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Posts Tagged ‘死別’


「母と死別して45年も過ぎてしまいました」


   


     6月 5th, 2015  Posted 12:00 AM

母と死別して驚愕の45年目、母の命日でした。
これほど私が母と別れて45年も生きるとは思ってもいませんでした。
私が21歳母が47歳でした。だから私は47歳で大学人にもなりました。
私は当時は一人っ子でおそらくわがまま放題に育ってきたと思います。
食べ物の好き嫌い、すぐに喧嘩早くって、殴り合いばかりしてました。
医学部を目指して浪人していましたが、
母は、
「ドクターには向いていない。赤い血を見るより赤い絵の具が楽しいよ」。
美大時代も大学を卒業したら、ふるさと福井の短大で教職にというのも
母の側に居たかったからだけでした。
大腸癌で彼女は逝きました。
父は「大学を辞めて全財産を母の医療に使っていいか?」と言われて、
私は「いつでも大学は辞めて、母を生き延ばしたい」と答えていました。
手術後1ヶ月というのを、父は当時、彼のルートで6ヶ月母を看病しました。
ドクターが「今夜が最期でしょう」というのを覚えています。
母の隣で添い寝をしました。
母が透き通ったまなざしで私を見て、
ちょっと笑って、一筋の涙を流して逝きました。
私は嗚咽を堪えて、しっかりとしがみついていました。
その声が聞こえて、隣室に居る父やおばたちが、起き出して叱られました。
「どうして起こさないの?」と。
私は彼女にしがみついて誰にも彼女を見送らせたく無かったのです。
私は彼女の一生の21年間全てが私のものでした。
母は死の10日前に私宛の遺書を残していました。
「世界でもトップのデザイナーになりなさい!」と。
美大に入学した時に、ブレスレットと指輪を買ってくれましたが、
父は男が指輪やブレスレットなどしていないのに、何も言いませんでした。
「デザイナーだったらいつでも気障な男でいいから」と言われました。
田舎で私のファッションは奇天烈なことを母は歓迎してくれていました。
今、私は赤い絵の具も赤い血も見る立場にいます。
現在の私なら、
彼女に可能な限りの医療を施すことが出来ると思っています。
母の存在は、私の年齢とともにますます大きくなっています。
報告したいことが今年もいっぱいあり
それなりに精進してきたと思っています。


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『4年ぶりの金沢、駅のホームで・・・』


   


     5月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

東京でインテリアデザイナーの森田恭通氏と夕食。
彼のデザインした有名なレストラン、話はどんどんと拡大しました。
いつも帰阪時に伊丹行きジェットで出会ったり海外で会う偶然の仲。
翌朝、北陸新幹線「かがやき」乗車、
新幹線列車は、このデザイナーの苦労がずっしりと分かる。
「柳宗理生誕100年記念」で、私は先輩同輩からの指名で、
使命として、先生の作品と先生の私流の作品から学んだ思想、
先生との思い出を話して、母校=金沢美術工芸大学の伝統と未来、
「これからのデザイン・コンシリエンスデザイン」を話ました。
翌朝、伯母が100歳で美しく眠るように逝った話が入りました。
大往生ゆえ、仕方なかったけれど、従兄弟の心情が急に心配。
彼に電話をして、福井に寄るべきかを確認したら、
設計図どおりだったと極めて冷静で、エンジニアらしさに驚きましたが
全て終わったとか。私と彼とでは故郷では言い出せないからこのままで。
従兄弟をこの春から大阪大学大学院の招聘教授に迎えていました。
この話は、伯母はとてもうなづいて聞いたよ、と。
彼は、宇宙工学・信頼安全性工学の権威であり、
彼がヒューストン駐在時には宇宙ステーションの設計をしていました。
だから、彼の仕事場と住居も訪ね、今や私の危機解決学を
招聘教授として相談をかけ、支援をしてもらっています。
今はJAXAから関連企業の社長を務めるけれども、
ロケット発射ではいつも海外に出張、JAXA関連を教えてもらっています。
私は47歳の母と死別したけれども、年毎、母が恋しくなります。
従兄弟は、覚悟を決めていたとはしても100歳母と別れて、
「大きな虚脱感がある自分に気づいている」と言っていました。
「いや、虚脱感は必ず、母恋しさ、今ならこれを母に出来る」とか、
私は彼に先輩ぶった話をしていることに気づきました。
母が危篤と言われて、福井帰郷のために、駅のホームにいた、
あの当時の思い出が一遍に襲ってきました。
もう、金沢は私には遠い存在の街になっているなー、
おそらく北陸新幹線には乗らないだろう、と思った次第でした。


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「泣くということ・喜怒哀楽の基礎感性行動」


   


     1月 14th, 2012  Posted 12:00 AM

基礎感性行動、なんと大げさなタイトルでしょうか。
しかし、「泣く」というのは最大に重大な行為です。
正直、大泣きしたのは幾たびかあります。
母との死別。
車椅子訓練のつらさに耐えがたくて恋人の前で。
大学人になって悔しさでどうしようもなくて。
これが大泣きせざるを得なかったことです。
母との死別は、独りっきりで河原で大泣きしました。
車椅子になるという医師からの宣言では決して泣きませんでしたが、
当時、恋人の前ではリハビリトレーニングが苦しくてつらくて。
大学人になってからは、恩師に電話口で、
この恩師はもう逝かれてしまいましたが、
最近も、もう唯一の恩師の期待に応えられなくて、
還暦も過ぎたというのにこれも電話で泣きました。
子供の頃は、「泣いて帰ってくるな、
男子は泣くな」と教えられていましたから、
それはどこかで泣いて帰宅したことがありました。
「涙壺」、これはアラブ地方で、
兵士になった夫の帰りを待ち望んで、
妻がこれだけ泣いて待っていたというシンボルのオブジェです。
私は、「喜怒哀楽」はきっちりと
人生を四等分している感性だと思っています。
だから、喜んで、楽しすぎても泣きます。
無論、大声で笑いこけます。
同様に、怒り狂っても笑えて済ませることができます。
つまり、「笑うこと・泣くこと」これは人間感性、
いや感情の表れです。
「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」という心理説もあります。
今、日本は「泣きたいほどの苦境にあります」。
だから早く「笑える日」になってほしいのです。
泣くことを強いられたら、笑い飛ばせる自力が必要です。
そのためには、喜怒哀楽と泣く・笑うを対照的にできる感情制御が
感性を鍛えてくれるでしょう。
感謝のあまり、涙が流れること。
憤りが過ぎて、涙が流れること。
涙と泣くという感性の構造を
自分の心の一番大きな引き出しにしたいと思ってきました。
心の表情が、泣いたり、笑ったりすることだと思っています。
心が折れそうになることなんて、日常的に襲ってきます。
だから、自分を鍛錬するには、泣く・笑う、
これは、感性を行為化する基礎だと思っています。

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「資本主義からの逃走」
 「喜怒哀楽すべてに『痛み』あり、母の形見」
  


   


     2月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

喜怒哀楽の痛み
私はある日突然、障がい者になりました。
交通被災直後、手術麻酔覚醒直後はじめ、
ともかく病院で、命を限界で支えているときの
身体的・生体的な痛み=苦痛は耐え難きものです。
痛い経験なんて生まれてから数え切れないほど体験するはずです。
にもかかわらず、損傷した部位の痛みは天候季節、
さらに精神的に自分を確認しなければならないとき、
その『痛み』は激痛を超えるほどのものです。
しかし、生体的な痛み以上のものが、
喜怒哀楽すべてに潜んでいます。
どんなに考え込んでも、最も哀しいことは死別です。
痛みを識るという母の形見
私は、被災後、自分が激痛のときになんとしても置き換えてイメージしていたのは、
癌で苦しんでいた母のことでした。
47歳で逝ってしまった母は、
当時、腸捻転で腹膜炎の疑い程度ということで手術を受けました。
そして開腹したらすでに消化器系すべてに癌はひろがっていました。
手術室に呼ばれた父が卒倒し、今度はすぐに私が呼ばれて、
ドクターは胃から小腸までを両腕で抱き上げて、
「手遅れだから、このままで縫合する」と告げられました。
この時の場面を思い出せば、
『痛み』は二重になりつつもかき消されたかのようになります。
喜怒哀楽の痛みから確認すること
人は、喜怒哀楽が生涯に連山のごとく高低ある振幅に乗せられ揺すぶられ、
時には、喜びにも楽しみにも『痛み』は潜んでいます。
当然、怒りと哀しみの『痛み』は、自死を決意しようというほどのことも起こります。
そして、この喜怒哀楽は、各自だけの同一性、その確認に密着しています。
つまり、『痛み』は自己の存在性、その確認に直結しているということです。
障がい者になって、たった47 年間の生涯、
その21年間を私に与えてくれた『痛み』から学んだ「母からの形見」です。
私は、同一性の確認とは、
喜怒哀楽すべてにある痛みを識ることに尽きると確信しています。


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『資本主義からの逃走』
   「感激と感動の私の基本は哀しみの『美』です」


   


     6月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

喜怒哀楽
私は、感激・感動は、感覚的な認識であると考えてきました。
そして、具体的には、スポーツが刺激要素となって、受け止める感激。
音楽が刺激要因となって、蓄積されてくる感動をあげました。
さらに、そうした感激が「反射的」であり、感動が「反復的」、
そして、その反射性も反復性も相互性や,があるのではという見解を示しました。
そして、反射的であれ反復的であれ、感激し感動すること、感動し感激すること、
この感覚が「想像力」を育成してくれること、
「生きがい」というのは感激と感動無しにはあり得ないと確信しています。
人間は、生きることが死んでいく道程であることを熟知しています。
人間の生涯には、「生老病死」と「喜怒哀楽」が重層しているのです。
「喜怒哀楽」に感激と感動が介在しているわけです。
では、その「喜怒哀楽」を最も根本で支えていることは、
何なんだろうと考える、あるいは思うと、
私は「美」を感覚的に受容できることがとても大事で大切なことだと信じています。
母との別れ
私にとって、もっとも哀しかったことは、
「母との死別」でした。
40年前のことです。
母の瞳が、とても透明になって、一筋の涙が流れました。
私は母と添い寝しながら、小さな声で、呼びかけていました。
父や親戚が隣の部屋にいましたが、一人で見送りたかったので、
こみ上げる息もつまりそうな声で呼びかけ続けていましたが、母は逝きました。
47歳でした。21年間の母の生涯は私が独占していたと思います。
まさに、母のあれほど透明な瞳より美しいものには出会ったことがありません。
ちょうど明け方でした。近所のお寺の鐘の音が聞こえていました。
「死別」は感激であり感動だったのだと思います。
「美しい瞳」と「鐘の音」は、私にいつでも「反復的」に思い起こすことが出来ます。
そして、母の瞳の透明さに、私の「美」の基準があるのです。
デザインは「美」を追いかけています。
私は、「哀しみ」の感激と感動の中に「美」を身体化したのだと思ってきました。
母が与えてくれた哀しみの感激と感動は、
当然、母へのとめどない「感謝」になっています。
だから、私は自分の「生きがい」に、
母のあの瞳のごとくの「美」を、デザイン表現で追い求めてきたことです。


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