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Posts Tagged ‘民衆主義’


「最大の国難とは・・・」


   


     6月 6th, 2011  Posted 12:00 AM

議院制民主主義が見えない。
これが今最大の国難です。
革命などは時代遅れでしょう。
そしてわが国では不可能です。
しかし、大震災津波・原発事故。
わが国は戦後最大の危機です。
無念ながら、国政・現政権への期待は皆無です。
私たちが革命など起こしている場合でもありません。
それなら、新たな「地方独自」の体制創出が必然です。
福井大震災時に「条例」という地方から、
その地方行政においてのみ有効な法案が可能です。
東京・現政権は政党政治のみ議院制になっています。
知事会・市町村の首長、特に被災地の知事と市長村長、
そして専門官僚で、この事態からの救済と復旧です。
もはや、議員制民主主義での国政では、
日本自らが鎖国し、国際関係から離脱し、
日本は地球上で破滅し破壊しボロボロになって、
漂流しなければならない事態になってきました。
被災地には、大都市からの行政支援が知事指示によって、
被災地行政にあたっています。国政には出来ない事です。
それすら現政権は権力を纏った妨害装置になっています。
今の日本に国政はまったく不要なのです。
やはり、市民運動家から生まれた首相では、
全くその指導力・リーダーシップは無いのです。
私は市民運動家が民主主義を破滅させ、
民衆主義を拡大させたと判断しています。
よって、今わが国の国難とは、
議委員制民主主義が破滅してしまったことです。
しかし、被災地救済復興と原発事故復旧は
緊急事態であり、その指導は「条例」によって、
相当のスピードで展開させなければなりません。

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『資本主義からの逃走』
    「2010年・行学の支障たる民衆主義に決別を」


   


     12月 30th, 2010  Posted 12:00 AM

民衆主義の中のデザイン
一所懸命に向かい合ったと思います。
しかし、自力では無理難題に包囲。
賢明さだけでは解決不能が多発しました。
ということは、あまり懸命さと賢明さが不十分。
この不十分さを自分に押しつけることは辞めました。
こうしたことはワイフからのアドバイスで助けられました。
それでも肝心の「造形」というデザイナーの解決成果だけは継続させられたと思います。
未だに現役でデザインテーマも自分で設定し、
地道・蓄積・修練・研磨だけひたすら続けられたことは「幸運」だったと思います。
しかしこの一年、日本全体の不景気感は、デザインへの巨大な重力になっています。
これはすべからかく、「政治」がまともでないこと、
そのような選択をしている根本的な民主主義が民衆主義に覆い尽くされていることです。
したがって、本来、人間社会、世界的賢明さの歴史観が築いてきた「民主主義」の誤り、
それは「情報」で歪められる脆弱さと「情報力の巨大さ」です。
民衆主義を民主主義と勘違いしている現代世界観を覆す必要性がある、ということです。
「政治」がなぜ駄目なのか、この根本についての討議は民衆主義の中で融解しているだけです。
民衆主義に融解していく民主主義をつきつめていくことが、
いわゆるグランドデザインだと考えます。
来年のテーマの一つです。
その解答も「解決というかたち」を造形したいと思っています。
今年の実例で考えると、「なんとかデザイン」、つまりデザインの形容、
すなわち、デザイン職能の専門性と詳細性を決定する「なんとかデザイン」、
そのものをデザイナー自らに曖昧性と混乱性が増えていることです。
これも民衆主義的な中でデザインが語られることが頻発しているからでしょう。
特に、産業とデザインの関係性が、文化とデザインの構造化になかなか進化していません。
これが最も明快になったことです、これを来年のテーマにします。
つまり、民衆主義と民主主義を分別することです。
それは民衆主義も民主主義も両軸がもはや不要であることを、
「デザインの本質」に持ち込みたいということに他なりません。
これは今、わが国の存在、わが国に「生きる日常」すべてを皮膜している現実問題だと考えます。
民主主義を離脱するために、民主主義からあらたな主義を創造すること。
その根本が民衆主義に委ねきっている私たちすべての意識改革だと確信します。


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『資本主義からの逃走』
  「資本主義で民主主義を防衛している大きな錯覚」


   


     1月 6th, 2010  Posted 8:00 AM

錯覚

民主主義は、近代市民権で最高かつ最大の理想主義?。
私はそうは思っていません。
民主主義はある意味では、
「無血革命」での勝利成果なのでしょうか。
そうだとするなら、
「革命」は、民主主義の体制下では不可能だと思います。

だから暴力的な「革命」を私は望んでいるわけはありません。
なぜなら
「革命」と「革新」は、まったく意味が異なっています。
「革命」というだけに、「いのち」がかかっています。
「革命」は血が流れて「痛い・苦しい」はずです。
そんなのは嫌です。
「痛い・苦しい」というのは、
私はどれほど体験してきたことでしょうか。
だから、
民主主義は本来、決して、
痛かったり、苦しかったりでは無いはずです。
ところが、人生・生涯には、痛みや苦しみがあります。
それを民主主義が全て解放してくれるわけではありません。



「革命」の革という象形文字は、解体された獣の皮です。
「ピィーン」と張った「革」に刃物を入れることが、
「革命」・「革新」の「革」を表示しています。
私はもう一度、問い直します。
民主主義は語られれば語られるほどの理想主義でしょうか。
絶対に「民主主義」が大きな隠れ蓑になっていると思います。
その隠れ蓑を補強してきたのが資本主義かもしれません。
そろそろ、民主主義が民衆主義を言い換えている、
その事実をあぶり出す必要が私はあるとさえ思っています。
資本主義と民主主義の狭間に常に起こっているのが「錯覚」。

私はこの「錯覚」を見極めてこそ
「美」・「義」・「善」が、
やっと自分の表現に込められると考えています。

美・義・善


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『資本主義からの逃走』
  「民主主義と民衆主義を混乱混濁させるイノベーション」


   


     1月 2nd, 2010  Posted 8:00 AM

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私の民主主義への疑念は、かねてよりありました。
民主主義の基本といわれる
● 「多数決の原則」
● 「合意形成の制御」
という二つによりかかっています。
けれども私には「多数決」にしても「合意性」にしても、
技術進化による「イノベーション」と、
資本蓄積の配分での「インフレーション」の結果です。
いずれも「社会生理」の反応が、
巨大に関与していることに、
注視する時代だということです。

INNOVATION・INFLATION

私は「イノベーション」と「インフレーション」が、
まさしく「資本主義」の基底キーワードだと思います。
したがって、
現代経済社会の「資本主義」と
現代世界観の「民主主義」は
根底で連鎖しているというこになります。

情報操作による人気という合意

そこで、「イノベーション」によって、
「社会生理」が大きく影響されたのは、
「情報認識」と「情報判断」による「情報評価」です。
その「情報操作」をするのは、コンピューター技術です。
とりわけ、コンピューターはインターネットにより、
マスコミ・ジャーナリズムその表現内容を変貌しました。
その表現内容は「感覚の分別性」を混乱混濁させました。
この混乱と混濁を利用して、
民主主義の多数決や合意性は、
確実に、「権力」で「操作」が可能なわけです。
結果として、民主主権ではなく、
大衆と民衆への「合意」ではなく「人気」が作用し、
民衆の多数意見を集中させる権力構造力になっています。
哀しいかな、日本の民主主義は確実に民衆主義の反映を、
民主主義の意思決定の「場」である
「議会制民主主義」に置き換えています。
日本人は、目覚めるべきです。
少なからず、「イノベーション」の選別の偏りそのままが
国民の分別力を失わせているというのが、私の判断です。
「民主主義」は、「人気の多数決での合意」でありません。


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『資本主義からの逃走』  
*「政権交代は静かな革命だが、
   バランスを崩しつつあるかも・・・」*


   


     12月 29th, 2009  Posted 9:00 AM

日本の政権交代が「静・革命」であってほしいのです。
私はこのことを一市民・一国民として願っています。
しかし、どうみても政治方向の選択は、
革新でもなければ、無論、保守でもありません。
「バランス感覚を失ったまま、社会主義的な政治決定」が
進行しているように思えてなりません。

そして、
そうした傾向に対して、あらゆる専門的な職能も、
大学人もまったく発言もしないのです。
その状況が私は怖いし、
インテリ階層の無責任さを感じます。
あらゆる意味で人間存在への思索において、
バランス感覚を失っているのかもしれないと思います。

四季感覚

日本には、「四季感覚」があります。
「四季感覚」は、
日本人のバランス感覚を育んでくれたのです。
私は北陸生まれなので、冬になれば、「雪」景色が、
ほとんど私の遺伝子から肉体にあると思います。

教え子が訪ねてくれます。
ほとんどが、インハウス(企業内)デザイナーです。
必死に担当分野に取り組んでいます。
彼らの将来を、この国の政治に任せていいのだろうか?
とさえ、思えるのです。
GDPに対して192%の借金国家となっている日本、
とてもあやふやな政治指導、
指導力無能さを国民は断罪もできないのです。
そして、デザイン界での出来事を
若いデザイナーは勘違いをしています。
いい加減になってきた「デザイン制度」は
見限って見ているようです。
さて、教え子のどれだけが、
日本のデザインを牽引していってくれるのでしょうか?

そのためにやはり「理想主義」に政権交代がバランスを
取ってほしいと願わずにはいられません。
私は、このまま「過激さ」を失わずに、
2010年を迎えたいと思っています。

なぜなら、教え子たちの未来、日本の未来で、
彼らの「デザイン」が実現して、
「豊かな国家」
それは、決して「社会主義的な国家」ではありません。
社会主義の過ちは、20世紀末に確認したはずです。


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『資本主義からの逃走』
  「マスカレードとして、ペルソナとして、
  日本株式会社だったのか」


   


     11月 6th, 2009  Posted 10:00 AM

ロシア革命に、日本も相当に荷担していました。
さらに、ロシアを敵対した日露戦争は、
真逆に、
私はソビエト連邦の共産主義を強化したようです。
1917年から1991年にソ連は崩壊しました。
おおよそ75年間の共産主義が終わった、
と言っていいでしょう。

そこで、私の見解は、
1991年12月25日のソ連崩壊は、そのまま、実は、
資本主義の勝利だったわけではない、という見解です。
ソ連崩壊とともに、対峙し対決してきた資本主義も、
終わってしまったのです。

むしろ、なんとか、資本主義では不可能であり、
共産主義では、ある種、
共産主義という宗教観にも似た制度では不可能という
その中庸性である社会主義的な
社会主義性を再考するという思考拡大が
世界観として、資本主義先進国家はできなかった、
ということに気づくべきだったのではないでしょうか。

そこには、
民主社会主義と言ってみたり、
自由民主主義での社会的公平性の不可能さを
世界観が、避けてきたのではないかとさえ、
私は思います。

私は、日本が資本主義を標榜していたのも、
敗戦での後遺症だったと思うのです。
「日本株式会社」は、「社会主義」を隠匿し、
隠避していた仮面国家が、発展したのです。

仮面劇・マスカレードとしての
「資本主義国家・日本」、
だったのではないでしょうか?

あるいは、
仮面・ペルソナとしての
「社会主義国家・日本」、
そのマスカレード・対・ペルソナを
見事に演じた民族性が
連綿としていたのではないかと私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
 「現代アートの象徴性からデザインでの創生へ」


   


     10月 28th, 2009  Posted 10:38 PM

資本主義の崩壊は、1927年に「予見」されています。
それは、「大恐慌」の2年前のことです。
それから20世紀の戦乱となり、冷戦につながりました。
共産主義・社会主義・資本主義・民主主義という
理念の崩壊は、1970年代からだと私は思っています。
なぜなら、時代変革の「予見」は、経済学・哲学などよりも、
「現代アート」にもっもと端的に、象徴されているから、
感覚、感性で「予見」の正当さを理解できてしまうのです。

その「予見成立」の理由は、単純明快にまとめられます。
ひとつ、「南北問題」、とてもなつかしい言葉です。
ひとつは、「宇宙船地球号」。
もうひとつが、「コンピュータ」です。
ともかくこの三つを置き換えると、

● 先進国と途上国の貧富格差とあらたな民族紛争。
● 地球環境問題、温暖化やCO2やサスティナビリティ。
● パソコンとインターネットでの情報意識社会化。

ということになるでしょう。
二つの現代アートが象徴しています。
まず、地球を象徴化した作品と、
tomas-saraceno・Universes in Universe : Tomas Saraceno

人間の生命を象徴化した作品です。
rafael-lozano-hemmer・Pulse room : Rafael Lozano-Hemmer

地球は、まさしくwebsite=蜘蛛の巣のように、
情報に包み込まれているのです。
包まれているのではなくて、
「包み込まれている」ことにこそ、
時代認識の象徴がある。
その時代認識は、
資本主義と民主主義に包まれているのか、
「包み込まれている」のかということは、
大きな差異があるということになります。

そして、
もう一つの、観客である人間の生命をそのまま、
脈拍を電灯の点滅で具体的に感じ取らせつつ、
空間、それは地球でしょう。
そこでの「自己の存在性」を再認識させる作品です。
私は、この二つの現代アートに具現化されている
「包み込まれている」という認識は、
ただただ、それこそ、Bottom of the Pyramidの
トップゾーンの1億人だけが、現代文化として、
平和に、いや平然と受け入れることが可能です。

結局、
「地球に存在、生きているすべて」の人々が、
認識=包み込まれているわけではありませんから、
そこに、資本主義って?、民主主義って?ということ。

「包み込まれているすべて70億人の認識」には、
決してならないとするなら、
Bottom of the Pyramidの根本や基盤や理念は、
再創生されるべきではないかと私は思います。

私は現代アートの象徴性を読み取りながら、
再創生のデザインがあるべきだと考えているのです。
しかし、哀しいかな、現代アートが示しているのを、
理解し、さらに「予見」できるのは、
トップゾーン1億人の中の、一握りの人たちだけです。


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