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Posts Tagged ‘白山’


『車イスだったから、出来ないから、知っていること』


   


     3月 10th, 2019  Posted 12:00 AM

車イスになって、出来なくなったスポーツは、
まずは、スキー、高跳びから遠泳、
ロッククライミングそして少林寺拳法と空手。
スキーの腕前は越前市の市民スキー大会で小学6生から中学2生まで優勝。
遠泳は父から鍛えられ東尋坊から雄島までどれだけ必死に泳いだことか。
雄島が心霊スポットなんて騒がれていますが大嘘です。
高校時代は山岳部に所属し、福井県の山岳と白山ばかり。
美大時代は、最初入部した、空手部の退部試合で殴られ、
正々堂々と辞めた後に、山岳部の創立。だから今も先輩と連絡。
ロッククライミングに、大学時代の休みはすべて山に打ち込み、
2度死にかかりました。その時には車イスにならなかったのです。
ほとんど剣岳で練習と、終わると、後立山縦走ばかりでした。
武道を身につけるべく、最初は中学生時代の少林寺拳法でした。
少林寺拳法は、空手のような競技ではなく、
また精神的鍛錬に重きをおく点で、優れていると感じていました。
父の教育方針と、山が私の虚弱だった心身を強くしてくれました。
驚いたのは、デザイナーになって、知られてから、
少林寺拳法誌から取材依頼を受けました。
その時すでに車イスだったので、「もっと早く取材してほしかった」、
「なぜ取材を?」と聞いたら、
私が正拳士だったと聞いての取材だったのです。
その時も、五花拳の美しさを話しました。
こうしたスポーツとのかかわりで、
車イスながら、身体障害と心臓障害を負いながらも生きています。
父から命ぜられたお陰でした。
そして、車イスになって、
どれだけスポーツが精神を鍛えられるかを知ったのです。


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『神話性ナラシオンで富獄が語る空間・形態』


   


     10月 14th, 2017  Posted 12:00 AM

富嶽三十六景の中の代表的な浮世絵=風景画、作者は葛飾北斎です。
富士山にまつわる物語、
あるいは神話ともいえるナラシオンは識るべきでしょう。
私にとっては日本を代表する山は白山です。
だから富士山より白山なのですが、こんな話を聞いて愕然としました。
富士山と白山が喧嘩をしたのです。
だから、富獄=富士山・不死山が似合っています。
ともかく、どちらの山が高いかということで、
竹で雨樋を作って、水を流したら富士山から白山に流れたのです。
子ども心に富士山が嫌いになりました。
そして左は黄金比では必ず実証される構図です。
つまり、空間論の下敷きになる美しさがあるのです。
そして右はexponential curveそのままの形態論になっています。
まだ日本に透視図が浮世絵の構図ではないのに、
なぜ、北斎は知り尽くしていたのだろう天才であったという実証構図です。
そして、ほとんど日本人には識られていない、アルゴナウタイなのです。
アルゴナウタイというギリシア神話叙事詩でのメディアと同様の神話が、
この富獄の神話=かぐや姫・竹取物語と同じなことを、
私はメディア論:かぐや姫とメディーサ同一で追い求めたことがあります。
これは語り切れないほどのアルゴナウタイと富獄神話が同一であるから、
exponential curve=eXの解釈ができるとさえ思っています。
つまり、黄金比・exponentという構図は空間論と形態論で、
美しさを生み出しているのですが、
私の判断では、歌川広重の広重ブルーは北斎を超えていると思っています。
浮世絵にまつわるナラシオンは、広重も北斎も美しさの基本にあるのです。
結局、美学では語り切れない物語性が北斎にも広重にも見事なわけです。
したがって、デザインでの美しさには
明確な背景としてのナラシオンは必要条件なのです。
もっと断言すれば、ブランド価値や商品デザインでの美しさには
絶対的に神話的にもなりうるナラシオンが必須だということです。
デザイナーにとっての悟識=カント的にはその素養は浮世絵からも
後天的に確実に学べるということです。

* 『広報誌がまだジャーナリズムである』
* 『「形態学序説」からのデザイン原論思考が必要』
* 「どちらの『杖』を選ぶべきか、医学のシンボル」
* 『吟遊詩人の的確な叙事詩はロックにまで至った』
* 『透視図・次元的な隠喩としての焦点というイメージ点』


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『「岳人」が教科書だった時代を思い出す』


   


     7月 25th, 2016  Posted 12:00 AM

封印してきたことがあります。
封印せざるをえない身体的な条件が加わったことでもあります。
それは「登山・ロッククライミング」です。
「登山」は高校時代に山岳部入部から始まりました。
高校時代はほとんど県内の山々、夏は白馬から鉢ヶ岳、後立山縦走を経験。
大学時代は最初は空手部でしたが退部試合に出てボコボコにやられて、
それでも山岳部を創部し、
藝大出身の当時助手の先生からロッククライミングを教わりました。
この「岳人」は高校時代は教科書以上に読んでいました。
だから当然アルピニズムといえばという大学医学部を目指していましたが、
ビンソンマシフ山初登頂を深夜ラジオで聞きがっかりしたものです。
「岳人」今月号に久しぶりに手をのばすと、
なんと白山・別山の高山植物の花特集。
思わず、ワイフに見せて、「これこそ極楽なんだ」と言いました。
夏山の高山植物はこの世の物とは思えないほどの花畑、
そこにモンシロチョウと赤とんぼが飛び交っていました。
白山と経ヶ岳山頂には祖父寄贈の祠がありました。
今はもうわかりません。
高校時代、最も美しい花畑は大長山でした。
ここに伝わる千畳敷を探していたものでした。
大学時代4年間毎夏は剣岳でほぼ一ヶ月暮らし、
最終は後立山縦走し鉢ヶ岳から直下して大町駅から帰宅しました。
大学時代は冬もメチャクチャな登山経験がありましたが、
大学卒業時にきっぱりと登山は封印しました。
以来、この雑誌も見かけても読みませんでしたが、
現在、大学でも山岳部は無くなって、この専門誌も厚さは半分以下、
内容も専門性が無くなっていました。
剣岳へは宇奈月から登山鉄道、そして早月尾根を3日間で着くのです。
メタルスキーで雪渓を滑り、ピッケルワークで滑落停止の練習、
クレオパトラノーズの6級の壁が懐かしい限りです。
もう一度、今度はヘリコプターで行ってみたいとしきりに思います。

* 「やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう」
* 『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
* 「冒険、してはいけないことになるかも」
* 「トランスジャパンアルプスレース・過酷さの美学」
* 「易しそうなテーマだが難しそうなデザイン解」


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『ふるさと福井はまだまだ恐竜の聖地になれる』


   


     9月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

私の記憶では勝山市北谷で、恐竜の小指発見が、
わがふるさと福井を恐竜の街にしたようです。
昔、恐竜の本物を米国の自然史博物館で観ました。
その圧倒的な巨大さがありましたが、
現在はデザインされた妙な展示で面白さが消えています。
そういう意味では、ふるさと福井駅に着くと、
正直、金沢駅の華やかさは全くなくて、
まさに田舎街ですが、「ここまで恐竜か」と驚きます。
先般も「羽二重」織物工業の青年部会指導に帰ってみると、
工事現場の看板にまで用いられ、
様々な恐竜には「フクイなんとかザウルス」まで、
どんどんと発見されているようです。
そして恐竜博物館は、ボランティア組織での運営など、
新たな博物館のあり方としては注目。
全国の小学生男の子たちには「聖地」が勝山市だそうです。
私も一時期は恐竜の名前や図鑑を一通り完読。
男の子にとっては、
とめどない古代への夢のロマンあふれる恐竜たちです。
最近では、羽毛もあったとか、まだ恐竜の実在的な色彩も不明ですが、
アルゼンチノサウルスやディプロドクスの巨大さは、
長さが30mで100tとか聞くと、これは船舶と同等の大きさに感じます。
今は自宅には唯一のティノサウルスが一頭います。
いわゆる巨大動物は象やキリンやカバ程度でも
彼らの大きさは実感できますが、
こうした恐竜たちが生きていた時代となるとそれは想像を絶します。
勝山市北谷近辺は加越国境の山々が、大長山から烏帽子岳などが、
白山山系の手前にあり、高校時代にはすべて縦走しています。
今でも白山手前への加越国境の山々はすべて名前と、
高校時代に縦走していた思い出が重なります。
この縦走訓練が、
大学時代の後立山・立山・剣岳それから針ノ木峠に出て、
そこから一気に大町駅に下ることを4年間やっていました。
私が高校時代には勝山市北谷ならば、イワナが捕れる山系でしかなく、
まさか、この勝山市が恐竜の中心地となって、
福井県が恐竜の街として、これほど私が帰省するたびに、
ここまで恐竜で語っていると思うほどですが、
プロのデザイナーとして、地方活性のシンボルとするならば、
まだまだ知恵不足なことは確かなようです。
もっともっと、「恐竜の聖地」になっていってもらいたいものです。


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『資本主義からの逃走』
    「曹洞宗第一道場・吉峰寺での『薪』割り」


   


     8月 10th, 2010  Posted 12:00 AM

浄法寺山
福井市内から北東には加越国境と呼ばれる山並みが見えます。
加賀(石川県)と越前(福井県)を区切っています。
冠岳・浄法寺山1053m(記憶が正しければ)・鷲ケ岳がすぐに目に入ります。
その山系の奥に奥越国境があり、白山が見えるのです。
冠岳(808m)は高校時代に最初のロッククライミングを始めた岸壁が頂上付近にあります。
浄法寺山は高校時代は5月の連休でも渓谷急斜面の残雪でスキーができました。
高校時代には、とりあえず台風が来るとなると登山にあけくれ,
中間考査をいくたびか下山できないとかでサボっていました。
この加越国境の手前に九頭竜川があります。
道元は丈競山という双子の山に登りその浄法寺山にて寺院建立案を考えました。
そして、九頭竜川を挟んだ真正面のささやかな盆地、
そこに「永平寺」を建立することを決意したと言われています。
その「永平寺」建立の間に「吉峰寺・よしみねでら」地元では「きっぽうじ」を仮住まいにします。
吉峰寺
さて、私はこの「吉峰寺」には中学時代と高校時代の夏休みに、
祖父と父の命令で私は修行させられた経験があります。
多分、今も永平寺の第一道場として、曹洞宗の禅僧エリート養成所のはずです。
何故、このお寺に預けられたのかはあまり言えません。
目に余る喧嘩や悪い仲間とのつきあいを窘められての教育だったのでしょう。
朝は3時に起床し、便所掃除から顔ふき、さらには食器洗いまでもう色あせた手ぬぐい一本で、
ともかく中学時代は泣きたくなるほどの生活をさせられました。
高校時代は、サボり方も覚えたのと禅僧のエリートの人たちと仲良くできました。
おそらく、ここの住職は、永平寺の管長さんクラスの偉い人だったはずです。
いっぱい話を聞かされ、書を徹底的にやらされました。
この体験が、私は「道元」に惹き付けられている最大の動機だったのでしょう。
薪割り・作務
もっともできなくて危険だったのが「薪割り」でした。
中学時代にはまったくできずに、高校時代にはそれなりにやりきっていたと思います。
「薪」というのはもちろん燃料であり、
風呂焚きと食事、そして冬の暖房のために薪割りは大変な作業でした。
なぜ、「薪割り」なのかは、今、明確にわかります。
草冠の下に「新しさ」があるのです。
新しいというのは、まさしく斧で木を割った樹木、その切れ目を表しています。
それが草冠というのは「エネルギー」であり、
燃えるから「食べる」・「洗う」・「暖をとる」ということができる素材を表しているのです。
「薪」
私は、「薪」にこそエネルギーの根幹的意味があると思うのです。
食べて生きて清潔で飢えと寒さから、
人間は明日「新しい日」を向かえる源泉・元気さを獲得できるのです。
道元が「作務」と言い放った薪割りとは、
生きるエネルギーを得る合理性は自然の樹木から「新た」にする身体的修行であり、
その「作務」は座禅と同様な生きることの意味の思索活動だったと今は納得することができます。


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