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Posts Tagged ‘自慢’


『「オオミズアオ」は今でも怖いと思います』


   


     8月 21st, 2019  Posted 12:00 AM

私は小学校時代で二つ転校をしていました。
最も楽しみだったのは、「夏の研究」でした。
昆虫採集、それも徹底的な研究であり、カミキリ虫を全部収集です。
また植物採集は、採集した植物を押し花として
ともかく一番大きな採集集を完成しました。
福井県立博物館にはよく出入りをして、すべての種別などが分かりました。
自然豊かな福井は子どもの好奇心をどんどん満たし広げてくれました。
特別展「昆虫」が大阪市立自然史博物館で開催されています。
ここの学芸員 松本さんが子ども達と親の「虫取り合宿」を開催し
子ども達の観察と発見を後押ししてるTV特集を見ました。
正しい知識や方法を教わり、自然の中の昆虫と触れてその生態を観察する
夏の合宿には参加したいものです。
私は夏休み前日あるいは初日には、さっさと「夏のドリル」を片付けて
よく先生から、「これは夏休み中」と言われ怒られていました。
「夏の研究」こそが私の関心事で一大イベントでした。
昆虫採集の中でも母から嫌われていたのは
「蛾の標本」に取り組んだ時です。
ちょうど、武生市(現・越前市)に住んでおり、
夜になると村国山に出かけました。
平気な顔をしていましたが、蛾の採集はとても怖いものでした。
特に、人間の手の平サイズの
大きな水色のやつは、襲いかかってくるのです。
この「オオミズアオ」は、手の平以上で今でも覚えています。
それらを美しく並べた自慢の箱をかかえ、
新学期に意気揚々と登校しました。
それこそ、小学校時代の「夏休みの研究」でした。


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『そろそろ断捨離かと思うコンタックスのカメラです』


   


     3月 14th, 2019  Posted 12:00 AM

カー・カメラ・オートバイ・オーディオ、
これが日本の輸出品だった頃、
私はオーディオのデザイナーになりました。
金沢美大で、ほとんど独学でしたが、カメラに夢中でした。
が、これは作品写真を撮るためでした。
それから、「コンタックス」は、フリーになってから、
この一連のカメラを持っていましたが、そろそろ断捨離かと思っています。
ともかく、今では、デジタルカメラで
ライカとハッセルブラッドに絞っています。
そういえば、祖父からもらった大正時代のPealetteで、
絞りや被写界深度が、とても役立ったのです。
祖父は、自転車に乗ったのは福井県では第一番だと、自慢していました。
だけど、Pealetteは多分使っていなかっただろうと思っています。
私のカメラ自分史で見ると、随分とアナログからデジタルです。
今では、スマホで直ぐに撮りますが、
私自身は、やっぱり、デジタルカメラに頼っています。

*Pearletteとニコマート


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『曼荼羅とDNAホログラムの位牌・もう一つの仏壇』


   


     8月 18th, 2017  Posted 12:00 AM

まだ父は存命でしたが、その時に金剛界曼荼羅でもう一つ仏壇をデザイン。
それは父用でしたから、出来上がった時に、
父に見せましたが、怒鳴られました。
「俺はそんな中に入るか!」って。
父の死後、父は私を自慢するのに、
あいつは俺の仏壇までデザインしてくれていた、と。
金剛界曼荼羅の3×3を立体にして、
正面の扉を開けると、私が考えていた位牌はDNAで、
本当ならば、そのホログラムを映し出す装置にと思ったモデルでした。
父は20歳で徴兵され騎馬隊員で金沢の21師団配属。
7.5年徴兵されて、復員してからは
警察官となり刑事ばたけにいました。
ノンキャリアながら、次々と昇進して警視正とまでなり、
福井県自動車会議所の専務理事でビルを新築後、70で勇退しました。
9年間、彼は自由に中国や沖縄、靖国神社などを執筆していたようです。
79歳、晴天の日に散歩途中に倒れてあの世に逝きました。
彼は私の仏壇を見て、すごく怒りましたが本当は自慢もしていたんだとか。
生きていることは死んでいく過程に過ぎません。
間もなく私も70歳を目の前にしています。
そこで社会参加を辞めるべきかを毎日考えています。
ただ、デザインし創りたいモノや、次世代デザイナーに、
絶対に語り伝えたいことが、今日もありました。
金剛界曼荼羅の九つの箱に、私の生涯を残したい、そんな気持ちと、
存在が無となるあの世だと思っています。

* 『電磁波革命と遺伝子革命が近接場で始まってきた』
* 『天空と深海で何が起こっているのだろうか?』
* 『ふるさと福井の大震災を胎内で経験していたと聞く』* 
* 『終戦では無い、敗戦記念日であった』
* 『想像力を今また熟考を毎日繰り返している』


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『渡邉洪基というふるさと福井の大偉人』


   


     6月 26th, 2017  Posted 12:00 AM

私は福井県福井市出身です。
したがって子ども:小学校の生徒時代から
安政の大獄で斬首された橋本左内を最もふるさとの偉人として、
私生涯の尊敬偉人だと決めてきました。
福井県からの偉人伝をライフワークにもしてきました。
それで、福井県・福井藩・小浜藩・鯖江藩を自慢にすらしてきたのです。
大阪大学にて特に適塾からの系譜も明治維新にて、
藤野恒三郎先生がおられ阪大の名誉教授であり、
適塾での物品収集も彼だったと福井の親友にも伝えてきました。
それこそ福井時代には日下部太郎が客死のことも
当時の青年会議所とともに、まとめた経験もあります。
日下部太郎は国費留学生最初の人物です。
おそらく、明治大学の創立者:矢代操もいました。
ところが最近、大学同期から「工手学校」の存在を知りました。
そしてその開校には、渡邉洪基の存在を知り仰天しました。
東京府知事は由利公正だけと思っていたら、渡邉洪基も府知事でした。
それどころか東京帝国大学の初代総長まで努めたようです。
早速、福井の親友にも伝えたら彼も存在を知らないとのことでした。
当時より、文部省は学校新設には巨大な権力があったようです。
私も公立大学は総務省管轄であり、国立大学は文科省管轄、
この厳しさは、正直目に余るほどの体験もしてきました。
教授認定においても教員教授と学者教授があります。
やがて2018年の大学問題には新たな制度も出てくるでしょう。
ところが渡邉洪基はそれなら私立学校制度を推し進めた中心人物でした。
また工手学校こそ、現代のエンジニア養成の私立学校であったことや、
その創立概念には現代が失っている壮大な思想を知りました。
1800年代はその月毎の大事件、つまり日本国家が明治維新が、
小説で歪曲していることを明確にして私なりに発信してきました。
そういう意味では、ふるさと福井には渡邉洪基という偉人の存在を
改めてしっかりと伝説にしなければなりません。

* 「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」
* 『行学はデザインにあり・「KK適塾」を開始します』
* 『日本の繊維産業、その先鞭をつけた人たちの偉業に続け』
* 「大阪大学の歴史の一つに、藤野恒三郎の存在」
* 「ふるさと偉人の「ち」の系譜を再興したい」


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『1930年、すでに木製玩具は商品になっていた』


   


     6月 18th, 2017  Posted 12:00 AM

私は木材である「木」には、
人間に対するあたたかさやヒーリング性などを根本的に疑っています。
当然、木材性の住宅はこの日本では自然との適合性はあります。
コンクリート住宅や工業用素材では実験マウスが数多く死亡も私の知識です。
したがって、木製玩具はほとんど疑ってきました。
金沢美大で非常勤時に卒業制作で動物形態での教育玩具がありました。
このプレゼで私は怒りの評価経験があり、次の発言をしました。
「動物の手足や首をバラバラにする、しかもそれが教育玩具だって?」と。
「・・・・・?」
「そんな教育を我々は受けてきたのか?」。
そうすると、柳宗理先生は微笑んで、
「川崎、私が言うこと代弁したなぁ」。
ただ、私が認める唯一の玩具があります。
ずーっと探してきました。
それは1930年代に有名ブランド商品として、
木製の猫を表した親子二世代が実現した商品でした。
メゾン・ルイ・ヴィトンが創業者の孫であるガストン・ルイ・ヴィトンと
その妻とにインスパイヤーされた商品であり、
当時のル・モンド紙でも「アラジンの魔法の洞窟」とまで評されました。
ここまで高評価のモノが私が生まれる20年前に存在していたのです。
木製玩具は木肌そのまま、あるいはオイルステェイン仕上げ、
カラー塗装、こうした仕上げが重大です。
塩ビシートで当然な「木目調素材」があります。
私もステレオやシステムコンポーネントのラックデザイン設計で、
この開発をしていて、塩ビシート開発では随分と現場の職人さんには
叱られた経験があります。
「本物の木目は知っているのか?」と。
私は特に南洋材が好きで、ブラジリアンローズ木目を塩ビシート開発では、
本物を知らずに、当時は手描きのレンダリングを工場に発注し叱られました。
そこで、東芝のデザイン資料保管室で、
おそらく100種類の木目を暗記したことがあります。
だから、家具店では本物か、木目プリント材かは今でも触ればわかります。
デザイナーとして、自慢できることだと自負しています。
そこで、木質の椅子などではこういう素材選択や木目調仕上げは・・?と、
よくよくうるさくなってしまいます。
特にスピーカーシステム木目仕上げはオーディオ見識には不可欠なのです。
それは木材質で音響の反響や吸音は、明白に変わるからです。
ともかく、この玩具を手に入れたいのです。触ってみたいだけです。

* 『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』
* 『音場空間を再調整再整備し直しました』
* 『民藝の美とデザインの美は区分分別されていた』
* 『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』
* 「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


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『日本文具大賞の「機能部門」と「デザイン部門」って?』


   


     7月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

2016年・第25回「日本文具大賞」の発表と表彰式が行われました。
日本文具大賞はこの時期の大きな行事になっています。
今年も審査委員長として概評と審査基準や文具業界へのお願いをしました。
年毎に応募は増え、今回はwebsiteで事前調査を各審査委員がすませて、
その後、現物審査をしました。
これはまず個々人の主観性で評価され、
それが、審査会ではぶつかり合って客観性に変わります。
つまり、デザインにとって最大に重要な客観的な評価が成立します。
この審査は二つの部門があります。
「機能部門」は、
常にデザインと言えば「機能的が美しい」という常套句がありますが
これをもっと広範囲でとらえ直しています。
性能=モノの性質の能力と、
効能=モノが社会的・時代的に存在している意義や効用と効果が問われ、
結果、性能と効能の可能性が文明的な史観で
「機能性」という可能性になるのです。
「デザイン部門」は、
機能性にさらに美学性が将来性を持っているか、までが問われるのです。
簡単に言い切ってしまえば性能性という誠実さと効能性という信頼性が
社会的に存在を許容しているかどうかまでが確かめられているのです。
特に「グランプリ賞品」には、
誠実さと信頼性に美しさという倫理観が適合していく未来性を
求められているということです。
本賞の商品は、毎年必ず大ヒットになることは間違いありません。
そしてこの審査会が
「各商品や各メーカー事情を詳しく組み込んで評価している!」
という理由から、審査会自体が褒められることがあります。
これは審査委員会の伝統的な誇りであり自慢だと思います。
賞品市価は200円から2000円、高くても5000円のモノですが、
わが国の「文具は世界一」であることを今年度も再確認できました。
ただし、今回は各社のwebsiteを見ましたが、
残念ながら、websiteには
企業各社の特色ある美しくてインターラクションが
より必要であることを付け加えて述べました。

*『日本流見本市の創出=日本は常にホスト国であるべき』
*『売れるより売る文具大賞グランプリ』
*『「機能」と「デザイン」=日本文具大賞の審査基準』
*『『第22回日本文具大賞』を発表しました』
*『アートからの革新=フォンタナの作品から』


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『もう絶対に逢えない、今日は母の命日』


   


     6月 5th, 2016  Posted 12:00 AM

この日早朝、母は逝きました。
47年間のうち、21年間は私だけのための生涯だったと思います。
命日を迎える度に、自分が生きてきた目標をかみしめなおします。
しかし、3度は重篤状態になってきた経験からは、
いわゆるあの世で出逢うことは絶対に無いというのが最近の結論です。
どうして、自分があの母の下で育てられてきたのだろうかということは
哲学のまず基本的な命題だと思ってきました。
一浪をして、正直に医学部進学よりも美大に行きたいと言ったとき、
母は「医者になることは全く似合わないから辞めなさい」と言いました。
美大進学が決まれば当時流行になったVANのスーツを買ってくれましたが、
同時に、ブレスレットと指輪も母は私に買い与えてくれました。
厳格な父には絶対に叱られると思って拒否しましたが、
「美大に行くなら、これくらいは当然。そしてもっと男らしく」
ということでした。
「赤い血を見るより赤い絵の具の方が楽しいから」でした。
しかし、ちょうど父は警察の刑事部門の幹部となり、
毎朝、黒塗りの車で敬礼されて出勤をする立場になり、
母は癌を宣告されました。
ところが当時は、本人には言わずに父と懸命に癌治療を考えました。
父からも「和男、大学を辞められるか?」と聞かれました。
「全ての財産を使ってでも直したい」と父は言いました。
私は即座にOKをしました。
母の死後、遺言が出てきました。死の10日前に私宛のものでした。
「あなたは、もう福井に帰ってくることはないから、
世界で活躍できるデザイナーになりなさい」という遺言でした。
大学を出たら地元の短大で美術を教えると言ってきただけに
大きなショックを受け、やれるまでやろうと考えたのです。
美大を道楽学校としか私に言わなかった父に、
大学人になって、医学博士号を受けた報告をしました。
「貴方への借りはこれで返した」と。
父の葬式の夜に、
「結局、父はデザイナーになった私を許してくれなかった」と言いました。
父の友人は言いました。
「何を言っているんだ、酒を飲むと君の自慢しか言わなかった」。
それを聞いて、やっと父との別れに私は号泣しました。

*『母と死別して45年も過ぎてしまいました』
*『指編みを思い出しながら』
*『63歳まで生きました・母より年上です。』
*『大好きな色鉛筆・最近のお気に入り』
*『美大生1年のときに私の最初の社会的なデザイン』


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3月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 29th, 2016  Posted 12:00 AM

3月29日 仏滅(庚戌)

歳老いたなら、
やってはならないことがある。
しかし、これは気にいられたいという
腰抜けの決め事だ。

説教・昔話・自慢
説教とは、経験からの判断であり、
昔話は、その経験の文脈だ。
だから
自負心としての責任の表現こそ
自慢である。

嫌われようが、
私はそんななれ合い主義を拒否し
「沈黙」をする。

川崎和男の発想表現手法


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『まだまだ進化するシャープペンシル、だが作法がない』


   


     7月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

ある大学の教授が、筆記具使用を調べた結果、
ほとんどがシャープペンシルであり、
鉛筆使用がたった1名しかいないという記述を読みました。
私は絶対に鉛筆派であり、
意識してシャープペンシルを拒絶してきました。
図面であっても、鉛筆にずーっと拘ってきました。
鉛筆を削ることと墨をすること、
これは私にとって文房具の存在意義と考えてきた根拠です。
ところがまったく削らずに使えるとか、0.5mm以下まで登場すると、
シャープペンシルルに興味がわきました。
シャープペンシルの存在意義は格段になってきたようです。
そして、とうとうあの細いペンシル芯が折れない、とまでなると、
<ホント?〜>となって、自分でも使い始めてしまいました。
シャープペンシルを日本で最初に使った大名や、
それが元来は鉛筆からの発想や、
シャープペンシルと鉛筆の歴史的な競合研鑽ともなれば、
もはやシャープペンシルは見過ごせない存在になりました。
海外からのゲストや海外出張時のお土産には、
私は必ず日本の文房具を持って行き、
「日本の具体的な素晴らしさ」をさも、自分が開発者のごとく、
自慢げに話ができるものであり、大絶賛を受けるのです。
おそらくここからまた新たなシャープペンシルが進歩していくでしょう。
それこそ、
日本ならではの文房具技術の革新を生み出していくこと明らかです。
そこで、私なりには、
シャープペンシルの技術進化は
もっと文具の「作法」として成し遂げる文化があるでしょう。
現在のシャープペンシルには、技術だけからの解放を求めます。
ともかく、シャープペンシルには
デザインの勘違いが未だにあることは明らかですが、
それでもこの進化結果は
次世代のペン文具を想像させることは間違いないでしょう。


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「2/14のチョコレートは天然とヒーリング」


   


     2月 16th, 2012  Posted 12:07 AM

チョコレートは大好きです。
今や様々なチョコレートが満ち溢れているわけです。
しかし、人間の味覚感覚は
子供の時に方向付けられることは確かです。
14、15歳に味覚は決定してしまうとさえ言われています。
私にとってチョコレートは明治の板チョコが基盤になっています。
最近、亀倉雄策デザインが変更されてしまいました。
デザイナーとしては正しい変更だと思っていますが、
ちょっと淋しいことです。
高価で有名なチョコレートより、
私のチョコ味覚はこの板チョコに戻ってしまいます。
バレンタインもワイフには「明治の板チョコ」を要求します。
さて、今年は珍事発生。
もらった板チョコには、「これは食べられません」という表記あり。
ワイフに、「おい、嫌み?」って聞いたら、
「なぜ、こんなに高いのだろう大きいからかな?」
って思っていたという回答。
(超天然!に入り込んでいる)、という次第です。
すべて「ゲーム」でした。
「食べられません」ってこんなにはっきりラベルがあるのに。
というわけで、昨日、「食べられる板チョコ」になりました。
まあまあ、今年の思い出というか、
天然である健全さにホッとしたバレンタインでした。
プレゼン会議の後に、
ワイフは男性陣にはきちんとチョコレートを配ってくれていました。
「おお、帰宅したら妻に自慢できる」という具合で、
緊張感バリバリの会議終了時、
やわらかなヒーリングムードを準備してくれました。

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