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Posts Tagged ‘第二世代’


『ローカルな受賞なれど、とても大きな受賞でした』


   


     10月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

若い頃はデザイン賞を常に狙っていました。
何と言っても国内では「毎日デザイン賞」や「国井喜太郎産業工芸賞」、
世界的には「国際インダストリアルデザイナーズ協会特別賞」という
ICSID Excellent Awardはまだ私で2名のみです。
デザイン賞はそれなりにおおよそはいただきました。
そしてこの度は「越前市市政功労賞」を県外にも関わらず受賞。
ともかく、越前市に前入りして翌日受賞式に、と思っていましたが、
伝統工芸、越前打刃物「タケフナイフビレッジ」は34年になり、
産地のメンバーから、ともかくこのホテルに来て欲しいと言われたので
ホテルに車で着くと1時間も遅れていましたがやっと到着。
なんと「受賞パーティ」が準備され、越前和紙、漆器、高校の同級生から、
スタート時から支援してくださった美大時代の空手部先輩、
武生市工業試験場で最初に出逢った人までが迎えてくれました。
とても驚愕するとともに自分自身はもう表彰をする立場ですが受賞を受諾。
いわばローカルな賞かも知れませんが、
実は、越前打刃物産地に飛び込み、「タケフナイフビレッジ」を設立。
第二世代の若者がいっぱい跡継ぎが生まれたこと褒章者も2名輩出しました。
伝統工芸産地が、これほどのことをやっていただけるとは、
どんな国際的な受賞よりも価値ありしかも懸命に取り組んでからでしょうか。
その成果は見事に開花してきたことには自負心もあれば、
まだまだ鍛えたい仲間達がこれほど待ち受けてくれたことに大感激。
サプライズでのケーキまでが準備には、涙ぐんでしまって、
「俺を泣かすなんて、なんてことだ!」って涙声になりました。
賞状は「越前指物の額縁と越前和紙」でした。
ローカルで懸命だったことは今もこれほど護って貰える素敵な夜と
そして大きな受賞をさせていただきました。
「指物」についてはデザイナーとして改めて書き残したいと思っています。

* 『Max Billの賞杯があったことを思い出した』
* 『伝統工芸産地を補助金漬けから開放し法律の改正が必要』
* 『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』
* 『毎日デザイン賞・同時受賞の佐藤晃一氏が逝去した。』
* 「タケフナイフビレッジ第二世代へ理念を伝える」


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『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』


   


     5月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM

東京から福井に帰ったときに、東京には在るが福井には無いものだらけだ、
どうして生きて行こうと思っていましたが、逆発想をしました。
福井にあって東京には無いもの。
それが越前市(旧武生市)の伝統工芸の打刃物であり、
あることで若手の刃物工業研究会との出会いがありました。
3ヶ月黙っている彼らに自分は難し言葉使いをやめて福井弁で話ました。
新素材開発でメーカー交渉を産地の代表として徹底的行いました。
国内外で展覧会をやり「タケフナイフビレッジ」を絶対に実現約束。
行政の力を借りずに「借金をして取り組んでもらう」ということ、
そのデザイン戦略をともかく盲信してもらうことでした。
ステンレスで鋼をサンドイッチにした高品位ステンレス鋼で
「ハマグリ刃:蛤のように断面で見ると中央が膨らんでいる刃」を
火づくり鍛造してもらいました。
世界で初めてすべて金属製ゆえの一体の刃物ゆえに、
熱湯で一変に大腸菌が防菌可能な一体金属の刃物を開発しました。
徹底的に図面に精確な研磨によりビッカー値硬度も60~62を実現。
その製品開発の中でも、高品位ステンレス鋼をグリップ部分に、
私の造形言語である「ウェーブレット(さざ波のよう波型)」を実現。
それを成しえてくれた今では親方・第一世代の加茂勝康氏が
瑞宝単光章を受勲できました。
昨年は安立勝重氏が受勲しました。
加茂氏はスキー、安立氏は登山家、それぞれの世界でも重鎮です。
第一世代では癌に冒されても「技を伝えて」と半ば命令していた浅井氏は、
工房でもう限界と言って2週間寝込んで逝ってしまった仲間です。
今、第一世代9名、第二世代20名を率いていますが、
新メンバー・新デザイナーを私は選別して、
「ナイフスクール」を本格的に開校します。
二人目の受勲お祝いの会は、さらに盛大に全員で祝いたいと思っています。

*11月5日Staff Blog
*『刃物の地肌、その偽物氾濫が流行している』
*『 ひとりの親方が逝った・・・ 』
*『タケフナイフビレッジ、恩人を見送った。』
*「鎌倉時代名刀と江戸時代名刀を語り合う」


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『ようやくPad上でのスケッチができる』


   


     1月 9th, 2015  Posted 12:00 AM

iPadが登場して、SkechBook Proでスケッチ、レンダリングが可能。
しかし、iPad上ではスケッチ画像には制限がありました。
それでも私は、スタイラスペンを自作から始めて、
気づけば、徹底的に書く・描くためにスタイラスはこれまた
正直、今存在しているほとんどを経験してきた気がします。
私には新しい筆記具にすぎませんが描き心地はまだまだと思います。
そして、ASUSから18インチのPadは大きな画面で絵が描けます。
18インチなのでA3サイズ大程度が可能になりました。
なんとしても、これまでのマーカーテクニックを
私は職能的に、また教育としても、マスターしたいと思っています。
おそらく次世代デザイナーはこのデジタルスケッチ技能は不可欠、
そんな時代になるでしょうが、
まずはペンと紙が基本になるでしょう。
今日はNHK国際が、私のスケッチ風景も取材したいということで、
それなら、すべてデジタルスケッチをそろそろ撮ってもらおうかと
昨晩スタイラスを全部確認しました。
iPadで手慣れてきた最近のスタイラスではなんとも調子が出ずに、
結局、最も手慣れたスタイラスに決まってしまいました。
メガネフレームのデザインスケッチには最適です。
それは左右対称がとても容易だからです。
もはやデジタルスケッチは、鉛筆からマーカーまでを
たった一本のスタイラスで可能ですが、私はどうしても2本です。
iPad上での描き感覚や描き心地は、
18インチ画面上とは全く異なることがわかりました。
今日の取材は、タケフナイフビレッジ第二世代向けのナイフが対象。
ラフレンダへのスケッチテクニックは見せられるかも知れません。
そして、この18インチを持ち運ぶケースはまだ市販されていません。
だから、ワイフに手造りで作成してもらっています。
そろそろクライアント前でも、スケッチのプレゼンができるでしょう。

『iPadのスタイラスペンは徹底的に精査しています』
『iPad Airに今、最適なスタイラスはここまで絞った』


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『タケフナイフビレッジ、恩人を見送った。』


   


     12月 19th, 2014  Posted 12:00 AM

越前市(元・武生市(国府))には、紫式部がいました。
彼女の父親が国司であったためですが、京に帰りたいという、
その切なさの歌しか遺さないのに銅像があるのです。
武生市で私は小学校5年から中学2年まで過ごしましたので、
かつてNHKの「ようこそ先輩」は武生西小学校で収録放映しました。
当時、父は警察大学校を出ると、市警察の刑事課長をしていました。
家に帰らない父には着替えをよく持って行っていましたが、
必ず、警察の隣に市の工業試験場があり、私は立ち寄りました。
ちなみに、武生市工業試験場は日本でも最初の工業試験場の一つで、
今はどこでも工業技術センターと呼ばれています。
その試験場の木工場の木っ端をくすねいて(無許可でいただき)、
それで、モーター付きの潜水艦や自動車模型を造っていました。
当然のこと、木っ端を黙っていただくのですから、
試験場の若い職員さんには何度も怒鳴られて逃げていました。
やがて、福井に車イスで帰っていた私は、武生市工業試験場に、
木工でコンペ用の模型制作依頼に行きました。
しばらくして、試験場長と次長が来宅されて、越前打刃物の窮状を
思い切り知らされて、武生市打刃物工業組合の若者たちと出逢い、
彼らにデザインを導入して、タケフナイフビレッジを創りました。
あるとき、その次長(後に場長)と話をしていたとき、
彼こそ、木っ端をくすねる私を怒鳴っていた人でした。
すでに30余年経ち、彼が病気で寝込んでいましたから、
逢いたくても会えなくなっていましたが、彼が一昨夜逝きました。
すでにタケフナイフビレッジの第二世代は彼を知りません。
彼の霊前には、タケフナイフビレッジ最初の展覧会案内が飾られたと
聞き、とてもやるせない去らぬ別れになりました。
今年は創立のメンバーでナイフ作家にまで成った同志が逝きました。
小学生の私を怒鳴ってくれた彼がデザイナーになった私に、
越前打刃物の窮状を語り、メンバーに逢わせてもらったからこそ、
私はタケフナイフビレッジを率いることができたのです。
私は第2世代を鍛えて、この産地を残したいと彼に伝えています。

『 ひとりの親方が逝った・・・ 』
『伝統工芸産地第二世代の新製品テーマ』
『30年前のデザインを伝統工芸産地で商品化して今なお・・・』


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『 ひとりの親方が逝った・・・ 』


   


     7月 14th, 2014  Posted 1:22 AM

昨夜は、このニュースに仰天し悲しくて泣きました。
今年に入ってこれで3人の盟友を失いました。
三人ともまだまだの年齢でしたから、ひたすら無念です。
タケフナイフビレッジを創立してきた第一世代・10人の一人です。
第二世代が20名になり「親方」と彼らは呼ばれるようになりました。
彼が癌ですでに手遅れだったという報告で、
私は、変わらずに「たかだか病になんか負けているのは駄目だ」、
「技術を継承させるにはまだまだだ、君の技術・技能を信頼してる」
これが彼に伝わったとき、親方の前で大泣きしたそうです。
「言われたら、病どころじゃないな」と言って、
毎日現場で第二世代を見まもってくれていたと聞き、
さぞかし、私はこの30年、彼らとの姿勢を変えませんでした。
そして、みんなが大阪大学の私の研究室にも来てくれて、
大学内のレストランで食事をし、彼とは冗談を言い合っていました。
(きっと、かなり辛いだろうに・・・)と思いながらも、
彼は私がいつもながら、そして第二世代にも厳しく接していました。
結局、3週間前に現場ではもう無理の体になってしまいました。
年齢は私の一つ上でしたが、
「病気と思うな、病だから、気はモノづくりに」と激励だけでした。
刃物職人ではなく「ナイフ作家」として見事に成長してくれました。
彼らしい、素晴らしいナイフを私に創ってくれました。
シースも自作するまでになってくれていましたから、
第二世代への私からのテーマ刃物を見せたかったと思います。
行きたくても行けないので、弔電と献花を送りました。
親方衆と身内だけで密葬の通夜を送り、葬式ですが、
北陸のみんなに「盛大に見送ってほしい」と伝えて、
彼には、「冥府の道、その先導役を」と役割を与えました。
盟友達が冥府の世界に逝ってしまっています。
私は無念さで、もう憚らずに泣いてしまいます。
合掌です。


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『伝統工芸産地第二世代の新製品テーマ』


   


     6月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

タケフナイフビレッジ第二世代の新製品は、ミニサイズナイフです。
ナイフの携行は世界的にも禁止されています。
特に9.11以後スイスのアーミーナイフメーカーは企業存続危機までに
落ち込み、それからナイフメーカーは新規商品アイテムで大成功。
国内では、60mm以内のナイフまでは携行が認められています。
要は、ナイフを武器扱いする非常識な輩が増えてしまったことです。
刃物産地の警察が「刃物は持つな」という垂れ幕問題がありました。
さらに、日本の企業は常に有言実行を倫理観としていますが、
国際的には訴求第一であり、実現できなくても発表主義です。
国内の大企業ほど有言できる程の力すら無く、開発秘密主義です。
「言ったからにはヤル」という国内企業ほどデザインを無視です。
それは企業成長を諦めているに等しいと断言しておきます。
私は、敢えて「TAKEFU mini60」から発表していきます。
無論、まだまだ第二世代やその周辺に修練を要求しますが、
3D-Printingの技術投資を行いこれが日本のモノづくりを見せます。
ブレードは55mmで世界でミニサイズ刃物はこの産地だけが目標です。
私は懸命に熟慮を込めて、有言実行を必ず成し遂げてきました。
しかし、多くの企業、その経営者たちは臆病過ぎると思っています。
安全な儲け主義だけの経営企業は必ず存続しないことは明白です。
デザインは最近重視されない風潮が国内企業経済に蔓延していますが
国内企業はそれだけで「費用対効果」と「投資効果」を失ってます。
私は、「TAKEFU mini60」で30年経過したこの産地を成長させます。
だから、商品形態はまだ発表できませんが、
当然のこと、発明を込め、ミニサイズナイフの問題解決をそのまま
デザイン導入で解決として、世界的なナイフを創出する覚悟です。
そのためには、「遊ぶがごとく開発をします」。
遊ぶことは神以外は不可能ですが、神と共にあれば遊べるのです。
最も私自身は無神論者になっていますが、
「遊べるミニナイフ」こそ、道具の基本であることの再確認です。

「私のナイフの原点はナイフデザインの原典」
「再びナイフを真剣に眺めています」


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『タケフナイフビレッジにはもっと要求する』


   


     10月 16th, 2013  Posted 12:00 AM

越前打刃物にデザインを投入して30年になりました。
いわゆる企業存続では一つの大きな山を越えました。なぜならば、
1000社が生まれても30年後には2.8社しか残らないのです。
ナイフビレッジの第一世代はすでに刃物作家として、
国際的なビジネスマンにも成長してくれました。
最近では、ロシア系のマニア向け商品を送ってくれました。
元来は「鉈の製造」から、私のデザインを実現するとともに、
刃物作家としての技法を取得し、今では、ナイフ専門誌では、
スターランクの仕事をしてくれています。
彼の存在があるから、彼のようにという若手・第二世代がいます。
私は、彼の親父さんからもいっぱい刃物づくりを学びました。
その親父さんから、本当は受け継ぎたくなかったという彼が、
鉈から、私のデザインを取り入れ、
とうとうナイフづくりをマスターしてナイフ作家になりました。
彼自身は、少しずつ注目をあび、今では欧米どころか、
ロシア系に彼のファンが生まれるまでになりました。
私のデザインでは、3万円程度が限界ですが、
彼のような「作家モノ」になると10~数十万円になります。
私もまさか国際的なビジネスマン的に欧米・中・ロシアまでを
飛び歩き、海外からの買い付けにまで応じられる作家であり、
鉈から包丁、キッチンナイフ、ナイフ、そして工芸的ナイフまでを
本当にマスターしてくれました。
しかし、私はまだまだ彼を含めて第一世代には、
「さらに一流」を目指してもらいたく、厳しい批判をしています。
共同工房建設して20周年で、第一世代には、
もっと進化させた刃物づくりをしてもらいます。
その影響を第二世代に引き継ぎ、
彼らは今度、第三世代を呼び込んでくれることを期待しています。


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「750年をタケフナイフビレッジで革新して30年」


   


     9月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

私は車倚子生活でふるさとに戻りましたが、
私を支えてくれた越前打刃物に取り組みました。
正直、これで「喧嘩師」を国内外にやってきたのかもしれません。
本当は5年が10年で「共同工房」を、
今は亡き建築家毛綱毅曠氏(1941~2001)との格闘で建設しました。
それが第二世代に引き継がれて20年です。
結局、私のデザイン活動の中核でもあり、デザイン成功例です。
第一世代:10名は、第二世代:15名にもなりました。
世代が変わっても、基本コンセプトを変更する意味はありません。
また、私のデザインはすでに30年もナイフの基本を創ったという、
強い自負がありますが、それだけに、
第二世代からの新作依頼は、とても苦しくて悩み抜いてきましたが、
私は、「伝統」=裏切りですから切羽詰まってデザインしました。
新たな産地の新活性化は、さらに世界的な刃物産地になります。
あらたなテーマでの研究をしてもらい始めました。
新素材も検討をつけていますし、刃物だからこそを成し遂げます。
おそらく、タケフナイフビレッジを始めた頃は、
私も30代ゆえにともかくこれが出来なければ、
デザイナーという職能を諦める覚悟で取り組みました。
それを支えてくれたのが、タケフの刃物職人のみんなでした。
産地はこれまでの経済危機にはほとんど揺るぎませんでした。
刃物作家はすでに国際的なビジネスマンにもなり、
産地には高級車もあるようになりましたが、
私は、決して「先生」ではなくて、仲間です。
私が負けそうになっても、彼らの厳しいモノづくりに励まされ、
「私たちは美しい切れ味を鍛えてます」というテーマは、
「次に私たちも美しい切れ味を鍛えていきます」という、
また「生きがい」を私に与えてくれています。
次は、第三世代を集めて、もっと未来を置き土産にする覚悟です。


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「安政の決定事項にデザイン導入してから・・・」


   


     7月 30th, 2013  Posted 12:00 AM

私はふるさと福井の伝統工芸にデザインを導入してきました。
750年の越前打刃物に「タケフナイフビレッジ」を、
デザインの導入によって産地を形成しすでに30周年になります。
すでに第一世代10名と第二世代15名になりました。25名です。
その背景には、この「定書」があります。
越前打刃物に伝わるこの書に登場する浅井(あざい)家は、
そのまま第一世代がメンバーにいます。
第一世代と第二世代が阪大の私の研究室を訪問してくれました。
第二世代に私は考え抜いた「産地モノづくり戦略」を話しました。
この「定書」という制度設計を成し遂げたのは、
まだ20代の橋本左内と熊本藩から越前藩の明道館に招いた、
横井小楠だったことが史実的にも確かめられています。
彼らの当時には藩政にとっても産業のあり方を述べていました。
だから、私はいつも、このように考えるのです。
「もし彼らの才能であったなら・・・どうしていただろう」と。
日本全国には、わが国の美学的結晶の伝統工芸があります。
絶対に不可欠なことは「デザインの導入」です。
30年、流行的なヒット商品を狙ってはきませんでした。
むしろ、現代の時間との共時性と産地技術の伝統性でした。
決して大儲けの産地になったわけではありませんが、
確実な「刃物のあり方」を伝統技にデザインを参画しました。
私は「働きがいと生きがい」を
未来の刃物に発見し、着実な日常性と産地存在性でした。
私は、新たな刃物を提案したいと思っています。
第二世代には、国内外で展覧会・流通・新たな存在性の確立です。
新たなデザイナーもそろそろ見つけ出したと思っています。
なぜならば、この「定書」にある制度設計を基盤にして、
情報時代から次世代時代を創出してもらいたいのです。
「タケフナイフビレッジ」を継体天皇の青春時代を送った、
その場に建設するまで10年かかりました。
その場に第二世代が全国から集まってくれました。
次の30年を根付かせるために私の役割を発見するつもりです。


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