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Posts Tagged ‘発起人’


『ドレスコードある最高のパーティでした』


   


     12月 28th, 2017  Posted 12:00 AM

驚きの招待状が届きました。
著名人有名人が発起人で50歳・1967年生まれの二人の誕生日、
その誕生会パーティでなんとドレスコードときわめて高額な会費でした。
二人とはインテリアデザイナーの森田恭通氏と飲食店経営者の稲本健一氏、
彼もスタートは工業デザイナーでした。
森田氏にはあるデザイン賞の審査委員を頼んでいました。
しかし、彼はデザイン賞の審査委員は絶対やらないという人物でしたが、
多分、私には断りの電話がきました。
しかし、私は彼をほぼ脅すかごとく、納得させてしまいました。
それだけに、このパーティには出席しようと決めていました。
ともかく京都での仕事を済ませて、その日夕刻にかけつけたのです。
さらに大事だったことは、francfrancの経営者である高島郁夫氏が、
発起人であるばかりか、このパーティの仕掛け人でした。
高島氏が26歳で私が31歳、あるインテリアメーカーで大きな仕事をした、
そんなふるさと福井の仲でした。
森田氏と高島氏は同じグループ企業だけではなくて、
親友同士の関係でもありました。
ドレスコードでのパーティなどとは最近ではほとんど行われていませんが、
今年はドレスコードのパーティはなぜか二度目でした。
森田氏の最初のパリ個展では昨年、私も応援に行った仲でした。
その個展会場200m先で、あのパリでの大変なテロがあり、
ほとんどホテルも同じだったという経験をしていました。
さて、このパーティは誕生日主役は、真っ白のタキシードで現れました。
彼らもただ真っ白のタキシードだけで来るようにとの指示だったそうです。
25のテーブルに7名が満員という参加でした。。
高島氏は私に今年一番の大きな仕事だったと告白していましたが、
これだけそれも著名な人を会場一杯にするという二人のカリスマ性、
これも大変な人気を呼ぶ人間性だったと評価します。
ここには明らかなデザイン界やアート界、成功した起業家たちがいました。
もちろん、パーティはおそらく高島氏がねらっていた、
今年日本で最高の正式極まるパーティだったと思います。
私が最も感じていたのはドレスコードの男性のボータイについては、
あらためて書きたいと思っています。

* 『人生が回転して再開、懸命だったあの頃』
* 『インテリアデザインからの拡大・森田恭通のパリ個展』
* 『AM社のヴァブキュリーを見る夕食会に和服で参加』
* 『非常事態宣言の街=パリにて、決意!』
* 「キャナルシティ博多での二つのショップ、二人の経営トップ」


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『建築家の主張を、反撃反論にすべきを望む』


   


     2月 3rd, 2014  Posted 12:00 AM

久しぶりに建築家・内藤廣に会いました。
彼も松岡正剛の誕生会発起人の一人でした。
出逢い時に、「あの主張で友人を失ったよ」と言いました。
私はこのところ日本の建築界が、「新国立競技場建築コンペ」で、
大騒動をしているのを傍観していました。
建築コンペ最優秀選択への審査訂正論文は読み応えがありました。
その論文を今更というのは、これまでの建築コンペ審査反対では、
いくら提示しようが、ある意味は残っても、それだけです。
まして審査に関わった審査委員非難はほとんど無意味です。
案の上、盟友・内藤廣は正面からその反対運動そのものへ、
彼の主張を提示していました。
私は、あの建築家の提案を認めていますから、
彼が提示したことに大納得していました。
21世紀になってすぐに私はGマーク賞の審査委員長でした。
私は、「Gマーク審査委員」という表記が名刺にある人を、
「来年消去」を要求し、
消去無し友人を審査委員からことごとく外しました。
「川崎は友情と国家、どちらを選ぶのか」と罵倒されました。
即、「君への友情は無くなった」と告げました。
私は根っからが過激ですが、内藤廣はとても温厚な人間です。
その彼への敬意無き人は、元から友情など無いのです。
彼は、Gマークの審査委員長を引き継いでくれました。
彼も相当にGマーク賞の改善を試みてくれた人物です。
彼は最も「国家的な正当性」を語り切れる建築家であり、
私のデザイン活動を厳しく批評してくれます。
私は、いまなおこのコンペ非難で「署名運動」に関わる人は、
もう一度、わが国の制度となっている日本の建築コンペを
歴史的に検証し直してほしいと思います。
最優秀案となった彼女の「建築意味」を
これまでの彼女の作品で読み直してほしいと思います。
私は内藤廣の主張を「反論反撃」にすべきだと支援します!


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『人生70暴走古来稀・松岡正剛氏』


   


     1月 25th, 2014  Posted 10:36 AM

松岡正剛氏を知の巨人だと人は呼びます。
彼の存在を知り出逢い、すでに彼は70歳になりました。
もし、彼の執筆活動すら知らないとするなら、「知」無き人でしょう。
彼の誕生日の会、その発起人をしました。
私は「幸運と幸福」をといつも考えますが、
彼のその集まりでひとしきり彼に宿っている幸運と幸福を見ました。
そうそうたるメンバー定員100名のはずが、200余名集まり、
「誕生日」という制度を全否定直言しつつも「祝う」ことに、
私は日本の知性の深度を確かめた想いでした。
本来は「幸不幸」から生まれた「幸運と幸福」には「幸」が基底です。
「幸」とは、両手に手かせで行動を遮断された意味があります。
この話をして、ある著名な舞踏家にたしなめられましたが、
それさえ私の幸運さがあり、その集まりの雰囲気でした。
これほど私たちの国が、確実な天災を予知しながら、
見失っているもどかしさを抱きつつ、
まだ幸運で幸福でありたいとだけを願う哀しさがあります。
いつの日か、書き留めなければならないことが一杯あるのです。
とりわけ、私にとっての松岡正剛なる人物の「あっぱれ」さです。
しかし彼の論理には、「あわれ」と「あっぱれ」は、
同値とする断言力に彼を敬意し、
この力がなぜ備わっているのかが、実は「知」の正体かもしれません。
ちょうど彼と出逢ったのは私が40でした。今私は間もなく65です。
だから5歳年上の彼の「知あればの幸運と幸福さ」を見届けました。
これから、この日のことも時にふれて書き残すことがあるでしょう。
知力が磁力だと証明できうる唯一の人が松岡正剛でしょう。
贈答された「暴走族ユニフォーム」もあっぱれでした。
ここに集まりし人たちの集合知をもっても「現代日本」を変革できません。
それこそ、私たちが「失っていく課程」の瞬間に生涯がある悲哀です。
だからこそ、「祈る」ために「祝う」幸運さが幸福を招くこと、
私は松岡正剛という人物の70年目にそれを見届けた一夜でした。
そして、私は感謝の行為をその舞踏家から教わりました。


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