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「民主主義の破壊者は市民運動家である」


   


     4月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

自由・平等は市民生活の基本です。
そして、平和で健康を実現するという理想主義。
17、18世紀、英・仏・米ではこの理想主義を
連帯して、政治への抵抗と擁護を図ろうとし、
それが市民革命という経験となり、
市民運動の原型だったと考えます。
現代になると、この経験は巨大に拡大します。
「市民的自由」という概念的武器は,
言論とデモ行進とハンガーストライキ、マスコミ支援など、
暴力性の否定が世論を味方にすることができました。
私はこうした歴史から市民運動家という職能が生まれたとき、
市民運動は自由権と生存権の訴求が、
国際的から地域的へと展開するとともに、
その連帯性をさらに資本主義体制の背後支援によって、
その「市民運動家」を変質させたものと考えています。
特に、日本での市民運動の展開は、
大正デモクラシーなど文化性がありながら、
資本主義否定があったことから弾圧され、
以後、市民運動展開は大幅に立ち遅れたと思っています。
日本での市民運動は、その指導者のイデオロギーによって、
そのすべてが「反体制運動」となり、
時には、住民運動や学生運動と重なりその利得配分での連帯性を隠避し
すべからくが「反体制的」よりも「反権力的」な性向を有してきました。
したがって、この市民運動家からの代議員職能は、
あたかも市民の代表者であって、
市民の声を代弁しているという幻想が張り付きました。
しかし、この幻想こそ、
その市民運動が暴力的イデオロギーを臭わせていても、
偏重した資本主義に擁護されているものがほとんどです。
結果、市民運動家という存在が、
民主主義をその根本で破壊しているものと考えています。
したがって、市民運動家からの国家的リーダーには、
国家的な政治実務能力があるわけがありません。
そして、市民運動や住民運動で語られる「反権力性」は、
こうした人たちが体制側になったとき、
決まってより強固な「権力武装」をなしとげてきたことは、
人類の歴史に明らかだと判断しています。
これまで、市民運動が主張の核心としてきた、
「反戦・反核・差別・情報公開・自然保全」には、
スローガン性やアジテーション性はありますが、
それ以上の実務的な理想主義実現企望は欠落しています。
これまで私が市民運動家で、首相や首長となった人物に、
思想的共鳴をしたことは全くありません。
正直なところ、政治家としては、
嫌悪と軽蔑感を持っていることを述べておきます。
市民運動家こそ、民主主義を破壊していると考えています。

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