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Posts Tagged ‘羽織ゴロ’


『超右翼ゆえにある絶対的な平和戦略』


   


     12月 26th, 2017  Posted 12:00 AM

負けたら駄目だと思っています。
私の父は7.5年、青春の日々を騎兵として、情報軍曹として、
満州、蒙古、中国を南下、インドネシア解放戦線、メコン川で白旗。
私自身、米国Apple本社でWASPたちと闘いました。
1990年代、JAPには絶対、パソコンは創らせないと実感して以来、
私は右翼、それも超右翼なのでしょう。
今や専守防衛には平和意識を強力に培った防衛隊に護られています。
日本は室町時代から「喧嘩両成敗」があり、
一端、刀に手をかけただけでも切腹でした。
確かに第二次大戦は追い詰められた「油断」そのものでした。
しかし零戦をシンボル化すればあの伝統技術は引き継いできたのです。
米国は日本にとんでもなく不良品を売りつけてくれましたが、
日本はすっかりと見破り、不良具合を指摘しつつ、
わが国独自のスティルス戦闘機を開発して米国に不良不足の特に
ソフトウエアの詳細を突きつけています。
しかし、左傾化して平然としているマスコミは何も報道しません。
敵は身内(左翼)にありだと私は断言しておきます。
また舞い戻っている「羽織ゴロ」たちは、マスコミだけではなく、
いずれ私は書き残さないといけないと思っています。
日本から突きつけられているスティルス戦闘機を見て、
米国はわが国が敵国ではなくて本当に良かったと思っているはずです。
だから英国が近づき、中国も、アジア各国も日本は、
もはやアジアの島国ではないと思うのも当然でしょう。
零戦のあの性能は伝承されているのです。
専守防衛ゆえに、決して攻撃をしないでいる日本にこそ、
真の平和論、平和戦略があるのです。
そのことを私は絶対に立証すべくコンシリエンスデザインと危機解決創成、
その実務を果たし切りたいと考えています。
かって、靖国問題・教科書問題・南京虐殺問題・慰安婦問題を
中国での講演レジメにしたときには、
「あなたは一生中国には入れないでしょう」と言われました。
けれども時代は動いていますから、来年には中国の政治体制も、
必ず大変更されるはずですが、こうした武器たる戦闘機威嚇などは
全く無用になってほしいと願う超右翼の一人です。

* 『「新聞紙」というメディアが消える日が近づいている』
* 『米軍の北朝鮮侵攻はわが国の問題である』
* 『手づくりから物事デザインと事物デザインを決める』
* 『軍事技術である人間工学 は軽薄に語るべきでない』
* 『GRiD社キーボード位置をどう乗り越えるかだった』


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『女衒同族と羽織ゴロたる民法TVも国会も同罪である』


   


     1月 23rd, 2016  Posted 1:30 AM

敗戦後、米国がわが国に押しつけたのは「新憲法」でした。
その実現=民主主義(資本主義経済社会の大衆養成)具現のために、
用間=諜報の具が用いられました。
この記述が明言される時期が、
僕は到来してきたものと考えざるを得ません。
それには冷静な判断と3.11によって破壊されてなお、
全く正当さと釈然としない日本社会があります。
特に大誤解されている民法TVと、
その労働者であるタレントと呼ばれる芸能人、
その支配がまさに用間でしか無かったことを忘れ
なおかつ同族経営化での事務所と称した芸者置屋と
女衒同族の存在を僕は嫌悪するからです。
しかも、未だに民主主義のジャーナリズムを
構築できない民放TV局への怒りが僕にはあります。
SMAP=Sports Music Assemble Peopleというのは
とても上手い名辞です。
私なりにこの芸能人=タレント集団は、
S:スポーツ・M:音楽・S:アート趣味・P:演劇に
とても秀でたテレビ男芸者達でありそれぞれに優れた才能がありました。
しかし、用間の手立てでしか無かった彼らの労働成果は、
見事彼らの収入であるとともに、大衆への夢売りを成し遂げました。
よって、彼らが女衒同族からのパワーハラスメントは、
SNSはすでに終焉し始めているエセ・ジャーナリズムTV放映とともに
強烈に非難し、TVと週刊誌での経済効果の分配の構図は成功させました。
しかし、敗戦直後から配置されてきた芸能による労働意欲の洗脳継続は、
やがて大きな崩壊を迎えることを明確化しました。
SMAPの正当性=真摯に彼らの役割を果たすことと
彼らの労働条件への抵抗は全て葬られたのです。
国会で彼らの話題が至極真面目に取り上げられましたが、
これによって、
僕たちが政権から放置されている事態を知る人々が居るのです。
SMAPが女衒と現代の羽織ゴロと化した破滅間近の民法TV局は、
SNSで武装されている現代社会構造には無知過ぎます。
現政権も、本来、議論を徹底すべきは、
違法公然としたスキーツアーバス事故を
せめてSMAP同等なる国会議論を放映すべきでした。
そのバス事故で、15名もの社会構成を成し遂げる能力を
国会議題からも外していたのです。
無知なるTVジャージャリズムには期待もしていませんが、
国会こそ、超党派での議論を積み上げる術としての用間を
再考すべきだったことを書き残します。


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『「新聞紙」というメディアが消える日が近づいている』


   


     6月 9th, 2014  Posted 12:00 AM

この写真は現代彫刻です。
まさに固められた新聞紙束ですが、報道の死の表現でしょうか。
私自身、新聞紙購読を止めてもう数年になります。
情報としての報道、NewsなどはPC・iPad・iPhoneで充分です。
新聞紙上の論説などにはもうほとんど興味がありません。
元来、新聞の効能は、偏向したイデオロギーであり、
下手すれば「羽織ゴロ」的な情報であれば私は無視してきました。
情報化時代は、
information・acknowledgement・consciousness・intelligenceで
時代と社会が人間の常識・知識・認識を取り囲んでいます。
そのための情報が、記事となって伝達されるメディア自体が
技術によって大きく変貌してきているということです。
そのメディアの一つである新聞紙は、新聞という形式のメディアは
消えて行くのかもしれません。
確実に、私の環境にはこのメディアは不要になっています。
新聞紙に限らず、商業出版の雑誌も消えつつありますが、
私は、特に、紙を形式としたメディア全てが無くなることには
大きな寂しさも感じます。無念ながら残したい雑誌でも消えます。
「情報の形式」を技術と時代が決定づけていくことは、
我々の基底的な要望なのかもしれません。
よって、その発行企業である新聞社という企業そのものの効能が
あらためて社会的な位置づけ変更を求められているのでしょう。
その企業系列にあるTV企業も同様に大変革されるでしょう。
しかし、新聞紙やTV番組が時代的な検証によって、
私たちが必然と考えるモノ=メディアは残って欲しいのです。
けれども、商業主義のこれも時代検証の結果、
消滅が見え始めているメディアも出てきました。
私は、デジタル化される情報の新たなメディア予想論を
デザインからも見いだしていきたいと考えています。

「現代的アートが象徴していることは企業革新テーマ」
「記号はNetworkとServerと私たちのimageに存在する」
「情報化への入り口は記号論or記号学だった」
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


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「闇封印に手慣れたジャーナリズムこそ闇」


   


     8月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

明るくなる寸前が「闇」です。
この観察原則に無知なる人。
そんな人がマスコミ世界を闊歩。
内村鑑三も「後世への遺物」では、
当時のこうした輩の実名を挙げています。
その頃のジャーナリストは「羽織ゴロ」でした。
今も変わらないと私は思い込んでいます。
結局彼らの言説・ある意味でのジャーナリズムは
皆目歴史に残ることはありません。
ジャーナリズムとは「日々の記録」が歴史記述化する前提です。
ということは、ジャーナリズムでもなく、
単なるゴシップ・スキャンダルを「闇」の中に、
押し込んでいるだけの情報化に過ぎません。
彼らはジャーナリストであることを自己否定しています。
さらに彼らは「闇」の本質を未確認しながら、
結局、「闇に葬られた」と平気で記述します。
なぜなら決まって彼らは「闇」を暴きながら、
「闇」に捕らわれて「闇」の中に吸い込まれるのです。
「闇」を表題にしている著作の氾濫に驚きます。
これらは決して信用すべき類いではありません。
特に大震災後の報道には「闇の中」とか、
「闇」という言葉が大流行しています。
これには二つの理由が奈辺にあるのだと思います。
国難の行方が不明ゆえに、現在が「闇」なのです。
ゆえに希望も明かりも見えません。
もう一つは、ジャーナリズムとして、
真実を見いだせない能力不足ゆえに不明=闇なのです。
今、私が「闇」と思えることは、
牛肉は政府が畜産農家を支援しながら、
他の農産物の放射能被害には何ら保証をしないこと。
しかし私はこれはすでにパロールである「闇」、
すなわち隠れ続けている日本の社会制度であり、
この「闇」世界と対決した経験があるだけに、
この闇などはすでに常套語であり私には闇ではありえません。
私たちはすでに常套語である社会的「闇」を黙認しています。
この黙認は明らかに社会悪でしょう。
これが私は問題だと考えています。
「闇」は夜明け前の一瞬だと考えて対峙することです。
ジャーナリズムそのものが「闇」集団であることを、
私は指摘しておきたいと思います。

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「資本主義からの逃走」
  「革新が始まっているから、私の『夢の形見』を」


   


     2月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

文明と文化の共時的変革時
21世紀ようやく11年目です。
20世紀もそうだったように変革の時のようです。
文明と文化が共時的に変革してきています。
政治は、いかにも民主主義と言われてきた「共和制」も限界でしょうか。
エジプトから今後も、とてつもなく悲惨な実例が増えるでしょう。
翻って、技術も、「ムーアの法則」が限界かもしれません。
ムーアの法則も当然ながら、彼の先験的思想性からはいっぱい学んで来たと思います。
講演でも引用させてもらってきました。
特に、「土」=シリコン・「ガラス」=光ファイバー・「空気」=internet、
この基調講演を1992年・箱根で聞いた時のショックはここでも書いてきました。
そして、今や、ムーアの法則でのLSIなどチップも3D化技術に向かっていますが、
これも新たな展開で変革するでしょう。
さらに、驚愕するいくつかの技術開発をデザイナー・大学人として直面しています。
しかし一方では、このような大きな変革が地球環境の「破壊」だと勘違いしている言説もあります。
功罪相反なれど理想主義を
結局は、歴史が事実をジャーナルとして証拠立ててくれるでしょう。
そして、次のような言説は最も信頼できません。
結果をこの上ない悪罪として、
近未来を語ろうとするジャーナリズムの言論人(かっては羽織ゴロだった人)です。
所詮、人間は完全ではありませんから、「功罪相半ば」が人間の歴史をつないできてくれました。
当然、「功罪」があろうが、今日より明日に理想をということになれば、
私は、理想主義としての「革新」を求めたいという立場です。
無論、「保守」としての伝統との中庸も私の一義です。
このところ、実現は50年後かもしれないデザインに自分を立ち向かわせています。
それは、近未来への革新をつないでいくことになるという想像です。
実現の日を、私は見ることはできないかもしれませんが、
私なりに「夢の形見」を描き残したいと願っています。


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