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「なでしこJAPANと国民平等意識」


   


     7月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

女子サッカーチームの優勝。
大和撫子のひたむきさは、
世界中に大きな感動を与えました。
私は、現状の国難に咲いた日本人の華として、
その精神性へのすがすがしさに共感します。
さらにこれを強く明記しておく必要性を覚えます。
つまり、日本中が驚喜し感動し感激し、
そして彼女たちの活動を心底から感謝する「きもち」こそ、
日本人としての平等観であり日本人の存在性を示唆するものです。
しかしこの平等観の認識を日本は自虐史観で欠落してしまいました。
最大の原因は民主党政権の政府機能がまったくの無毛さ、
これを引き込んでしまったことが証拠です。
よって、国民は政権にも政府にも期待どころか、
不信感しか持ち合わせなくなったことにつきます。
彼女たちが「世界一」であることを、
現政権の閣僚達が賛美してはならないと意地悪に考えます。
それは彼ら自身の政策基盤理念を放棄したことでもあるわけです。
「世界一」を公認しない政府の重責を改めて問い直します。
彼らには存在意義と存在効能性が無いことを示しているはずです。
いわゆる左翼系・社会主義的なイデオロギーには、
最初は必ず平等性をうたいあげ、支配権力を手にした途端、
平等性を公然と無視することは、歴史が証明しています。
「暴力装置」というレトリックを被せた閣僚の言葉が耳鳴りします。
この発言こそ社会主義性が独裁制に変質することそのものなのです。
サッカー競技をサポートする人々は、
そのきもち共有感の象徴には国旗=日章旗を掲げます。
しかし社会主義的傾向者には、国旗である日章旗を無視します。
同一国家の国民の平等性を確認する手続きは、
言語=日本語を共有していることが大原則であり、
「なでしこ」という言葉・言語感覚は日章旗と同等であることです。
国旗を法律で制定し直す国家などありえません。
自虐史観の援用と適用が、
新エネルギー論理論争にまで展開してきました。
須く、支配層としての機能だけを主張する政権は打倒すべきです。
私たち国民は、「撫子」のごとく風に揺れてはなりません。
即刻、この政権打倒によって、平等意識を獲得しなければ、
この国難解決にあたって、さらに大きな哀しみに突き落とされます。
ペンは剣よりも強い時代は過ぎ去りました。
今、確実なことは、具体的に勇気を与えてくれた彼女たち、
この存在への賞賛を糧に、感動の共有でしょう。
これこそ国民の平等感覚そのものだと思います。
大きな哀しみがすでに始まりつつあります。

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