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「歴史的文脈のエネルギー=原子力の修辞性」


   


     5月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

今、原子力への論争は激烈です。
この論争には脱原発公言が勝ち馬です。
原子力を制御できるのは
爆発条件を付与する想定のみ。
ナガサキ・ヒロシマのトラウマは、
フクシマでさらに原発アレルギーを再発させました。
「安全神話」は修辞性=レトリックに過ぎず、
修辞性という加飾性など剥ぎ取られて当然でした。
2007年、大学人・私の発言を封じ込められた体験があります。
原子力学者達はこの加飾性を認めても私の提言を阻止しました。
結果は無残な現在に至っていると私は判断しています。
ふるさと福井に原発を持つ一人としての冷徹な提言でした。
この現実では歴史の文脈の最下層をみつめるまなざしが必要です。
まなざしは原子力は今なお蒸気機関であることに注視すべきです。
つまり、蒸気機関はその性能によって爆発は当然なことです。
そしてその原料は、森林→石炭→石油と変遷してきました。
ヨーロッパの森がすべからく伐採されてしまったこと、
それから「産業革命」が始まったことは忘却されています。
やがて森林の代替を地下の石炭に見いだし、
新たなエネルギー源の収奪が国際政治地政学の大きな背景となり、
世界大戦の具体的目標は、石炭の収奪だったわけです。
それを論理的にイデオロギーの対立化に見せかけたのは、
「隠喩性という病い」の蔓延だったと私は理解しています。
石炭→石油へと移行していけば産業経済の中心は石油資本に集中。
わが国が石炭→石油ということにおいては、
世界的な孤立を余儀されることになります。
これこそ歴史的な国際政治の強要だったと見ておくべきでしょう。
しかも、国内での炭鉱労働・労働争議にイデオロギー闘争も、
まさに同次元でなおかつ同位相で重なっていきます。
ところが今、地球から枯渇寸前となっている石油は、
天然ガスとなり、石油流通というよりガスパイプの配置が、
イデオロギーから宗教対立と言わざるを得なくなるのです。
この事情は、戦争をテロリズムと言い換えることになります。
石油よりもさらに科学と技術のまさに融合は、
そのままウラン鉱の発見、原子力からのエネルギー変換は、
二つの事象につながっていくのです。
核弾頭という原爆武器と、その使用防止は平和利用と修辞されます。
拡大する電力消費エネルギーとしての原子力発電所建設です。
しかも、宇宙船地球号として合意認識を無視した、
国民主権下での原子力発電所管理は各国家体制に委ねてきた、
人類全ての怠慢性であったことを認めておくべきでしょう。
そして、一方では、ポストインダストリーが情報社会になり、
そのエネルギーの根幹である電力消費は格段に増加していきます。
私は、今、原子力への対立構造を、
あたかも世界市民的管理という
またしても幻想に押しこめようとするの歴史文脈無き思想を、
机上的な修辞として告発しておくべきと考えています。
エネルギーが隠喩性から「神話」という修辞性に置き換えること、
ゆえにヒロシマをフクシマにしてしまったことは大失策です。
しかもこの大失策を「脱原発」へ連続させることは、
エネルギーの歴史的文脈性、その熟読不足と考えざるをえません。

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