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Posts Tagged ‘武力’


『アフリカ向けのワクチン2接種開発・PKD』


   


     3月 17th, 2022  Posted 2:00 PM

私は「Peace-Keeping Design」を訴求してきました。
研究や制作だけでなく美術館やイベントでの展示を重ね、
その展示は「WIRED」で掲載されました。
あれから随分経っています。
Peace-Keeping ForceもPeace-Keeping Operationsも、
どっちも武力、軍事の背景がありますので、
私は「PKD=Peace-Keeping Design」を提案しました。
本来は「ワクチンを二種、開発」、
注射器もその検査用具を発明。
その直後に「エボラ出血熱」で人類の医学対応が
不可能になりました。
研究室では世界コンペに検査システムの提案7項目を
応募したのですが、
当時はデザインコンペに医学領域の判断は
「難しくて分からない」と主催の英国で言われました。
世界の工業デザイン界は以前、「その程度」だったのです。
デザインと生理学を大阪大学院研究室では
早くから「取り組んでいたのです」。
私は本当に思いつきが早い、行動が早い、
そして周りを巻き込みます。
平野元金沢美大学長と澤 名誉教授でPKDの発表会で、
大使や領事を招待してやりました。
世界のID界でも私は発表をしましたが、PeaceーKeepingが
まざまざと難題である現実に向き合っています。
「Peace-Keeping Design」を掲げることで、
COVID-19・パンデミックから、
ウクライナの「プーチン戦争」までを
私は予測していたのかもしれません。


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11月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

11月17日 壬辰(先負)

喧嘩は戦争ではない。
喧嘩には武力が必要だ。
しかし、
戦争の武力=武器ではない。

喧嘩の武力とは、
策略、
デザインである。

川崎和男「喧嘩道」


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11月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 16th, 2014  Posted 12:00 AM

11月16日 辛卯(友引)

喧嘩には、
絶対に潜ませてはならないこと。
それは、三つあります。
「暴力性」
「陰険性」
「謀略性」、
この三つである。

よって、
暴力性には武力を行使し、
陰険性には、正当性を主張し、
謀略性には、無視か、
もしくは、さらなる謀略性の実現である。

川崎和男「喧嘩道」


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10月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

10月28日 壬申(先勝)

暴力を防御するのは、武力行使である。
したがって、
暴力と武力が同一ではない。
大きな錯覚は、
武力効果が暴力に屈した場合、
暴力の増大性にあたかも屈している、
その判断が待ち受けていることである。

つまり、
暴力を防止するだけの武力は
常に成敗手法としての効果大が必要である。

川崎和男「喧嘩道」


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10月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

10月27日 辛未(赤口)

武力と暴力の差異について
敗戦国家の自虐史観は
徹底的に議論と定義、
その実行が語られるべきである。

武力は成敗するには不可欠な喧嘩手段である。
私は、武力の正当性と正義性を
身体的にも鍛錬が必要だと考えている。

川崎和男「喧嘩道」


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『ロシアでの冬期オリンピックに象徴されていたこと』


   


     2月 9th, 2014  Posted 12:00 AM

国家には明らかに言語の統一力だけがあるようです。
まず、一つの国家の中に多言語が一つに統一されて、しかも、
イデオロギーの対立が武力でのみ押さえつけられている国家。
「ソチ・オリンピック」を見続けてしまいました。
私がとても気になっている国家物語りのストーリーづくりでした。
国家歴史を「交通」で統合化し、
それはトロイカからロシア鉄道、大戦後の道路交通、
そして宇宙開発・ロケットと青い地球でした。
とても見事だったと思いますし、私が最も留意していたソ連確立、
それはロシア・アヴァンギャルドと赤い色の使い方でした。
あたかも平和の象徴であるスポーツ祭典は、
完璧な大軍事力でテロリズムを押さえ込んでいました。
スポーツが平和と直結しているという幻想の背後には国家権力、
すなわち、強大な軍資金と軍事力が宗教イデオロギーの方向を
今は確実に押さえ込んでいますが、
多分、言語の違いと宗教の対立をこの期間だけは、
封じ込めることができるかどうかです。
私はせめて有能なスポーツ選手達の生命は監護してほしいです。
平和の象徴という幻想の背後に、
いつまで「大人の事情」がありつづけるのでしょうか。
全世界に、これまでの経験を越える寒波が訪れています。
この祭典と同時刻に、またまた震災地には地震がありました。
人には「感激と感動と感謝」が備わっています。
そして現代社会で「感激と感動と感謝」この三つが体現出来るのは
スポーツ、その最大のイベントに集約されています。
それだけに「感激と感動と感謝」をたとえ幻想でも、
この幻想国家の軍事的な象徴の中で隠されているべきでしょう。
ロシアに至るまでの「赤い歴史」の裏側=軍事力と
平和=スポーツのバランスこそ、現代の意味そのものなでしょう。

【ブログの関連記事】
「デザイン史の講義を語るにはロシア・アヴァンギャルドから」
『端的な社会制度の具体的な改善が必要』
「デザインから『ちの理想主義』は創出できるだろうか」


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・4」


   


     4月 3rd, 2010  Posted 3:07 AM

Energy
仕事量とか、力の総称という意味は、
紀元1世紀頃だったという記録があります。
エネルギーの概念がまとまったのは、19世紀でした。
20世紀の極限的な破壊装置を稼働し、
戦争回避の抑止力を、エネルギーの極点としました。
それこそ人類がたどり着いたエネルギーの象徴でした。
現代では物質や物質系の能力の総称ではありません。
情報の力やその影響力までをレトリックとする言葉です。
このレトリックに政治バランスを思想化しつつ、
その賛否論に情報操作させるエネルギー論があります。
マスコミはこの問題に無関心という関心さで情報操作を支援しています。
それは駆動や発動や電動までの源泉=原動力まで意味しています。
したがって、その原動力の総称から、
発電体系によっての原動力という意味に収束させることが出来ました。
私が、「物質」・「情報」・「エネルギー」という三つを
資本アイテムとすれば、
エネルギーは、発電・電送・蓄電の総仕事量の原動力です。
資本としての原子力
そうなれば、
資本として、今世紀、エネルギーは「原子力」に焦点化できます。
この資本は、国際関係論の具現的な「武力バランス」という、
エネルギー独占やエネルギー制御と分配から、エネルギー開発技術力です。
その行使能力への制度設計=デザインが不可欠です。
「原子力という資本」、「資本としての原子力」を論ずることになるでしょう。
非難と全否定
ところがひとたび「原子力」となると、
議論以前に非難と全否定論が集中します。
「原子力」は「原爆」というとてつもない人類破壊装置なのです。
まして、日本はその「被爆国家」として、
ヒロシマ・ナガサキの体験から逃れることは不可能です。
私は、「原爆」技術と「原子力」技術は、一卵性双生児であって、
むしろ「平和利用としての原子力」という言い方には、
ある種のアリバイ的逃避と回避を嗅ぎ取ってしまいます。
さらに卑劣なのは、「原子力」には一切触れない、
これこそ、原爆幻想・原爆真実、両方へのトラウマ、
それを言い訳とした、「生」義務放棄だと裁決すべきでしょう。
このトラウマも幻想とは認めない、いわゆる非難反対派には、
厳然とした「知見知識力と公明な判断力」の欠如、
無知蒙昧さを指摘しなければならないでしょう。
私は、たとえば、風力発電、太陽光発電を
一つの良識としては、完全に認めます。
が、これらは単純な良識であって、良識以上ではありません。
APORIA
「原子力エネルギー」という資本への問題解決は、
現在の「生ある人類の責務」認識と考えてきました。
だから、この大問題解決は、
アポリア」から解放させるエネルギーが必要です。
これこそ、レトリカルなメタファーという知恵だと考えます。
原子力問題をアポリアとすることこそ、人類の原罪かもしれません。
確かな頭脳集積での問題解決は緊急的な必然です。
その必然性を直視して、
国際的な制度設計のコンセンサスとコンプライアンス策定も
緊急的な問題解決が希求されていると考えるべきです。
この緊急的な希求性を「知的判断」するためには、
物質的な「原子力要素」と、情報的な「原子力要因」という、
科学と技術の両知識の習得が必要です。
エネルギー開発とその存続への「原子力」非難者と全否定論者には、
やがて、習得放棄での空無性こそ、
自己の「生」放棄であることが自明となるでしょう。
上記の論述への非難は、
私否定という「原爆」でもあるのです。


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