭を「美しく」吐き出して死を迎えます。
しかし、その労働を終えた蚕は産業廃棄物になり、
地球環境には戻せないという現実問題と直面したのです。
「反自然」=人工とするなら、
人工の成果は廃棄物になっていくことが決定しています。
それは地球に在ってはならない存在を生み出してしまうことでした。
自然と人工に循環という理想型を人間は未だに準備できていません。
これが現代の文明を呪縛し包含し解決不可能=アポリアとして
人間界を閉じ込めています。
この作品は、蚕と繭です。
この作品が自然保護団体から「反自然」と誹謗されている構造は、
「反原発」に重なります。
「反」を唱えることはアポリアを全面肯定している正義性に見えます。
が、人間が生きることを全面肯定するには、
「反」を掲げた問題設定では解決はありえないと私は考えます。
人類にとって、原子力・放射能に対しては、
「反原発・脱原発」・対・「原発推進」の構造ほど
アポリア全てを、実は、同一次元で全肯定しているのです。
原子力・放射能への「反原発」だけでは、
自然との調和などは智恵不足に他なりません。
自然との調和などありえないからこそ、
もう祈りにも通じる智恵が絶対に必要不可欠です。
人間は、生から死までを真剣に受け入れて
「生きがい」をもって自然なる死に至らねばなりません。
「反原発」というシュプレヒコールでは問題解決不可能なのです。
私は原発推進派と誹謗されていますが、
そんな立ち位置にいるわけではありません。
人工物・自動車による交通被災で歩けなくなり、
人工物・ICD=除細動器で心臓を護り抜いています。
私は、「反原発」ではなくて「範原発」です。
この根本は、「範自然」観を
デザインで創出することだと考えているからです。

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「自分に何ができるかという死生観」


   


     7月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

時代は常に変動。
その時代の変動が社会を変えます。
社会が変わると日常性が影響されます。
しかし、日常性が影響を受けているかどうか、
そのことには意外と気づかないものです。
ある日、時代の変動が自分を襲っていたんだと思うのです。
ところが、自分が被災すれば、
時代や社会に関係なく日常性すべてが一新されてしまいます。
その代表例が病気です。
私は車椅子生活を余儀なくされ、結果、いくつも病気になりました。
その都度自分を励ます意味で病気とは言わずに「病」と言ってます。
したがって、天災であれ人災であれ、
これは時代も社会も病気になったことに等しいのです。
私は交通被災ゆえに人災でした。
人災は、持っていくところさえない怒りがあります。
しかも自分への怒りになってしまうほど自分自身を傷つけるのです。
今、被災地、被災された人たち、特に自分は助かっても、
家族や友人や知り合いを亡くされた方たちを見ていると、
きっと自分を責めているのだろうと推測してしまいます。
この哀しみが彼らを包み込んでいることに気づきます。
この時代を日本人は共有しなければなりません。
共有すべきことは、共時性と哀しみです。
そして被災地の哀しみを分配することが可能なのかどうかですが、
これは絶対に不可能です。
不可能ゆえにさらに日本人みんなの怒り、私自身の怒りも、
その解消が出来ない問題解決の前に立たされているのです。
義援金を送る、ボランティアになる、政府を攻撃する、
なんとか自分に出来ることを懸命に考える。
私はこのすべてが日本人としての今の「正義」だと思いますが、
問題解決をし終えたという「解放感」は手にすること不可能です。
私なりにこの正義の一端を果たしたいと思っています。
したがって、この正義のためには、
ひとまず時代と社会を変動させる事が何であるのだろう、
何が時代を、何が社会を、
これは日本全体がそれこそ放射能に汚染されていて、
「病」どころか「死」すら見えているという現実感を共有すること。
これは哀しみを超えて「悲しみ」がやってくることに等しいのです。
余命は明確です。
それは自分が生きている限りの時間に等しい事だけです。
つまり自分の余命時間内に自分に何が出来るかということでしょう。
あらためて自分の無力感と対決しています。
やはり、耐えきれない哀しみと悲しみをみんなが共有している、
これだけは人間として、生命が平等に持たされていること。
日本人は伝統的に、この平等認識に死生観を持っていたことを
あらためて自覚させられたということなのでしょう。

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12月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 25th, 2010  Posted 10:00 AM

12月25日赤口(己酉)

「制度」に対する反権力、
反権威主義的主張という
一方的な意見がまるで
正義のように語られているだけだ。

能無しの論議に過ぎない。

『デザイナーは喧嘩師であれ』事代主神


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『資本主義からの逃走』
  「用間=インテリジェンスの核心、その操作効用」


   


     9月 23rd, 2010  Posted 1:07 AM

二つの用間フィクション
私は、資本主義は終焉していると考えています。
だから、情報は情勢報告、すなわちインテリジェンスであり、
策略・謀略があまりにも見事な「情報化社会」だったということです。
それは国家市場主義であり、一党独裁、
大衆をあたかも情報操作で資本主義とみせかけているものかもしれません。
となれば、資本主義そして自由主義、それらを裏付ける民主主義の否定論理が働いています。
これはフィクションと考えてください。
なぜなら、ここには私が創作しようとしてる二つの矛盾仕掛けがあります。

一つ目は、私自身、資本主義・自由主義・民主主義には大きな疑念を持っているからです。
自由主義という情報操作が、あたかも民主主義を理想主義の上位概念にしてきました。
それは本当に正しかった=正義だったのだろうか、と考え込んでしまいます。
自由主義は拘束主義を、自由主義保全として正当化しています。
自由主義に裏付けられている平等主義も、明らかに社会差別を制止することはありえません。
民主主義を防衛するための戦闘=暴力行使への異議申し立ては当然の事実として
現代史をつないでいます。

二つ目は、以上のことをそのまま、新たな社会主義としての国家的な統制論としています。
それは民主主義的な資本主義ではなくて、あたかも資本主義的で自由経済性的な策略操作です。
さて、私のこのフィクションが、現代日本を取り囲んでいるのかもしれません。
だとするなら、情報=インテリジェンス=用間の戦略論がとても活性化している、
こうした想像力をあなたも持っておられるでしょうか?、ということです。
わが国の「情報」=インフォメーションから隔絶してみる必要性を
このフィクションに託しておきます。


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1月17日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 17th, 2010  Posted 9:00 AM

1月17日 友引(丁卯 )

国家は常に国際関係での立場に
縛られている。

そのため、
本来ならば国家が何をおいても
守護すべき個人を犠牲に
することになる。

その犠牲は、
国家の正義という大義名分により
受容されてしまう。

『デザインの極道論』あやしい


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