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「匿名も実名も仮想ならば・・・」


   


     8月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

デザインの意味は時流で変化。
当然のことだと思っています。
しかし、これもそうなのということが
最近は見かけることが多くなりました。
その逆走が本来のデザインにも目立っています。
デザインされているということが不明、という物事です。
しかし正直、すべからくが「表現活動」であれば自由、
あるいは自由放題をデザインは取組む大きな包容力があります。
だからそれがデザインのたまらない魅力です。
しかし、デザインやデザイナーを敵のごとくとしている人。
そうした人に限って匿名での批判から中傷、非難をしてきます。
それは大変に非生産的なことで無駄です。
けれども時々そうした中傷を受け入れることには、
大きな深度があると私は考えています。
たとえて言えば、被写界深度というのがありますが、
それはカメラのレンズ機能用語です。
被写界深度に対しては焦点深度がありますから、
アナロジー的にとらえれば、
被写界深度はレンズ前の対象物=被写体ですから、
私なり、デザインなりを対象にすれば、
それが投射された焦点深度は、きもちの内部での意味深度です。
きもち内面にどれほど突き刺さってくれただろうかということです。
したがって、「匿名性発言」の深度は、
この図式で受け止めればいいわけです。
ただ問題は、その被写体が仮想であることが多くて、
その発言を受け止める深度そのものが多分に仮想化することです。
そうなると、匿名的であることはかえって、
その匿名性に寄りかかればかかるほど、
その発言者が仮想人間として「自己否定」している人になります。
これが、実名主義であるFacebookの見事さになっています。
このブログの今後のあり方の一つとして、
コメントを受け入れることは、Facebookでは柔軟性があります。
表現活動において実名発言には責務があります。
日本の新聞が記者実名になるまで歴史性がありました。
しかし、この記者実名があっても、
新聞社名での情報操作があれば、参考意見にはなりますが、
それ以上の真実性は求め難いものです。
おそらく、これからのマスコミが、
Social Networkに呑み込まれていくことは明らかです。
ただし、Social Networkで実名主義だからといっても、
そこには限界があるでしょう。
その限界とは「情報」を受けとめる受信者の能力です。
能力といっても、
それはその人の人格から感性・理性・悟性まで含まれます。
結局、情報は仮想化の中では困難だということになるでしょう。
Networkという人工的な仮想性の中では、
「きもち」のあり方が、
さらに訓練されなければならないということです。


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