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Posts Tagged ‘無名性’


『匿名的な知恵=silienceである』


   


     10月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「Consilience Design」を昨年はKK塾にて紹介してきました。
Consilienceそのものが造語であり、なぜ、この言葉に至ったのだろう。
それは最近では「デザイン思考」があたかも次世代デザインのごとく、
IDEOからスタンフォード大学で語られてきましたが、
自分のミッションは「コンシリエンスデザイン」が成立するかどうか?
この言葉の論理的な脈絡とその実務展開までを
講座成立=教育・研究・開発が可能かどうかでした。
辿り着いたのは、この造語の基本はすでに死語でしたが、
次のような意味がありました。
たとえば、大道芸人の素晴らしく訓練された芸には、何かの芸の核心、
立ち止まって聞き入りたくなるような政治批判、その論理的な知識、
いつかは有名になるかもしれない優れた芸術作品、
きっと、磨き上げればとんでもない宝石になるかもしれない貴石、
すなわち、全く、無名性、匿名性にはほれぼれするけれど、
それは知識というより、アノニマスな知恵だということです。
このsilienceが母体となって、Con+silienceとなり、さらには、
resilience=レジリエンス=強靱な能力までを引き込んでいます。
極めて、日常的で匿名的な、ひょっとすれば大評判となるであろう知識、
それを乗り越えているまだまだ評価はされていないけれど知恵の集合体、
これが「コンシリエンスデザイン」であり、
もう一方では「コンシリエンス看医工学」こそ、次世代が
知識を超えた知恵をデザインと看護・医学・工学へということです。

* 『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』
* 『「アノニマスデザイン」の代表例に選んだモノが消滅』
* 『鉱物学と自然科学が選んできたコンシリエンス』
* 『「不安」が最大なことは被災することである』
* 『silience=無意識だけれども重要な知的核心という解釈』


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『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』


   


     6月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

次世代デザインを提示していくのは、現在デザイナーの使命です。
しかし、現実には、デザイン系大学のほとんどの教員は、
自分のデザイン経験だけを教示しています。
それはデザインの根本に大きな間違いがあるのです。
「デザインとは何か?」を自分の経験だけで、しかも成功体験があれば、
それこそ「何がデザインになるか?」ということには
接近できないからです。
「コンシリエンスデザイン」を提案しています。
その原語はすでに死語化していますが、
探り出したsilienceについて、ここに書きとどめることから
改めて思考の深度に近づいてみます。
silienceとは、
人間には日常、その思考に深さがあることには気づかないことがあります。
たとえば、気づかされることもなく、褒められることも無いけれども、
時には感心せざるをえない熟考された確実で正当な考え方があるものです。
それは、通りすがりなのに饒舌に語られている批判とか、
大道芸でありながらも感心せざるをえない名も無き芸人の大技、
あるいは無名だけれどもすぐれた芸術的な才能に
はっとするようなことです。
これはまったく匿名的で、誰かに賞賛を浴びるものではないにしても、
いわゆる市井に潜んでいる知恵・知識として
見過ごすことができないのです。
silienceということばに近いほど、
沈黙の中に閉じ込められているということです。
こうした、決して光り輝きを自らが発するわけではない、
日常的、匿名的、無名性の中でも、知恵の集合体をあえて掘り出して、
なおかつ、こうしたことを「結合させる」ことは、
konvinationと言ったシュンペンターに繋がっています。
これが新結合=innovationであったことに極めて近い発想論理です。
silienceが結合することは、
隠れた知恵・知識がconsilienceだということです。
デザインが匿名性=アノニマスで支持されたことを再復活させることです。

*『シュンペンターと象形文字を同次元に考える』
*『「KK塾」キックオフはテクノロジスト・濱口秀司氏』
*『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』
*『ベンチャー企業を再考する!・カンブリア宮殿特番に出て』
*『リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う』


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『モダンデザイン源流を自分デザインにしてはならない!』


   


     7月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM

デザイン審査が難しくなってきています。
この難しさとは、デザインのオリジナリティの判断と
デザインされた形態言語としてのいわゆる模倣性です。
今関わっているデザイン審査においても、
若い審査委員は、形態の美しさから、
素直にすでに存在していて無名性なモノ、といっても
デザインの定本的な形態性をデザイン賞候補にしてしまいます。
私はデザイン審査においては、
審査委員長には三つの役割があると思っています。
まず、徹底した客観的な審査委員会であること、
審査委員が正確な美学性や知見、見識があること、
そして、最終決定においては多数決採点で決定しないこと、
こうした三点に対して、全審査委員に反対されても、
最高の裁断、裁決の意志決定を全審査委員に納得してもらうことです。
今回、海外からの応募でこれもノミネートはするだろう、
そんな予測が当てはまってしまいました。
左はシェーカー教徒の創作であり、これはモダンデザインの手本でした。
右はノミネートされた作品ですが、どうみても模倣です。
しかも右作品のデザイナー名は明らかです。
無論、最近は作者没後50年となれば、フリーであることは明らかです。
これを「ジェネリックデザイン」とか呼ぶ傾向があります。
デザイナーは、元のアノニマス性をコピーして、
さも自分のデザインとか、あらためて意匠権を上手く手に入れます。
しかし、この傾向はデザインの創造性、創造性がデザインの本質、
この鉄則を破ってしまうことであり、
デザイナー失格だと私は断言します。
私は、美大時代から作品は暗記させられました。
それはどこかに自分がその形態を言語化して、
そして覚えてしまう恐れを無くす訓練でした。
ややもすれば、自分のデザインでも「ひょっとすれば」があり、
この物まね、あるいは自分デザインで忘れられた
オリジン性やアーキタイプ性を失う傾向があるからです。
かつてアノニマスデザインであった民藝が、
さも簡単に「民芸」となっても平然たるデザインは
絶対に許容してはならないと考えています。


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『「アノニマスデザイン」の代表例に選んだモノが消滅』


   


     11月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

そういえば、かつてある雑誌の企画で、
「アノニマスデザイン特集」というのに寄稿と代表例を出しました。
市販される弁当の類には醤油が魚鯛と呼ばれる容器に入っていました。
私は最もアノニマスデザインの実例として最適だと思っています。
その雑誌の特集でも、私が選んだモノの良い評判がありました。
ところが、最近はタレビンと呼ばれて、形態も単なる、
ミニチュアの形に変わってしまっています。貧しい表現です。
これはもはやアノニマスデザインと呼べるモノではありません。
アノニマスデザインについては、美大時代に、故・柳宗理先生から
徹底的な講義を聞き、それは就職後も先生のセミナーでも受けました。
先生はすでに有名でしたが、アノニマスデザインについて、
それこそがデザインの本質という講義を聞かされました。
正直、私は若いときには、やはり、有名性を求めてきましたが、
デザインの本質ではアノニマスデザインには、問題解決があって、
形態言語には必ず審美性が造形言語=デザイン意図、結果=美、
この方程式が成り立っています。
魚鯛と呼ばれていたモノを見かけなくなってきたことは、
ある意味では、デザインの本質が遠のいているとさえ思います。
今では、少なからず、デザイナー名を商品の背後に求められますが、
もはやそのようなことはどうでもいいと考えています。
したがって、本当は私のデザインであっても、
その企業がつまらない存在であれば、無名性、匿名性にこそ、
私は大きな意味があると思う年代になってきたように思います。
しかし工業デザインという職能そのものが社会的評価がありません。
したがって、そういう意味では、アノニマスデザインでは
モノの存在にデザインの意味性が無くなってしまいます。
その実例に、現在のタレビンでは、デザインは無いのです。
やはり魚鯛こそが弁当の問題解決と審美性があったということです。


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「リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う」


   


     5月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

現在、出版界は相当に難しい時代になったようです。
自分のインタビューが掲載されています。
だからというわけでは無いのです。
が、この著作「リアル・アノニマスデザイン」は労作です。
私もこの本の企画の人たちから、ホテルで質問を受けました。
企画者は、次世代のデザイン評論では定評があった人物。
そして、幾度か、校正もさせていただきました。
無論、私の独断は、「発言すれば問題発言、という風潮」には、
きわめて正直にプロとしての受け答えをしています。
私なら、そこまで言うかもしれないということも重々承知です。
そしてあれからの編集時間を思うと、
これだけの専門家、それも次世代、次・次世代ですから、
デザイン・都市・建築・メディアの担い手に、
恩師であった柳宗理氏の「アノニマス」をキーワードにして、
専門家、それぞれの解釈が述べられています。
私などは、インタビューされた最長老の中に入るでしょう。
編集ではきっと気を遣われたのではと思います。
「アノニマス」無名性、あるいは匿名性です。
「ヴァナキュラー」土着的な全く無名性との関わりを同世代、
ある建築家の意見も真っ当でした。
デザイナーや建築家にとって、それぞれの活動、
その成果としての製品・商品、作品にとってはその存在性では、
作り手の社会的な位置を確認するには、
誰もが悩む大きな問題だと私は思っています。
私は、金沢美術工芸大学入学直後に、
柳宗理先生にはこのキーワードは強調された体験があります。
それ以後も数回、「アノニマス」については、
自分でも記述したり、インタビューを受けたり、
「自分が考えるアノニマスデザインのモノ」を提示しました。
だから、私には明確に自分とアノニマスの関係では、
すっかり整理がついています。
それどころか、アノニマスを強調する脆弱さとその反発力も、
理解し終わっている課題にすぎません。
ところが、次世代の専門家の様々な解釈を読めば、
もう一度、「アノニマス」とデザインの関係について、
私の再洞察を要求されました。
再考を教示されるということが、私は「労作」ゆえに、
新たな課題、問題を与えられたと判断したことになります。
この著作の冒頭には、
まだ歩いていた頃の自分の写真が掲載されていました。
それを眺めると、私はもはや、
この世界に二度やってきているという印象があります。
「アノニマスデザイン」はこれからもおそらく、
職能家の社会的な存在性に深く関与していくと思います。


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