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Posts Tagged ‘表意性’


「ハングル=表音文字・その根幹にある意味性」


   


     7月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

パソコンが登場したとき、
韓国語・ハングルが世界で最も有効な文字体系と言われました。
私は、「ことば」と「かたち」の相対論的な思考を
一つのデザイン手法にしています。
日本語・かな文字:漢字=表意文字→象形文字については、
かなり辞書的に覚えてしまっています。
アルファベットも本来の原典であるヒエログラフ、
26文字はすっかり記憶しています。
アルファベットは表音文字という認識がありますが、
本来は象形文字と考えるべきです。
まさか、ハングルにまで及ぶとは思ってもいませんでしたが、
スタッフに韓国の子がいて、徹底的に調べ直しました。
そこで、このような図解から
ハングル文字を「形態論」として組み立てる可能性がありそうです。
五行思想はそのままハングル文字要素に適用出来ると考えています。
無論、韓流ブームは私にも届いていますから、
「少女時代」か、「KARA」か、という論争は学生と大議論にもなります。
私?
そりゃ「少女時代」でしょう。
ということも含めて、
やはり隣国ですから、
韓国語はマスターしなければ行けないのかも知れません。
そういえば、昨年、一年でフランス語会話マスターを
学生たちに宣言しましたが、細々と続けている次第です。
だから、宣言はしませんが、
韓国本国よりもハングルがどう構成されて、
表意性が相当にあるかは、
絶対にマスターしておきたいと思っています。


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「資本主義からの逃走」
     「心を諳に、そうして意は巡る」


   


     1月 13th, 2011  Posted 12:00 AM

音と言と諳記
「音」と対称する言葉。
それは「言」と言われてます。
そして、この二つが心の中に存在。
それが諳誦の「諳」ということになります。
現代表記は「暗誦」になってしまいました。
漢字表記が表意性よりも表音性で変えられていますから、
いわゆる旧漢字が無くなって、本来の「意」味が変貌してしまうのは残念なことです。
漢字を確認するときに、旧漢字との照合は大切なことだと思っています。
さて、「音」は、口内に刃物が向けられているがゆえに、
明確な発音ができない、「もぐもぐ」した発音になります。
「音」には明確な発音の言葉性はありません。
しかし、「言」は、その刃物をはき出したように刃先が外に出ています。
したがって、言葉は刃物のように明確で、
その明確さ故に人を傷つけるということにもなるのかもしれません。
言葉は人を傷つける性質はここにあるのでしょう。
「音」と「言」は対極であり、対称性があるということです。
「諳誦」とは、諳記=暗記するために、
まだまだ明確でないことを意識化していく作業と考えることになります。
諳から識へ
「意」は古代インドでのmanasや英語でのmindに表れているように、霊性や生命性から、
やがては仏教や哲学の基本「識」(=vijñ ā na・ヴィジュナーニャム)につながっていきます。
その前提に「諳」が意の中で巡り巡っている気がするのです。
結果、「意識」が形成されて、私はこの意識の存在が「生」ということだと認識しています。


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『資本主義からの逃走』
 *「かたち=か・かた・たち・かちという代謝性」*


   


     12月 15th, 2009  Posted 9:00 AM

かたち」という言葉を身体化する「いのち」が、
多分、私の生涯になるということは明確です。
次のマトリックスが、私の身体を包んでいます。
091215katachi1

そして、
重要なのは、「か」・「た」・「ち」という平仮名です。
これらの平仮名には由来の漢字=表音性と、
漢字=表意性が日本語には備わっています。
そうした、1文字の組み合わせが、
それぞれの意味と発音によって、
包括性=inclusive性があり、「かたち」の創出である
デザインの意図は、この「包括性」と「要素」に、
根源・由来・原義から効用と効果が求められています。
091215katachi2

「か・かた・かたち論」は、代謝建築論によって、
「かたち」、日本の美学機能を語られました。
私も、学生時代にこの「思考」によって、
デザインの「方」=方向を教えられました。
それからデザイナーとしての経験と医学にて、
「代謝」という「身体生理」で「かたち」の
隠喩性をすべて解放できたと考えています。
いわば「代謝デザイン論」がまとまりました。
結果、私のデザイン、デザイン造形での、
性能性・効能性・機能性を「実務」効果として、
究極の「人工臓器」にまで「かたち論」になりました。
「実務の無い」デザイン論は、「論」でもなく、
まして「学」でもありませんが、
昨今はそうしたことを「デザイン学」と言う傾向です。
こうしたことがデザイン教育だというのは、
「罪悪」であり、「美学」は決して生まれません。


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