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Posts Tagged ‘自由主義’


『独裁性と自由主義と民主主義を守るために』


   


     5月 21st, 2020  Posted 7:36 PM

ペスト、コレラ、スペインかぜと感染症100年周期説につながる
「新型コロナウイルス」の猛威に、長期戦での感染症対策の公衆衛生と
「新しい生活様式」を政権が提唱しています。
「アフター・コロナウイルス」の「経済」活動は
元通りになるということは起こりません。
様々な問題点の対象は、自由主義と民主主義です。
民主主義では、49:51ゆえには、もっと規則が必要です。
それこそコロナの「生物兵器」説を私は調べていますが、
もはや「兵器」となる情報操作、ネット世論操作が、
SNSのようなインフラを通して民主主義を壊しているとも考えています。
コロナという生物兵器と、SNS等への情報兵器が、
第3次世界大戦での主力であり、
すでに起こっているのではないでしょうか。
「新しい生活様式」で、オンライン化が進む一方で、
「ボット」「トロール」「サイボーグ」などを、
これはズーッと私はすでに「エイジェント」と
F-FORMAで提案をしていました。
広告出稿、インフルエンサーと作戦がすでに無くなっているのです。
私としては、私を非難する川崎ボットなどの出現や、
SNS上での個人戦は経験済みであり、必ず、闘っていましたが。
独裁政権、政権維持や、侵攻、侵略のための、
ネット世論操作が、自由主義の大原則である
言論や表現の自由といった基本的人権を庇う民主主義の国から
拡大したSNSに「兵器」として様々な作戦をしかけているのです。
法規制も、法の罰則も無いインターネット追いつかないままに、
中華的「独裁性」との「経世済民」との闘争になるでしょう。


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『倫理観の原点、その詳細の要点を語り継ぐ』


   


     10月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

自由主義はどこかで壊れてしまっていると私は思ってきました。
最近、その明白な道徳性、倫理観が残ってたことで再確信しました。
それは美しさを確かめる自分の職能感につながっていたので、
私が正面から喧嘩を売っていってもそれは正解だったと思うのです。
あの3.11大震災時に、
日本人は世界が注目するほどの礼節さがあったと絶賛されましたが、
それはメッキが剥がれてることを日本人自身は自覚しているはずです。
3.11が明らかにしたことは、敗戦を経験しながら、
理想的な国家を再建してきたはずですが、全てを無くした真実です。
地球環境が存続性を危うくしていること、気候変異があること、
世界を破滅させるかのような感染症の増大、そしてテロ連動です。
それならば、日本人は武士道商売道には連綿と継続されてきた
原点のさらなる詳細と詳説がまとまっていたことを思いだすべきです。
特に素晴らしい言説は、やはり、武士道の家訓に見事でした。
これらが壊されたのは、敗戦でのGHQ通達がありましたが、
もっとそれを加速し膨大化したのは、自虐史観としたなんでも否定の
左翼思想であったことは歴然としています。
私は、家訓の代表に「朝倉孝景条々」17条を選びます。
この家訓=条々は武田家・上杉家なども現代に生きる慧眼思想です。
まず、すべての家訓には、質実剛健さと質素倹約が根底にあります。
質実剛健を戦意昂揚のものとか、質素倹約の豊かさを否定とした
左翼思想は、現代の子どもたちの学力さえも成長を止めています。
女性大臣が、左翼的な教育が学力低下と関係性ありは正当でした。
しかし、未だに、もはや「御成敗式目」から「家訓」を否定する
そんなグループに訂正を余儀なくされている現実がまだ残っています。
私は、この家訓は、企業理念として、商業経営の効用と効果の指標、
企業存在を社会的な正義と語り継がれていくことを期待しています。


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『資本主義からの逃走』
  「用間=インテリジェンスの核心、その操作効用」


   


     9月 23rd, 2010  Posted 1:07 AM

二つの用間フィクション
私は、資本主義は終焉していると考えています。
だから、情報は情勢報告、すなわちインテリジェンスであり、
策略・謀略があまりにも見事な「情報化社会」だったということです。
それは国家市場主義であり、一党独裁、
大衆をあたかも情報操作で資本主義とみせかけているものかもしれません。
となれば、資本主義そして自由主義、それらを裏付ける民主主義の否定論理が働いています。
これはフィクションと考えてください。
なぜなら、ここには私が創作しようとしてる二つの矛盾仕掛けがあります。

一つ目は、私自身、資本主義・自由主義・民主主義には大きな疑念を持っているからです。
自由主義という情報操作が、あたかも民主主義を理想主義の上位概念にしてきました。
それは本当に正しかった=正義だったのだろうか、と考え込んでしまいます。
自由主義は拘束主義を、自由主義保全として正当化しています。
自由主義に裏付けられている平等主義も、明らかに社会差別を制止することはありえません。
民主主義を防衛するための戦闘=暴力行使への異議申し立ては当然の事実として
現代史をつないでいます。

二つ目は、以上のことをそのまま、新たな社会主義としての国家的な統制論としています。
それは民主主義的な資本主義ではなくて、あたかも資本主義的で自由経済性的な策略操作です。
さて、私のこのフィクションが、現代日本を取り囲んでいるのかもしれません。
だとするなら、情報=インテリジェンス=用間の戦略論がとても活性化している、
こうした想像力をあなたも持っておられるでしょうか?、ということです。
わが国の「情報」=インフォメーションから隔絶してみる必要性を
このフィクションに託しておきます。


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『資本主義からの逃走』
「マスメディアの傲慢さは権利だけを主張、義務に気づかず」


   


     3月 26th, 2010  Posted 2:05 AM

Blog=日記形式
私はブログが流行りだしたときにブログが「日記形式」に、
偏在して拡大していくことをかなり激しく否定しました。
そのおかげで、私も相当に非難されました。
私には、ブログが「日記形式」だけになると、
日記形式の「日記内容」が、プライベートの確認になる、
そんなふうに危惧し過ぎたのです。危惧でした。
Privacy
プライベート、すなわち「プライバシー」という定義は、
20世紀、特に大戦後はその定義は幾たびも変貌しました。
特に、法律定義として、法律術語として書き直されました。
だんだんと定義内容は複雑にならざるをえなかった言葉です。
プライバシーとは、
元来は単純、「他人から観察されない状況や状態」でした。
ところが、他人と自分との関係が膨らんでいくのです。
「他人から観察されない権利であり、
自分からの発信する情報、
その情報すら他人から保全される、
発信することも受信することも、社会的な観察・監理などから
まったく自由で解放されている」、という
きわめてこれこそ「民主主義」という極論に至ってしまったのです。
私は、このプライバシーやプライベートの権利主張は、
完全なる間違いだったことを指摘します。
完全なる間違い
「完全なる間違い」と断言するのです。
おそらく、この一方的な見解に、
またまた批判や非難が集中することでしょう。
構いません。受けてたちます。
なぜなら、「民主主義の偏り」は「自由主義」にあるのです。
「自由主義的な権利の主張」、あるいは、
権利の主張が自由主義、これこそ大きな間違いなのです。
そこに、「マスメディア」こそ「民主主義の代弁者」という、
とてつもない思い上がりが重なってきたのだと思います。
したがって、
新聞・TVなどのマスメディアは、
個人のプライバシーを、「知らしめる権利」とまで置き換えました。
有名な世相評論家の言葉があります。
「私は、正論で評論を書くのか、
あるいは、
反論で評論するのか、は、マスメディア企業方針で」です。
私が、プライバシーがブログで「日記形式」に偏ることを
最も危惧したのは、
このプライバシーをマスメディアが攻撃する、
そんな権利を宣言されてはたまらないと思ったからでした。
ところが、逆転したのです。
理由は簡単でした。
権利と義務
ブログの日記形式には「発言する権利の前に義務」をつくしていたことでした。
どのブログも、日記形式と内容は自分自身の意見吐露でした。
となれば、マスメディアは彼ら自身の「義務」にさえ気づかず、
「権利」ばかりを「表現」してきたことだったとも言えます。
これこそ、マスコミの傲慢さと暴力性にまでつながっていたのかもしれません。


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『資本主義からの逃走』
 「社会主義実現のための市場経済論の見事さ」


   


     2月 23rd, 2010  Posted 10:00 AM

生産力強化への
学びとしての模倣
「南巡講話」によって、「市場経済論」は、
多言語・多文化である中国在住大衆=「中国人」を、
統一する見事な教条主義であり、共同幻想付与論でした。
日欧米は、資本主義に立ち入ってくるこの論理の策略を
見過ごしていたのではないでしょうか。
無論、中国での反体制者たちへの、
「弾圧非難」の正当性こそ、
自由主義であり民主主義の本意意識だと、
批評したに過ぎなかったのではないだろうかと思います。
以後、チベットへの侵攻弾圧、国内での統制監理の強化は
共産党一党支配を専制政治を圧倒的なものにしました。
大きく見つめ直せば、三つの根幹があります。
● 生産力を「個人化」させて、収奪と富の集中支配
●「個人力」をあたかも自由さだと情報統制の徹底
● 国家権力=一党専制支配力は軍事力の増強へ結合
この三つは、生産力強化のみが経済と計画の基盤という、
見事さだったものと考えざるをえません。
具体的に言い換えてみましょう。
生産力は「商品価値」づくりです。
その「商品価値がもっともアイコン性あるモノ」を選別、
すなわち、日欧米「ブランド価値の模倣」です。
これはわが国も、
敗戦直後にモノマネ・コピーの経験に重なります。
「生産力の強化育成、その即効性」を得る手法は、
産業発展史では同等です。
「あなた方は、モノマネ・コピーは学び構造ですから、
どんどんやりなさい。そして苦情は国家が謝罪をします」。
こんな中国の市場経済の裏構造が見え隠れします。
そこに、米国での「金融工学」には、
大きな失策がありました。倫理観の大きな欠損です。
倫理性は中国同様だったものと判断せざるをえません。

北京オリンピックと上海万博が実現します。
この二つが、
市場経済論と一党支配軍事力統制はまだまだ不明ですが、
明確に成功したのは、日本からの収奪は侵攻しています。


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